2009/11/22

竹の箸memoir 『ロシアより自動車への愛をこめて』  竹の箸Memoir

モスコヴィッチGD1エンジンとトランスアクスルを前にご機嫌の若き日のレヴ・ショゴウロフ
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下写真
左 76度挟み角2バルブ,2プラグ燃焼室とインテークポート、カムシャフト駆動ギアトンネル
中央 ハイクラウン・ピストン、一体コンロッド、クランクシャフトローラーベアリングケージ
右 120度気筒間角度V8のアルミブロックのカムシャフト駆動ギアトレインの一部


レヴ・ショゴウロフのモスコヴィッチF1プロジェクト手記は続く:

『このエンジンの設計に携わったのは、ごく少人数の技術者だった。ヴィクトル・シャヴェレフ、マルク・ミルシュタイン、ガリルナ・ロスラヴェッツヴァ 、ヴィタリ・ファテエフ、そして私がすべてああった。
 私たちのチームが作業を開始したのは,1963年の暮れで、翌1964年半ばまでにはすべての図面が揃っていた。同年中に部品が製作され、1965年はじめには2基の"モスコヴィッチGD1"エンジンが完成した。
 私たちは、できるだけ部品を内製したが、シリンダーブロック、ヘッド鋳造、ロ−ラーベアリング、イグニッション小物、そしてS360からの流用部品は外注した。国外からはウエバー製ツインチョーク気化器とロッジ(英)の10mmスパークプラグを取り寄せた。

 私は、フォーミュラ1シャシーの製作も真剣に考えていたが、開発テスト用としては既存のフォーミュラ・ジュニア(量産エンジン搭載フォーミュラ)を改造して使うことにした。さらにF1エンジン用として、アルミケースと5速ギアのトランスアクスルも新設計、製作した。

 私たちの会社は、ルーブルだけは潤沢(ほぼ無制限)に持っており、当時のソ連では使い道のある通貨だった。ところが、外貨保有ときたら、皆無であった。それが私たちのF1計画に終止符を打ったのだ。レーシングタイアを買うにも外貨がいある。F1レースが開催されたのは、すべて国外であり、現地テスト、開発はプログラムにとって不可欠であった。実戦参加のための移動、宿泊などの経費の捻出もできない。当時は、タバコ、アパレル、石油製品などのスポンサー以前の時代であり、そういう収入はなかった。ソ連邦自動車産業省は、援助の意志はあったが、外貨不足は共通の問題。

 こんな悲観的情勢であったが、私たちは少なくともエンジンのテストをやろうとした。探し求めたあげく、ソ連国内で唯一の高回転・高出力対応のダイノベンチを見つけ出した。所有者は国立自動車産業中央研究所で、オーダーを切り、料金を支払い、やっとモスコヴィッチGD1をベンチに据え付けた。
 開発初期でもあり、回転を6000rpmに抑えて、すべての機能が正常に働いていることを確認した。この時点の計測出力は162psであった。私たちの計算では、1965年末までには、10,500rpmで200-205psを発生するはずであった。これは当時の1.5リッターF1(1961-65)の強豪たちと互角に戦える可能性を秘めていると思う。コヴェントリー・クライマックスFWMBが205~213ps/10,000rpm、BRM・P261が205~208ps/10,500rpm, フェラーリ158が210~215ps/11,000rpmであった。

 私たちは、次の段階としてルーカス燃料噴射を入手し、さらなる出力向上をめざした。しかし、テストベンチを探索し、外貨の捻出に時間がかかりすぎて、この段階には到達できなかった。そして1965年12月31日、1.5リッター・フォーミュラが終結する。これは私自身の誤算だった。この人気ある規則が延長になるとばかり思っていたのだ。

 かくして、わたくしたちのF1計画は失意のうちに終わった。その後、わたしたちは量産型モスコヴィッチ412エンジンをベースとしたDOHC 1479cc4気筒レーシングエンジンを開発した。総計22基を製作し、ソ連国内レースではいい成績を収めた。
 現在(1993年当時)モスコヴィッチ製作所の博物館には、GD1トランスアクスルと組み合わせたGD1 ・F1エンジンを見ることができるだろう』

 レヴ・ショゴウロフは、彼のF1回想をこう結んだ。
 『モスコヴィッチのF1計画は、西欧圏の自動車メデイアにも知られていない秘話だ。貴方が日本の読者に紹介してくれれば、それにこした喜びはない。
      1993年1月モスクワにて レヴ・ショゴウロフ』

