私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
エレミヤ 15:16(聖書)
私が聖書のみことばから教えられたこと・・・私がかじったみことばのひとかじりを皆さんにお知らせしています。
みなさんのひとかじり・・・聖書を読んで教えられたこと、記事への感想...をお寄せください。
!現在,更新をお休みしていますが、バックナンバーが何らかのお役に立てば幸いです。!
※ 聖書本文は、ことわりのない限り日本聖書刊行会『新改訳聖書』から引用させていただいています。
※ 今までの記事を単語で検索、または、月別、カテゴリ別で読むこともできます。右の段から...。
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2004年12月1日から、ニュージーランド・クライストチャーチ JCF (日本人クリスチャンフェローシップ)の関係者を対象に、毎朝(を目指して...)、短い聖書の言葉に私が教えられたことを添えて、『今日のみことば』と題してメールを配信し始めました。(内輪の話題が出ることもあります。悪しからず。)
その後、バック・ナンバーの要望もあり、『みことばの ひとかじり』と改題してホームページに載せました(配信したものに修正・補足がなされています) 。皆さんの「ひとかじり」も聞きたいと途中でブログに変更、現在に至っています。

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2006/9/18
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。...(ヨハネ 21:18〜19)
ペテロさんは、いつもみんなへの質問を誰よりも先に答えようとするタイプの人でしたね。そのペテロさんが他人のなすがままに、自分の行きたくないところに行くようになって最後を迎える。まるで敗北の宣言のようでもありますが、このようにして神様の栄光が現わされるとイエス様はおっしゃいました。
自分の望まない状況でも、神様にお任せして手を引かれて行くときに、神様の栄光があらわされるのだということを改めて教えられます。逆に自分の歩きたいところを歩く力があると自負している間は、自分の人生に神様の栄光が現われるのを妨げているのでしょう。

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2006/8/31
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。(ピリピ 3:18)
聖書は、イエス・キリストを通してでなければ救われることはないと語っています。イエス様の十字架の身代わりだけが私たちの罪を覆い、神様との関係を回復させると...。
しかし、私たちは生まれてからの体験などによって、成功しなければ、価値あると思われている物を手に入れなければ、愛され受け入れられないという考え方が染み込んでいるようで、イエス様の十字架を信じたあとも自分の努力によって救いを完成させなければならないと考えてしまうことが少なくないようです。十字架にあらわされた、私たちをそのままで受け入れてくださる愛をなかなか信じることができないで、自分の行ないによって安心を得ようとしてしまうことも多いのではないでしょうか。
私たちが罪ゆるされ受け入れられるために十字架に何かプラスしようとして(十字架を不十分なものとみなして)、"十字架に敵対する歩み"に落ち入らないよう、いつも十字架の救いとそこにあらわされた神の愛の完全さを覚えることができますようにと願います。

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2006/8/29
...もはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、...。(エペソ 4:14〜15)
ホームページなどで公開しているアドレスに迷惑メールが多く来るのは避けられない今日この頃。まともな問い合わせもあるかもしれないので、タイトルで判断しながらチェックして削除していますが、特にいかがわしいものが多いのには閉口しますね。先日は、タイトルに『嘘も偽りもありません』というのがありました...?
詐欺やだましではないということでしょうが、神様が夫婦の祝福のために与えられた性というすばらしいものを貶(おとし)めて売り物にし、『正しいかよりも、何がしたいかのほうが大切』だとか『バレないかぎり好きなように生きれば良い』などのメッセージ(考え方)を伝えているとしたら、実に偽りでいっぱいです!
『ほんとうのこと』なら何でもいいわけではないのだと改めて考えさせられます。

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2006/8/28
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ 15:5)
いわゆる"一人立ちしている"ことは、成長・成熟のあかしと見られるでしょう。けれども神様に対しては、私たちは"一人立ち"を目指してはいけないんですよね。私たちがもし「なんとか努力して神様なしでやっていけるようになること」を目指しているとしたら大問題!でしょ?
自分は『イエス様から離れては何もすることができない』こと、本当にわかってるかな?と思います。
自分の才能や知恵,性質、意志...などが一人立ちできるほど頼りになるものになる(自信を持てるようになる)ことが私たちの目指すところではなく、神様にすべてをお任せして「この方がいなければ私は何もできません。この方が私のすべてです。」といつも心から言い切れるほうが目指すところなのだと、今日も確認しています。

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2006/8/8
主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。(詩篇 97:10)
ある人がある罪をやめたいと努力して、祈っていましたが、またやってしまい、「主よ。どうして私を助けてくださらないのですか」と尋ねると、「まだ充分に嫌気がさしていないからだ」と即答されたそうです。そんなことはないと思ったのですが、罪をこっそり楽しんでいないか自問したところ...、例えば、妻に対して黙り込んで無視するという罪であれば、その裏には、妻に投影した自分の批判的な母親を罰する喜びや、他者を犠牲にすることによって得られる支配感、他人を苦しめることの残忍な喜び、私ほど「立派で自制心のあるクリスチャン」でない相手が惨めにも冷静さを失って怒りを爆発させるのにじっと耐える殉教者の役を演じる満足感、男性優越主義...など、無数の喜びが隠されていることを知ったと言います。
罪を憎めない者が罪(の習慣)から離れることはできませんね。早く自分の罪の大きさ(ひどさ)に気づくこと、神様がその問題を取り扱ってくださることを求めるのみです。

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2006/8/6
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。(詩篇 16:8〜9)
自分の前に主を置くとは、生活の中で神様を第一とするということでしょうか。そのようにしていると、神様は私の右に(いっしょに)いてくださるので、私は恐れたり動揺したりする必要がないと、この詩の作者ダビデさんは歌っているのですね。神様がいっしょにいてくださるから、心は喜び、魂は楽しんでいるとも言っています。それで、身も安らかであると...。
私たちはと言うと、まず身の安心(実際の生活の安心・安定)を求めることによって、心や魂を楽しませようとしているのではないでしょうか。つまりダビデさんとは逆のことを...。
生活の安心・安定を第一にするとそれが得られず、神様を第一にすると心・魂に喜び楽しみが与えられて実際の生活も安らかなものとなるというのが人生の原則の一つであると言って良いでしょう。

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