作家・坂東真砂子氏がヒットラーものの映画を見た時の感想として述べた言葉に「恐怖は人間の最悪な部分を引き出す」がある。確かに、人間にとって、生理的嫌悪感が募ったものや、わけのわからないものに対する恐怖は、人間の理性を破壊するもっとも大きな引き金となりうる。
例えば。
私は、ゴキブリが大嫌いである。 あの黒くて油光りしている羽を見ただけでぞっとする。生理的嫌悪感である。
そもそも、私がゴキブリが嫌いになったのは、10代の頃、自室に出たゴキブリを追い払うため、雑誌を丸めて振り回したところ、ぶーんと飛んで顔に止まられた、ということに由来する。
しかしながら、たかだかゴキブリ1匹である。理性を駆使して考える限りでは、人間、それも大の大人を殺せるほどの力は持たないはずである――よほど、強烈な伝染病でも媒介しない限りは。
それでも、先の「恐怖は人間の最悪な部分を引き出す」に喩えるのなら、「ゴキブリ、滅びるべし」となる。事実、それからの私は、いつも手の届くところに、ゴキブリ専用殺虫剤と、熱湯をいれたポット、そして中性洗剤を常備している。ネズミ・ゴキブリ対策万全の造りである、今のマンションに移ってから10年近く経つが、それでもこの3種の神器は手放せない。
結局のところ、私はいまだにゴキブリに対する「恐怖」という感情に捕われ続けているわけである。
さて。
錬金世界では、軍上層部による内乱や対外戦争が常に行われているが、アメストリスがイシュバールを攻撃した理由の1つに、この恐怖が存在すると思う。
かつて、エドがイシュバールの子どもたちに対して口にしていたことだが、「オレのこの腕が怖いか?」と訊ねている。子どもたちは力いっぱい否定するが、エドは『オレもお前達の赤い目が少し怖い。スカーは初めてあったイシュバール人だから、もっと怖かった。』と説明している。
その後、門の向うに行くことになったエドは、ホーエンハイムと一緒に暮らすことになる。
この世界に飛ばされて一番幸いだったことは、やはりホーエンハイムがそばにいたことだろう。もちろん、生活面での苦労も考えずに済んだこともあるが、こちらの人間に対して、さほどのパニックも怖い想いもしなかったのは、ホーエンハイムが自分の息子であるエドのことを周囲から守ったこと、そして、こちらの人間と門の向うの錬金世界の人間との違いをしっかり認識し、エドにいろいろな形で伝えたことがあったのだろう。
つまるところ、『こちらの世界の人間も、あちらの世界の人間も、同じ人間だ』ということを、理性としてエドの中に叩き込むことができたのである。
これが仮に、エドだけが門の向うに飛ばされて暮らしていたらどうだっただろうか。片手片足がない、住むところもない、知り合いもいないまま、食べていかなければならない。生活面でも大いに不自由するだけではなく、エド自身がこちらの世界の人間としては珍しい金色の瞳をしている。周囲からの迫害を受けることもありえただろうから、投獄され、殺された可能性だってあるし、逆にこちらの世界の人たちを攻撃・殺戮を繰り返す凶悪殺人鬼になっていた可能性すらあるのだ。
エッカルトがエドと違っていたのは、錬金世界の人間とこちらの世界の人間に関する違いを、正しく教えられる人間が回りにいなかっただけでなく、その小さな差異を大きな異変の前兆のようにとらえ、大いなる恐怖心を煽るような人間ばかりがいたからだろう。事実、彼女は門の向うの世界のさまざまな出来事や人間に対して、畏怖の感情をまず抱いてしまった。それは、たまたま――たぶん、ホーエンハイムが何らかの錬成で擬似的な門を作り出した際に、門の中から――飛び出した原爆を手にしてしまったこともあるからだろう。エッカルトはホーエンハイムから、この爆弾に関する知識を聞いたことで、その威力・破壊性について、並みならぬ恐怖を感じたに違いない。もちろん、彼女自身が、優秀な科学者であったからこそ、そのことが実感できたのだろうが。