 わが友、エンジニア、ジャーナリスト・レヴ・ショゴウロフの冥福を祈る。

(1990年代、モーターファン誌に連載していた私の特別読み物ページから再録。この他、ショゴウロフの書いたソ連LADAのロ−タリーエンジン開発とレース、”赤い星”速度記録車を紹介した)

2009/11/22

竹の箸memoir モスコヴィッチF1その2  

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レヴ・ショゴウロフの回想は続く。

 『企画をスタートした1963年、主任設計者として私は当初、DOHC4気筒を構想していた。しかし、すぐに私と直属上司のイゴール・グラディリン技術部次長は、別のより革新的な方向にいくべきと考えを変えた。

 当時、モスクワ近くのセルプコーフという町の小さなモーターサイクル研究所は、”ヴォストークS360"(注 ユリ・ガガーリン宇宙飛行士を乗せて、人類はじめての宇宙空間へ飛んだのヴォストーク1にちなんだ)と呼ぶ非常に優れた性能を持つ、実戦で成功しているレーシングマシーンを開発していた。1961年から63年の3年間、ソ連国内ロードレース350ccクラスを制覇し、数々のノンチャンピオンシップ国際レースでも好戦績を残していた。
 ヴォストークS360のエンジンは、非常に大きな可能性をもち、かつ信頼性にも優れた空冷DOHC、並列2気筒エンジンで、圧縮比10.7:1で最高出力51ps/10500rpmを出した。

 私たちは,S360エンジンに着眼し、これを新フォーミュラ1用8気筒エンジンのベーステストユニットとすることにした。したがって、S360の主な特徴であるカム駆動機構とバルブタイミング、燃焼室形状および吸入排気ポート角度と取り回し、バルブスプリング、ピストン、そしてクランクシャフトの基本構造を踏襲することにした。

 クランクシャフトは、1体型コンロッドを使うことにしたので、いわゆる”ヒルト型”と称する接手を用いた組立式をした。歯形組み合わせ面をもつ部品を左右トレッドの異なったボルト(一例を挙げると、片側が1.5 mm、他方が1.25 mm)で締め付ける構造である。
 ローラーベアリング支持クランクシャフト採用の理由は、単純に1963年当時のわが国では、高速回転に耐えるプレーンベアリングができなかったからだ。一方、私たちの工場の近所のボールベアリング・メーカーとは密接な関係を保っており、F1エンジン要件に対応する高精度ローラーベアリングをつくってくれる見通しがあったのも、このタイプのクランクシャフト採用を促した。
 フォアスロー、ファイブベアリング支持クランクシャフトは、私たちのF1エンジンの特徴といえよう。

 もちろん2列の気筒を持つV型8気筒だ。当初、私は90度V角度を意図したのだが、ウエバー製ツインチョーク下降通風気化器を使うレイアウト上の制約から、120度Vというワイドアングルへの変更を余儀なくされた。

 気筒列間の2 mmオフセット量を決めた要因は、クランクシャフトピンを共用する左右2本の一体型コンロッドの幅にあった。外周にオイル通路溝を持つ厚いウエブ(強度に通じる)に収まったローラーベアリングは、シリンダー間の距離を確保するには理想的だったが、一方で110 mmなる間隔は、クランクシャフトを長大なものとし、エンジン重量増加も伴った(148kgもあった)。
 私は、重量軽減のために、剛性の要求されるシリンダーブロックとヘッドはアルミ合金、非ストレス部であるオイルパンとバルブカバーはマグネシューム合金を用いた。
 オリジナルの"S360"モーターサイクルのクランクピンは、私の計算では強度不足なので、大型化した。すなはち、メインジャーナル径を45mm、クランクピンを42mmとした。2個一対のクランクピンの愛大には48mm径の焼き入れ硬化したスタッドリングをはめこんだことも付け加えておこう。

 シリンダーヘッド設計については、"S360"のそれに非常に近いものとした。バルブ挟み角79度の1気筒当たり2バルブ方式とし、10mmスパークプラグ2本を用いたツインイグニッションである。もちろんモーターサイクルの空冷ではなく、水冷化した。

