見返りを求めて何かを行う。
これは凡人の発想である。
現代社会を生きるうちにこれを常識ととらえるのは無理のない話である。
実際、何かしらの対価を払うことで何かを得るという図式は、社会の基本構造である。
しかし、これはあくまで仏教でいうところの”色”の視点でとらえた社会である。
色即是空というとおり、実際には色は空であり、色に精神の本質はない。
これを火でたとえてみよう。
火とは、酸素を消費して高熱と光を発する自然現象である。
燃焼において起こっていることを自然科学的に記述したらこのようになるのである。
しかし、この記述は色の視点で記述したものである。
ここに、火がなぜ存在するかを説明する記述はない。
なぜ、火がなければならないかを説明することはできない。
ここでいう高熱と光は、社会における人が「支払う対価」。酸素は「得るもの」である。
つまり、見返りを求めて何かを行うという視点は、色の視点であり、色の視点では、人の存在意義は空っぽなのである。すなわち存在意義は色の視点では見えてこないのである。
精神とは存在意義そのものである。
存在意義を認めることは愛情である。
色に存在はない。
つまり、色によって愛情を測ることはできない。
さて、もう一度火に話を戻すことにする。
火は、何かを加熱し、何かに光を照らすためにあるとしよう。
それが、火の存在意義であるとしよう。
火は、何かを加熱し、何かに光を照らしたいのである。
そのために火は酸素を必要とする。
お分かりであろうか?
酸素を得ることは、火にとって、したいことをするための手段でしかない。
照らしたいもの、加熱したいものがないのならば、火に存在意義はなくなってしまう。
人の精神も同じである。
人にはしたいことがある。だから生きている。存在しているのである。
したいことをするために必要なものがある。
何かをしたいと思っていること。
それが人の存在そのものなのである。
お金はそのために必要なものにすぎない。
したいことをするために必要なものはみな色である。
お金、能力、知識、地位。。。みな色であり、存在そのものではない。
すなわち、いかなる能力も知識も地位も財産も、人の存在を支えるもの足り得ない。
すなわち、何かをしたいという精神は尊重されるべきである。
したいことというのは、お金を得たいとか、知識を得たいとか、能力を得たいとか、地位を得たいとかそういうことではない。
したいことというのは、色で記述される”手段”を得たいということではないのである。
簡単に言えば、したいことと言うのは思いやりである。
自分への思いやりと他人への思いやりである。
実はそこに本質的な違いはない。
だから、生きるのであればしたいことをすればいい。
じゃあ何をしたいであろうか?
それについて、一人として同じことをしたいと考える人間はいない。
そこに個性がある。
つまり、全ての存在は唯一無二の存在である。全ての存在は尊重されなければならない。
手段を得ることに執着するのはエゴである。
エゴにとらわれると、存在を尊重することを忘れてしまう。
それが行動に現れた時、人は罪を犯すのである。
よって罪は色に現れてしまうのである。
存在は色に現れない。
だから、あなたが何かしらしたいことがあって、それを行うための手段(知識能力金地位機会等。。。)を備えていないからと言って、他人はあなたのしたいことを妨害することはできない。
もちろん、あなたがしたいことをするために必要な手段は、あなたの努力で手に入れなければならないが、その先にあるあなたのしたいことがない限り、それらを得ることはエゴで終わってしまうのだ。
努力はエゴによるものも、存在からなされるものも両方存在し、前者は結局のところ罪につながるものである。
たとえは、したいことをするために必要な手段を得ていない未熟な人間がいるとする。その人間を手段をそろえた人間がいじめたり、妨害したり、挙句の果てに存在を否定するのは、罪である。なぜならば、それは未熟な人間の色だけを見て、存在を肯定していないからである。
知識や能力のあるものがないものを否定してはいけない。
人は何かしらしたいことがあって生まれている。しかし、未熟な精神を持つものは色に惑わされてしたいことを忘れてしまうことが多いのだ。そして、ほとんどの人の精神は未熟である。
そんな人たちが社会を構成しているおかげで、社会は色だけで考えられてしまうのだ。それが現代社会の危うさである。
誤解してはいけないのは、空を理解することは、経済社会を否定することではないということである。
お金を対価として支払うことで何かを得るしくみそのものを否定することが、空を理解することではない。
社会のしくみを否定することも、自然現象を否定することも一人の人間には出来ないことである。
火が燃える物理的なしくみを変えることが出来るはずもない。
同じように、何のためにお金を得るのかを忘れないことが空を理解することなのだ。
