中村元訳出「神々との対話 サンユッタニカーヤT」
第T篇第三章剣 第五節敬わるべき人
[神いわく]
「なすべき事をなしおえ、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、「私が語る」と言ってもよいのでしょうか。また「人々が[これこれは]<わがもの>である、と語っている」と言ってよいのでしょうか。」
[尊師いわく]
「なすべき事をなしおえ、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、「私が語る」と言ってもよいでしょう。また「人々が[これこれは]<わがもの>である、と語っている」と言ってもよいでしょう。・・・・
ここで第五節のタイトルとなってる「敬わるべき人」というのは原語はアラハンと読める。つまりここで言ってることはアラハンの悟りに達したものは「我」という言葉を使ってもよいと言うことである。つまり無我の悟りに達したものはアラハンの悟りを得た段階だと言うことだ。次に中村元の注釈を引用する
>「「私が語る」と言ってもよい」 これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。「雑阿含経」には「何言説有我」。
「ブッダのことば」スッタニパータの中村元訳出
477番
自己を観じてそれを認めることなく・・・
中村元・注 無我と関連
648番
世の中で名とし姓としてつけられているものは名称に過ぎない。(人の生まれた)その時その時につけられて約束のとりきめによって仮に設けられて伝えられているのである。
第3大いなる章 756番
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執着している。「これこそ真理である」と考えている。
第4 8つの詩句の章 950番
名称と形態について、<我がものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからと言って悲しむことのない人、彼は実に世の中にあっても老いることがない。
951番
「これは我がものである」又「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、彼は(このような)<我がものという観念>が存しないから、「我になし」と言って悲しむことがない。
1119番
自我に固執する見解を打ち破って世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えられるであろう。