 カムシャフト駆動は、単純な平歯ギアを用い、テンショナーを排した。ギア駆動により、バルブとピストン頂部の衝突の心配はなくなった。バルブ駆動は、ロッカーアームを介して行い、バルブトレインおよびいくつかの部品は、高圧オイルにより潤滑した。アルミ鋳造ピストンは62mm内径で、ストロークも62mmに伸ばした。当時のF1規定の1.5リッターに適合する総排気量1497ccが得られた。
 潤滑では、クランクシャフト・ローラーベアリングは低圧潤滑で用が足りた。そこで2個の供給ポンプ(高圧,低圧)と1個の回収ポンプをタンデムに収めたオイルポンプを採用した』

     ******************************

 ここでレヴの回想を離れ、同期1.5リッターF1に参入し 、イタリアGPで1勝を収めたホンダRA271/272を検証してみよう。開発のキーメンバーであり、初期F1活動監督をされた、畏敬する故中村良夫氏は、RA270Eエンジンがモーターサイクル・グランプリを常勝するになっていたGPエンジンの設計を受け継いでいたことを書かれている。ホンダGPモーターサイクルエンジンは、DOHC、1気筒当たり4バルブであり、これを踏襲している。モスコヴィッチのGD1型エンジンが同じくモーターサイクル・レーシングエンジン、”ヴォストークS360"のバルブ、燃焼室設計を踏襲したが、1気筒当たり2バルブであったのとは対象的だ。
 またホンダは、8気筒、12気筒双方を検討したが、Z軸まわりの慣性モーメントを最小にするために、後者を選んだ。これもモーターサイクルで実績のあるローラーベアリング支持組み立て式クランクシャフトを採用した。試作エンジンでは、コンロッドのビッグエンドを分割し、クランクシャフト接合部分の数を減らしたというが、実戦型では一体型コンロッド、フル組み立てクランクとした。ホンダの組み立て方法は、クランクシャフト構成部品を圧入した。モスコヴィッチは、前述のようにヒルト接手方式だ。
 ホンダも初期型では下向き通風型気化器(たしか京浜製)を用いた。後期には機械式燃料噴射に替えた。
 エンジン搭載は、ホンダは横置き、モスコヴィッチは縦置きで、もちろん両者とも主流になっていたミドシップだ。
(つづく)


2009/11/20

竹の箸 memior - レヴ・ショゴウロフとソ連のF1  竹の箸Memoir

モンタナ・ビッグスカイの1992年GM試乗会のレヴ・ショゴウロフとヴァレリ・シモニアン。日中は精力的に試乗
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モンタナの決闘のレヴ。これから歩き出し、ふりむきざまにピストル(水鉄砲)をぶっぱなす。
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異なる時、場所で起こったとが、つながることがある。このブログのサブマスター家族メンバーが居るモンタナでイエローストーン国立公園に出かけた時のこと。ビッグスカイというリゾートの方向を示す標識が出ていた。「17,8年前に試乗で来たことがあったな」と話した。

今週火曜日、韓国のヒュンダイ・キア・グループの研究開発センターのあるナムヤンでヒュンダイ・キア・パワートレイン技術会議が開催された。そこで会ったのがロシアの自動車専門誌ポドロフスキー発行人・編集長。昼食にムカシ会い、その後ソ連時代の興味ある自動車と技術について何回かリポートを貰い、日本誌に紹介した友人の話をした。「レヴ・ショゴウロフは、2週間前に亡くなったよ。私の雑誌の最新号で掲載したのが彼の最後のリポートになった」

レヴ・ショゴウロフと会ったのは、1992年の秋と記憶する。”大”がついたGMは、アメリカ車の海外市場販拡に力を入れていた。日本の広報にも"スタさん"と"ボドキンさん"なるマーケティングと広報の名コンビが積極に活動していた。名物がアメリカで開催する国際試乗会で、輸出していようがしまいが、主要製品を集めてきて、長距離試乗をする。その年のイベント舞台がモンタナ州だった。たしか、アメリカで唯一速度制限のないフリーウエイがあった(もっとも警察は、あまりとばすと”無謀運転”でつかまえる)。宿泊がビッグスカイだったが、その手前の町では、いきなりの大雨と落雷に見舞われ、しばし待避。晴れると暑くなる。ビッグスカイに登りだすと、こんど寒くなり、みぞれ混じりになってきた。

