ベートーベンもゴッホも師匠なしに芸術を究めた。
今の僕に残されたものは絵の勉強という課題だけだ。
学生時代の僕は現代の芸術家が嫌いだった。
芸術家の中には裸婦像を芸術として発表して人に見せる者がいたが、私から見た裸婦像はただ単にいやらしいだけで芸術性などかけらも感じられなかった。
女とやりたいという煩悩をただ単に絵にしただけ。にしか感じなかった。
こんな男が芸術家を気取ってるのが苦々しかった。
セクシーな裸婦像なんてものは習作としては許されても他人様に見せる物じゃない。
ダビデ像は男の裸の像。
手塚先生の「火の鳥 鳳凰(ほうおう)編」に出る観音像は主人公茜丸(あかねまる)がブチという育ちの悪いあばずれの女性の全裸をモデルとして制作した木像彫刻。
ブチは芸術家として立身出世して増上慢になった茜丸が制作した東大寺の大仏像の手のひらに自分のうんこを出して茜丸を怒らせ「この あばずれ!!」と言われた。ブチはそれに対して「けーっけっけ」と返して去った。しかし今考えると手塚先生は東大寺の大仏のことをよく理解してなかったんじゃないかと思う。
東大寺の大仏は仏像だが芸術性は必要ない。あの像を見せて人を感動させる必要など求められてない。
手塚先生は東大寺の大仏の手のひらにうんこをのせて
主人公我王(がおう)が彫った道ばたに転がる石仏を芸術として高く評価していたようだが、宗教芸術に求められているのは崇高で高度な芸術性で見る人をして感動させる事じゃなく宗教性の方が大事で見る人のメンタリティを霊天上界に飛翔させることが大事じゃないかと思う。
私はつい最近両親と一緒に奈良県にある橿原(かしはら)美術館?で多数の木像彫刻を拝観してきたが、そこに展示されていた木像彫刻は宗教芸術であった。見る人をして感動させたが、なぜ感動させたか考えると彫った職人の並はずれた力量が伝わったからだ。それらを見ていたある人などは「これを作ったヤツただ者じゃないぞ」と感嘆していた。
東大寺の大仏を見ても手塚先生は感動しなかったようだが、それはなぜかというと、あれを作るのに一人の職人の高い力量は必要なかったから。じゃないかと思う。
あれを作ったのは鎌倉の大仏もそうだが一人の職人だけじゃなく宗教芸術とは縁のない多数の一般人が制作にかかわっていたので宗教芸術としての芸術性に限界が生じたのじゃないかと思う。
それから初めて、あの仏像が披露されたときは宗教芸術としてもっと素晴らしい出来だったが
千年以上の時が流れて、あらゆる飾りが抜け落ちて芸術性がはげ落ちたのじゃないかと思う。
手塚先生が「火の鳥 鳳凰編」を描かれたのは先生が30歳代の頃だろうと思う。
今私は38歳 芸術に対する悟りというか視点は30歳代の漫画家手塚先生をもう、そろそろ超えてるんじゃないかと思う。
30歳代の手塚先生は漫画家としては超絶的力量をお持ちだったが宗教となるとてんで弱かったと思う。
現に手塚先生がお描きになった「鉄の旋律」では先生は初歩的なミスをしてらっしゃる。
よりにもよって主イエス・キリストのお言葉として「キリストも目には目を歯には歯をと言ってるぜ」という風に紹介している。
「目には目を歯には歯を」というのはユダヤ律法あるいはハムラビ法典中の言葉である。
主イエス・キリストは福音書中で実際にはこうおっしゃってる。
「律法には目には目を歯には歯をと書いてある。しかし私は言っておく。
右の頬をたたかれたら左の頬を差し出せ。上着を取られたら下着を差し出せ。1キロ歩くように強制されたら10キロ歩け。汝を迫害する者のために祈れ」
「目には目を歯には歯を」というのはハムラビ法典では応報刑としてかかれてる。
いわく「他人の目をえぐった者は、その目をえぐられる」