なんのために地位を必要としているのか考えることだ。それが空を理解すること。
地位も金も私腹を肥やすために得るのであれば、地位金を得ることに埋没したエゴにしかならない。得たそれらのもので何かをしないのであれば、それは、あなた自身の存在を否定することなのだ。
空を理解することとは人間社会に参加しないということとは違うのだ。
ある特定の社会システムを否定することとも違っている。
もちろん、多くの人がその生きる目的を全うしやすいように社会構造を改変していくのは良いことである。そのこと自体は、生きる目的になりうることである。
しかし、現代の社会システムそのものの存在を否定し、テロなどの破壊行為などをするのは罪なのである。
実際、仏教の体系において、俗世間から離れたところで修行する密教と、人間社会に参加しつつ修行する顕教の考え方があるが、どちらの道も究極の目的は、空を理解することにほかならない。
何が違うかと言えば、密教では空を理解することに生活そのものを特化し、奥義によって悟りへの道を加速することが、実社会で生きながら精神を向上する顕教とは違っており、密教の世界ではそのための厳しい修行が課されるのだ。
さて、仏教の修行のひとつに、「人からなされた悪行に対して怒りを感じない精神を養う」というものがある。
これをなすポイントも当然、空の視点で理解することが出来る。
まず、
@存在の否定を受け入れてはならない。
もし、あなた自身の存在そのものを否定されそうな時(人格の否定、傷害、殺害、窃盗行為)。それらに対して決して屈してはいけない。そのような行為に対しては、断固とした態度で防衛し、無事防衛がなされたおりには、余計な感情をいだかないことである。防衛のための最低限のスキルを磨くことも大切である。あなたはそのような存在の否定の全てに対してそれらを断固拒否する権利がある。常に、その断固とした拒否の姿勢を忘れてはならない。かりにいじめにあっているのであるならば、いじめをする相手に対して「私は断固としていじめられる筋合いはない」という姿勢を勇気を持って示していかなければならない。
あなたのしたいことを否定された時も同様である。どんな理由(知識能力金地位の不足等)も、あなたのしたいことそのもの否定を支持する理由にはならない。もちろん、チャンスを得られないことはあろう。しかし、それはあなたのしたいことを否定されているわけではない。チャンスを得るための努力は継続可能であり、それによって克服できるものだからである。また、何かしらの悪意によってあなたのしたいことが妨害されているのならば、その相手を遠ざけるかして、何かしらの手段を講じることである。現時点でそのような手段を講じることが出来ない場合もあるが、そのような場合もそれによって自分のしたいことが出来ない時間を焦ってはいけない。あなたが何かしら妨害を受けて、あなたのしたいことをするための手段が得られなかったり、したいことそのものが出来ないかったとしても、あなたがそれをしたいという気持ちだけは失わなければ、あなたの存在は守られており、そうであれば必ず道は開かれる。妨害を止めるあるいは妨害から逃れる手段を得るための努力を止めてはいけない。
Aあなたの地位、能力や知識など色に関するものを否定された時。
色が存在をとらえることはない。だから、それらの否定は、なんらあなたの存在を否定するものではない。そんなことで誰もあなたの存在を否定することはできない。だから、あなたにかかわる色について何を否定されようと、あなたは安心して、堂々としていればいい。あなたの色に執着する相手の精神性が低いだけであり、そのような相手にはそれ相応の人生が待っているのだ。そのような相手がどのようにしてその低い精神性を改善していくかは、あなたの人生とは無関係である。よって、あなたが、余計な感情を抱くこともない。もちろん、そのような相手の近くにいる必要もない。もしも、あなたがそのような輩の色についての否定を受け取らない気にも留めない精神を持っていれば、そのような輩は自然とあなたから遠ざかっていくのだ。
以上、知識能力地位金などの色を得ることに執着して生きるのは凡人の発想であり、そのような生き方は、けっしてその人の存在を守ることはない。よって、凡人は必ず何かしらの悪意による存在の否定に見舞われる。もしそうであったならば、自分がどんな色に執着しているかを理解し、悪を遠ざけることで自分の存在を確保しなければならない。
以上、結局のところ空をしるとは、ものの見方の転換なのである。
手段を得るための仕組みを見る視点は色を見ているのであり、したいことそのものから仕組みを理解するのは、空の視点である。
どんなちいさなものにも空の視点はある。そして、それらを大切にすることは、人を大切にすることにもつながっているのである。
ちょっと古くなったからと言って、簡単に使えるものを捨ててしまうこのご時世。
それはまさに色に満ちた俗世間なのである。