ロシアから参加したのがレブ・ショゴウロフと自動車誌発行人のヴァレリ・シモニャン。日中は精力的に試乗し、夜はカウボーイごっこに興じていた。暖炉の脇でバーボンを呑みながら、ふたりと談話したが、ショゴウロフはソ連時代に自動車メーカーの技術者であり、モスコヴィッチ製作会社でF1の開発をしたことを知った。まさにホンダの第1期と同じ、1.5リッター・フォーミュラなのだ。ホンダとモスコヴィッチF1は、サーキットでは相見えなかったが、興味ある共通点がある。

レヴは、F1秘話からLADA(現存メーカー)のシングルから3ローターまでのロータリーエンジン開発、”赤い星”速度記録車など、興味あるリポートを送ってくれた。
ちょっとシャイで童顔の熱烈な自動車と技術愛好者、レヴ・ショゴウロフを偲び、わがブログにアクセスして下さる奇特な読者に彼のモスコヴィッチF1の記録全文を再録しよう。
         ********************

『忘れもしない、私がモスコヴィッチ(モスクワの子の意味)製作所において、レーシングカーの開発をはじめたのは1959年12月であった。当時、私たちが所属していた工場は、年間6万1000 ~4000台のモスコヴィッチ407型セダンを生産していた。わがファクトリーチームは、国内レース、ラリーに積極的に参加していた。
 私たちは、次のプロジェクトとしてとして、シングルシート・レーシングカーの製作を決定し、私が開発リーダーを務めることになった。そして当時の国際フォーミュラ3に該当する”モスコヴィッチG3(1961)およびG4 (1964)を開発した。この2車は、1961年から73年の間に5回の国内チャンピオンシップを勝ち取った。
 これらのクルマは、すべて量産型OHV,1358CC, 3メインベアリング支持クランクシャフト4気筒エンジンで、出力を85ps/5000rpmにチューンしたものを搭載していた。仕様からしても、すでに開発限界に来ていたことは明白で、私たちはまったく新しい1.5リッター純レーシングエンジンの設計に取りかかった』
(つづく)

2009/11/15

おやじブログ 「ハバロフスク、ラララ、ハバロフスク...」  旅行

先月下旬、ミュンヘンへ行った時の帰りのルフトハンザ。定刻ミュンヘン発、平和に成田に向かっていたと思いきや、アナウンス。ビジネスクラス前方に座っていた日本人客がトラブルを起こしたらしいーどうも鎮めようとしたコクピットクルーを小突くかなにか、手を出した様子。これはノーノー、最悪のノー! 言い訳なしに逮捕もの。キャプテン、シベリア・ハバロフスクに緊急着陸し、そいつを降ろすということ。

ロシア極東地区の都市で、真冬はマイナス30度、最低だと40度にまで下がるという。ムカシ、『ハバロフスク、ラララ、ハバロフスク、ラララ、ハーバロフスク、河の流れはウースリイ江・・・』なんて歌があったのを思い出した。あとで調べたら1948年の歌で、シベリア抑留者の望郷の思いの歌だったのだろう。

まだ積雪はないが、空港は寒々しい光景。どうも、ローカル航空のベースらしく、アントノフAn-24らしきターボプロップ双発機が数機見える。ロシア極東軍司令部所在地で、窓の外の風景撮影は厳禁とのこと。沖止め(ゲートではない用語)され、ロシア警官らしきが入って来た。しばらく話していて、降りてしまった。フライトアテンダントのアナウンス。警察が暴れた客を引き取るのを拒絶したので、このまま成田に連れていかなければいけない。また待ちが続く。今度はキャプテンのアナウンス。「ロシア当局が出発の許可を出さないので、しばらくお待ち下さい」いやー、もしかしたらシベリア一泊!? やっと出発許可が出た。

2時間遅れた成田着。日本の警官が来たが、これも日本国内の行為ではないので(ロシア領空だったのだろう)、「タイホ!」ってなわけにはいかず、オシマイ。ルフトハンザがそいつに燃料代、着陸・離陸費など損害賠償請求すればいいが。

この前、ドイツに行った時のSAS機では、隣にビールのチェーン飲み、ブツブツつぶやきおばさんが座った。帰りはフライトアテンダントに赤ワインを浴びせられた。明日は、ソウルに行く。3度目が無いといいが・・・

