「憲法「改正」と教育基本法「改正」に反対する11.10集会」
憲法9条を考える
それでも憲法改正に賛成しますか?
フリージャーナリストの斎藤貴男さんを講師に招き、大阪港区民センターで講演会がありました。
<斎藤貴男さんいついては、検索をすると山ほどでてきます。失礼ながら私は存じ上げていなかったので、これから徐々に読んでいこうと思っている。>
私はスイッチオン!にしくの前日ということもあり行けなかったが、どちらも興味ある内容だったので、行ってみたかった。
教育基本法「改正」については、詳しいであろう幸田ひできさんに一度、じっくり聞いてみたいものです。
で、今日は私も
西区民商9条の会に関わっていますので、たまたまラッキーな新聞記事を見つけましたので紹介したいと思います。こんな日本人がいたことに誇りに思うと同時に、愛国心とは何か・・・いい加減に生きている私にも考えさせれる事でした。
読売新聞を読まれている方はご存知かと・・抜粋引用させていただきました。
==読売新聞 11月17日(金)編集手帳から==
日清戦争で連合艦隊司令長官を務めたのは伊東祐亨(いとうすけゆき)である。
清国・北洋艦隊の提督、丁汝昌(ていじょしょう)に降伏を促した手紙は知られている。
◆列強に侵された清国に深い同情を寄せ、中国文化を守るべく亡命して他日を期すよう勧めた。日本の武士道が貴官を守る、と。
丁は伊東の贈った洋酒を懇篤な礼状を添えて返送し、毒を仰いで自決した。
◆博報堂の最高顧問、近藤道生さんの近著「国を誤りたもうことなかれ」(角川書店)に、その逸話に触れた下りがあった。日本人が昭和戦争の動乱をくぐるなかで置き忘れたものを、自身の戦争体験を重ねつつ語った一冊である。
◆大切にしている心が自分の胸にあれば、相手の大切な心にも敬意を払う。
触れられて痛みを感じるならば、相手のそれにも触れない。
愛国心とは本来、他の国、民族への思いやりを含んでいるのだろう。
◆「国を愛する態度」も争点になった教育基本法の改正案が衆院を通過した。
参院の審議に移る。
誰しも昭和戦争の当時を思い浮かべのは致し方ないが、視線をもっと遠くに投じた論議があってもいい。
◆丁汝昌のなきがらが粗末な小舟で故郷に帰ることを知った伊東は、没収した清国商船のなかから一隻を独断でこれに充てた。
凱旋帰国して、明治天皇に報告した第一声はこの処置に対する謝罪と責任伺いであったという。
==ここまで==
では伊東祐亨(いとうすけゆき)とうのはどのような人物なのか。
薩摩藩士伊東祐典の四男として鹿児島城下清水町に生まれる。
飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身である。
開成所にてイギリスの学問を学んだ。
当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われている。
江川英龍のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本竜馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。
このことから、後に伊東は「おいの操船術は竜馬じこみじゃき」と語っている。
日本の連合艦隊と中国清朝の北洋水師(中国北洋艦隊)との間に黄海上で1894年9月17日12時50分より行われた黄海海戦では、戦前の予想を覆し、中国側の大型主力艦を撃破し、黄海の制海権を確保した。
この戦いは日清戦争の展開を日本に有利にする重大な転回点であった。
中国艦隊はその後も抵抗を続けたが、陸上での敗色もあり、北洋艦隊提督丁汝昌は降伏を決め、1895年2月13日威海衛で北洋艦隊は降伏、丁汝昌自身は前日、服毒死を遂げた。
伊東は没収した艦船の中から商船康済号を外し、丁汝昌の遺体を送らせ、世界をその礼節で驚嘆せしめた。
戦争後は海軍軍令部長を務め、1898年海軍大将に進んだ。
日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、1905年の終戦の後は元帥に任じられた。
政治権力には一切の興味を示さず、元老にもならなかった。
1907年には伯爵に叙せられた。従一位功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章を授与される。1914年、72歳で死去した。==フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から一部抜粋==
今は、悪く目立つ人をメディアでたたく・・・これが良いんだと。
これでは大人の悪いところばっかり目立たたせて、子供達に対しての説得力がないばかりか、大人を軽蔑し、そのまま大人になっていく・・お金は欲しいですがそればかりはないことも伝えないと、日本の将来が恐いです。
上手くいえないですが、そんな気がします。