また、エッカルトが生まれ育った時代は、周囲の国々が、あちこちで戦争したり、内戦が勃発したりと、なかなかきな臭い状況でもあった。同時にヒットラーの信奉者でもあったわけだから、『異分子を排除する』ことに対する抵抗感も殆どなかったのだろう。
余談だが、ヒットラーがなぜユダヤ人を排除するために懸命になったかと言えば、彼にとってのユダヤ人は、ドイツという国家を奪う存在であるという強迫観念――すなわち恐怖感に捕われたからである。
映画の中で、毒ガスにやられて顔半分が変形した男が、エドに対して「お前達ジプシーは、この国に入り込み、金を、仕事を、この国を盗み取っていく!」と怒鳴るシーンがある。同様の感情を、ヒットラーだけでなく、ドイツ人はユダヤ人やロマに対して持っていたに違いない。いくらそのようなことはありえない、と思ったとしても、それを完全に覆すことを実証できる存在が、ヒットラーの周囲にはいなかったし、諭す人もいなかった。そして、同じ様な心理状態にエッカルトもいたはずだ。
また、錬金世界の人間が、特殊な――まるで魔女狩りを逃れた人間の集団のような印象を持った可能性もある。エッカルトとつながりの深い錬金術師は、ホーエンハイムである。もちろん、最初のうちは、ハウスホンファーと、なにやらオカルト的な怪しげな研究をしている、よく素性のわからない男、という印象が強かったに違いないが、ホーエンハイムから錬金術の知識を聞いたことや、門の向うの錬金世界のことを知ったことにより、エッカルトにとっては、錬金世界の人間というのは、非常に恐ろしい存在であると誤解してしまった可能性がある。
私たちは錬金世界の人間といえど、その大多数は錬金術が殆ど使えないことを知っている(ロケット開発の技術者が、ごく一握りしかいないというのと同じように)。しかし、『たまたま身近にいた』ホーエンハイムが、『向こうの世界では、錬金術が発達し、錬金術師が数多くいる』と口にしたとき、エッカルトが『その錬金術師の技量は、ホーエンハイム並みだ。』と誤解したのであればどうだろうか。
門の向うの人間すべてがホーエンハイムのような優秀な錬金術師ばかりが揃っていて、錬金術により、ありとあらゆることを思いのままに操ることができる人間集団であるとすれば、非常に怖いとだけ思ったとしてもおかしくない。いわば私たち現代人が、すべての宇宙人に対して漠然とした恐怖を抱くのと同様である。
だからこそ、『私はこの国を滅ぼす!』、『怖いから。人は自分と違うものを拒絶し、畏怖する。』と口にし、錬金世界の人間を、人間として見なさなかった。だから、錬金世界の人間であるホーエンハイムに対し、エンヴィーに咥えさせるといった蛮行に出、門の錬成が済んだとたん、エドをピストルで撃ち殺そうとしたのである。
さて、映画に登場したエドは、この時代のこの世界には非常に珍しいリベラリストであった。だからこそ、ノーアが、自分の民族としての誇りを取り戻して『自分らしく生きる』ことを選ぶことができたのだと私は考える。この世界では互いが異分子であるという共通項が、一時の恋愛感情につながった点は多分あったとは思うが、それに飲み込まれて流されてしまうという結果に終わらなかった。それは、エドの精神がノーアに対する自立心や独立心を育てるように働きかけたのだと思う。小さいながらも(エド、ごめん!)人を育てるのには非常に適した人間だったのだ。
後に発売されたプレミアムコレクションでは、エドはずっと原水爆について(使うことを反対する立場からだろうが)活動してきたことが示唆されている。だからこそ、日本という、世界で唯一原爆の被爆国になった国とつながりが出来、日本に住むようになったのだろう(多分、超高級・ケア付きマンションか何かだろうけれど。キッチンのスペースがなさそうだったし)。
そして、エドが生涯を通して原水爆反対運動を行っていたのは、人間にとっての『恐怖』というものが、どれだけ厄介な感情であるかを、今の日本人にも伝えなければいけないと思っているからかもしれない。