2009/10/25

おやじブログ ホンモノ、シミュレーター?  日常のもろもろ

科学技術館の自動車展示場『ワクワクモーターランド』の入口
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東京北の丸公園内の科学技術館の自動車工業会の展示スペース、ワクワクモーターランドがリニューアルしたと聞いたので、出かけた。科学技術館は、企業などの寄付を資金として1964年に開館した科学技術を訴求する展示場だ。フロアごとに歴史的、現在から未来までの技術テーマ展示が設けられている。

建物は古さと懐かしを感じさせるが、ワクワクモーターラインドは一新した。見て触って体験するのがテーマというが、自動車の体験の大半は、大小ディスプレイを前にしたシミュレーターだ。トラックキャブ、モーターサイクル、シャシーのように実車ベースから、幼児向けのゲーム機型まで揃えてある。だが、モーターサイクルの例をとっても、安全教育に役立つとはおもえない、フールプルーフ、つまり運転ミスはしない仕掛けだ。

幼児、ティーンから、大人まで楽しんでいるようだ。また、自動車と楽しさを説明する人の姿が見えない。どうも、イベントをやるごとに登場するらしい。

多摩テックの乗り物を『操る』のと、若い社員たちがこどもの目線でアシストする光景とは、まったく異なった、どちらかというと電子的無機質な場所という印象を受けた。こどもたちが成長し、欲しがるのはテレビゲーム機で、そこで満足するのではないかな・・・
ある集いでこの話をしたら、いや、若ものたちはコンピューターゲームからホンモノの自動車を欲しがるトレンドがあるという反論があった。

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バイクはホンモノ
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幼児用”シミュレーター(?)"

2009/10/18

おやじブログ 藤沢さんの多摩テック、さようなら  日常のもろもろ

キッズバイク待機するこどもたち。この期待と心配の混じった顔!
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ドリームRのステアリングホイール上のパワーボタン。まさしくKERS。「君はまだ運転できないよ」
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多摩テック閉場を知り、ウン10年ぶりに行った。前回連れていった子供は、すっかり成長しているので、単身で出かけた。案内して下さったのは、”園長”の山上敏樹さん。正式にはホンダの子会社モビリティランドの多摩テック・ユートピア課長さんだが、園長さんで通っている。初代園長は、高橋国光さんであった!前にも記したが、私のムカシの自動車ギョーカイ時代、務めていた輸入商社がBMWとBSAモーターサイクルの販売拡張手段として浅間レースに参戦した。BSAのライダーとしてスカウトし、2年出場クラスで優勝したのが高橋クニさんだった。
藤沢さんの指摘するように、浅間も観衆コントロールがむつかしく、安全に問題があっt。59年を最後にレースが開催されることはなかったが、高橋さんはホンダのモーターサイクルGPチームに入った。以後の2、4輪レースでの活躍は、ご存知の通り。クニさんが園長さんだったとは!

The Last園長、山上さんが就任されたのは、2年前だったが、多摩テックの経営は悪化していた。ある時期、多摩テックも絶叫型乗りものを導入した。これでは、日本の他の遊園地と大差ない。客足が遠のいた。と、新聞に無料入場券を挟み込むというバーゲン作戦にでた。ますます状況は悪化する。
山上さん、藤沢さんの原点に戻った。乗りもの大半は、モービリティランドの自開発、多くを自製とした。独自の工夫をこらした、子供から大人までは自ら駆るクルマ群だ。他のアトラクションも同様。
超傑作は『流れるプール』だ。大掛かりな動力で水を流すような設備を入れる予算などない。社員が考え出した。ある時間になると、若い社員がメガフォンでプールに入っている人たちに呼び掛ける。「皆さん、こちらの方向に歩いて下さい」大勢の人たちが一斉に歩き出す。しばらくすると、人力で水が流れだす!シェイクスピアのマクベスで、兵士が枝を持ちあたかもバーナムの森が動いているように見せた作戦があるが、多摩テックの若い社員たちは、客の力を借りて流れをつくった。

ゲートを入るとすぐ見たのは、3台のクルマ展示だった。スーパーカブのエンジンを載せたゴーカートは、初期の自製車を復刻したものだそうだ。いかにもクルクル回りそうな三輪車のふたつのシートは、なんとアトラクションの観客席の古いのを利用したのだそうだ。最新世代を代表するのは”ドリームR"。スペースフレームむきだしのエンジンつきミッドシップレーシングカー型で、小学校3年以上で身長125cm以上の人が運転できる。前面には障害物検知センサーを備えるハイテクマシーンだ。ステアリングホールスポーク上には、Powerのラベルを貼ったボタンがある。これを押すと、力強い加速をするのだそうだ。KERSだ!
"ロボウオーカー”は、ロボ戦士のようにボデイを上下振るわせ走る。山上さんの園長就任前の開発エンジニアとしての最終作品だそうだ。

キッズバイクは、電動バイクだが、エンジンのような擬音を発する。3歳以上で補助輪なしで自転車に乗れる子供向き。ライダーは、小部屋で肘、膝プロテクターを着用し、ヘルメットをかぶり待機する。彼の期待をふくらませる表情は、見ているだけで楽しい。小さなオーバルを一周し、パスするとミニミニサーキットに乗り出す。3歳児の才能は、素晴らしい!

迫力のあるのが"アクロエックス”。やはりフレームだけのクルマだが、軽自動車ほどのサイズがある。スタート前の社員のチェックでは汎用エンジンを唸らせ、サスをしならせ身震いする。ここで、ひとりのエクスパートに会った。出口さんという青年は、子供の目線で運転を説明する。あれやるな、これやるな的指導態度ではない。子供たちの期待を盛り上げる。多くの若い社員がそうであるように、出口さんも派遣社員なのだそうだ。出口さん、閉園後は別の道を選ぶとのこと。なんと、もったいない!
アクロエックス、走りだすと、安全速度を保つが、路面は不整、名の通り水しぶきを上げる。小学3年以上、身長110cmがソロ運転基準だが、中学生以上の付き添いがタンデム後席に乗れば、3歳以上であれば運転席OK。
山上園長さんに言われ気づいたことがある。サイドにせよタンデムにせよ、同乗する親の大半がステアリングを助けていることだ。クルマには、本当に機能するバンパーがついているし、速度も低い。コースマーカーを外れても、得点が減るだけで、コツン、ゴツンしても危険ではない。しかし、親心としては優秀な運転成績をとらせたいのだろうか。面白かったのは、”ビビラのピンキードライブ”という、3歳以上のシングルシーター。コース脇では、付き添いがアシストするリモコンの前に立っている。まあ、幼児の親としては、心配もするのだろうが・・・

閉場ということになり、マスメデイアが多摩テックを取り上げた。NHKの特別番組の中の子供のコメントが印象的だった。「止める(閉場)っていった人に、怒って
やりたい」

メーカーは若い人たちのクルマ離れを嘆く。多摩テックでクルマを楽しんだ子供たち、すぐに若い人になる。かえすがえすも、もったいない、がっかりした。怒ってやりたい。


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右に立つのがアクロエックス運転を説明する出口さん
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2009/10/17

おやじブログ 藤沢さんの多摩テック  日常のもろもろ


1961年開園当時の多摩テック。かなりの難物ダウンヒルで、転倒し、バイクを置いてトボトボ歩くライダーが見える
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『ベストカー』なる週刊誌タイプの自動車誌は、時々味のある企画ものをやる。ニ
ヤッ、ケタケタと笑いながら、ついつい乗ってしまう。
『最近、がっかりしたこと、よかったこと、おどろいたこと、もったいなかったこと』などの項目を挙げよというのがあった。私の『がっかり』はエコカー減免税(日常燃費の卓越した輸入車が1台も該当していなかった。以後、数台が出現しているが)』、『もったいない』がホンダのF1撤退とBrawnGPへの売却だった。

その後、両方を超える『がっかり』と『もったいない』が起きた。9月30日、モビリティランド、つまりホンダの多摩テックが閉鎖したのだ。

多摩テック、朝霞テック、そして鈴鹿サーキットを造ったのはホンダランド。原動力となったのが本田宗一郎社長とともにホンダを創業した藤沢武夫さんだった。藤沢さん、気さくな方で、よくお話をして下さった。ある時、ルマン24時間レースが話題になったが、「ああ、自動車競争とお閻魔さまの縁日だな」なる藤沢さんの絶妙な形容を憶えている。

鈴鹿サーキット建設を決定した頃、藤沢さんはカリフォルニアのディズニーランドを視察され、いたく感心された。しかしウオルト・ディズニーの天才が生み出したテーマパークは考え抜かれたアトラクション、乗り物にのる”静”のテーマパーク。自動車屋のホンダがやるのは、"動”の遊園地。人が操る乗り物を主とする。

1961年、鈴鹿の先に開園したのは多摩テックだった。当初は、オフロードバイクコースを主体としていたが、これが当時の大新聞、そして警察の猛批判を受けた。マフラーをぶち抜き轟音を響かせ走り回るモーターサイクルライダーを『雷族』と呼んだが、新聞記事は、その巣窟呼ばわり。ネガティヴというかヒステリックなキャンペーンであった。もともと藤沢さんが鈴鹿サーキットを構想されたのは、日本各地で開催されていたサーキット、コースとも呼べない場所でのレースの危険を排除することであった。浅間の自動車試験場の長大なダートサーキットの耐久、クラブマンレースにせよ、観衆のコントロールなど無いに近かった。

この多摩テックが、大人バイクライダーの場から、子供たちのモービリティ遊園地に発展
していく。


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 1961年開園時のおとなたち

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そして閉園前のキッズバイク。3歳以上で二輪自転車に乗れる子供なら乗れる。電動であるが,エンジンの音を響かせるのは、今後出現する電気自動車の方向を示唆する?

2009/9/28

おやじブログ 冬極寒地のプリウス群  旅行

モンタナに移り住んだ家族メンバーは、前記の通り、カリフォルニア仕様のマツダ626(クロノス)V6を大陸半分横断して運んだ。そして最初の冬。気温はマイナス30度Cを軽く下回るのだそうだ。その上、アパートの屋外駐車場。始動困難になり、バッテリーを新品に交換したが、それでも苦労することがある。同じ駐車場でかかった人がいるとジャンプスタートケーブルで助けてくれるか、だめだったらAAA(JAFのような)に電話。
さらに、ドアシールがくたびれているのだろう、ドアが凍り付いて開かなくなる。

1996年型でカリフォルニア、ミシガン、イリノイからモンタナにやってきた626、そろそろ替え時期かと、リコメンドしたのがスバル。積雪地で、市街はいいが、外にでるとやはり4駆が頼りになる。ミシガン大学のあるアンアーバーでもそうだったが、大学ではやたらにレガシーが多い。学者が比較的堅実で理知的外観と4駆がお好きらしい。多数派に埋没するのはいやだと、インプレッサ・5ドアで、それも取り寄せの真っ赤なのを選んだ。性能派ではなく、2.5L+4AT。

本人、環境派としてハイブリッドに興味があったのだが、-30度を下回る極寒、屋外駐車では、どうかなとの疑問を呈し、ガソリン車となった。ところが、ボーズマン、とくにモンタナ州立大学キャンパスには、初代、2代目のプリウスがけっこういるではないか。多分、夜間はガレージに入れるんじゃなかと思ったが、日中でもマイナスが続くはず。トヨタ、ホンダのエンジニアにどこまでいけると聞くと、-30度までは問題ないという。補機バッテリーは鉛酸12Vなので、ガソリン車も同じ。ハイブリッドバッテリーの方は、マイナス40にもなると出力は落ちるが、トンと電気を送らなくなるわけではないとのこと。エンジン始動してしまえば、問題はない。

そうそう、インプレッサでは、エンジンのリモート始動装置をオプション注文していた。エンジンとヒーターがかかれば、ドアを解凍できるというわけ。リモート空調始動は、純EV,プラグインハイブリッドにも装備されるというが、ガレージ内でプラグインした状態でヒーターあるいはエアコンを入れ、予熱、予冷する。




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2009/9/26

おやじブログ 硬水に注意!  旅行

屋外駐車中にスプリンクラーの硬水をかぶるとカルシウム質のあばただらけになる。手前は、アメリカ専用のスバル・インプレッサ・アウトバック。ツートーンが面白い。赤いのがわが家族のフツーのインプレッサ
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先月のモンタナ旅行の出来事。ボーズマンは、イエロ−ストーン国立公園への入り口にある観光客の多い町だ。秋になると公園は閉まるが、こんどはスキー客が押し寄せるとのことだ。イエロ−ストーンへは2時間くらいのドライブである。前日、ガソリン補給と自動洗車をやった。アメリカのは、運転してトンネル状の洗車場のレールに乗る。まずシャワー、洗剤を浴び、またシャワー、そして風力で水を吹き飛ばしてオワリ。

翌日、屋外駐車場のクルマがやたらに汚れている。ボデイ、ガラスに埃と水玉のような跡が点々とある。ウインドシールドウオッシャー液とワイパーでは、落ちないのだ。雑巾で拭いても取れない。水をかけてもだめ。また雑巾でゴシゴシ、なんとか視界を確保して出発。車中3人でブツブツ。「昨日のカーウオッシュがわるかったのかもしれない」「そう、あのドロドロ、緑色の洗剤のドサッという浴びせは半端じゃなかった」「文句いわなくちゃ」

日本に帰るとモンタナの家族メンバーからe-mailが入った。カーウオッシュのせいではなかった。”ハードウオーター”、つまり硬水をくみ上げ、芝生にまくスプリンクラーのせいだった。
硬水にはマグネシュームとカルシュウム成分が多く、これがスポット状を形成するのだ。Yahooアメリカ版を見ると、ある、ある、How toがずらっと並んでいる。
純白酢をスプレイ、レモンでこする、酸性の液体(強酸はまずいだろうが)だったら落ちる。手っとり早いのは、硬水用の洗車液を買ってくることだ。

乾燥している時期なので、タイマーで芝生スプリンクラーがまき散らす。駐車する場所、風によっては、まともにかぶる。軟水の国、日本では起きない珍事だった。

イェロ−ストーン公園の温水噴水の定時の吹き上げ。地中の圧力増加でズバーンと20mくらい吹き上げるのは壮観で、時計のように正確に予測時間に吹く。バイソン、つまり野牛の道路端出現と横断で起きる交通渋滞。時には熊に遭遇することもあるそうだ。バイソンは、間近でみるとデカイ!町に帰り、夜はバイソンのステーキを食した。リーンミートだが、歯ごたえがある。

そうそう、公園内の古い木造のホテルはすごかった。巨木を組み合わせて柱、床、屋根をつくってある。吹き抜けの周り階がベランダになっている。日本のわびさびの世界とは違った迫力を漲らせたインテリアだった。

ボーズマンの町は、鉄道は来ているが、貨物輸送だけ。航空機かクルマしか出入りする手段はない(レンタ馬ってのだどうだろう。私は高所恐怖症モドキなのでだめ)。航空便は便数がそれほど多くなく、使用機も小さいのが大半、料金も割高だ。日本からは、乗り継ぎで時間がかかる。ここだけではなく、アメリカにはそんな町、市が結構多い。

日本料理屋があった!熊本出身の人がオーナーシェフらしく、熊本のポスターが貼ってある。かわいい混血らしいお嬢さんが天ぷらそばをサーブしてくれた。帰ろうと立つと、お嬢さん「おとうさーん」と一声。日本人のお父さんが顔を出し、恥ずかしそうに「ありがとうございます」はにかみ屋なのかもしれない。
意外な場所で会うご当地の日本人の半生には、けっこうドラマがあるんじゃないかと思うことがある。だいぶ前だが、カリフォルニアのヨセミテ国立公園の帰りに一泊した有名な観光地、カーメル。きれいな町の小さなホテルに泊まった。街をぶらついていて目についたのが赤提灯。日本料理屋に入ってみた。和服姿のちょっと寂しげな風情のアラフォア女性がおかみらしい。調理場には、亭主風の板さんが見える。ちょっとメロドラマティックに見えたカップルだったな。


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イエローストーン国立公園名物の間歇熱水噴水は壮観
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木造ホテルのロビーの吹き抜けの柱、床はすごい迫力。日本建築のわびさびに対し、樹木のパワーで迫る

2009/9/6

おやじブログ モンタナへ行く  旅行

8月下旬1週間、アメリカ・モンタナ州ボーズマンという町に行った。地図でみると、北部カナダに接する州で、西海岸からそれほど遠くはないのだが、航空機の乗り継ぎで、東京ー南アフリアと同じくらい時間がかかる。オンタイムでボーズマン空港に着いたが、これが風情のあるパイオニア風のターミナル。インテリアは木造、巨大な熊の彫像がそびえ立ち、荷物受け取りターンテーブルにはティラノサウルスの頭蓋骨化石(たぶんレプリカだろう)がにらみを効かせている。

この町の州立大で教えている家族メンバーが、買ったばかりのインプレッサ・ハッチバックで迎えにきた。彼女、タイア空気圧警告が点灯しているという。見たところ、そしてけっとばしたところ、走っても問題なかろう、そのまま帰った。翌朝、ガスステーションでチェックするかとも思ったが、センサー、バルブなどの不良を考え、クルマを買ったデイーラーに行ってみるかと,出かけた。

ディーラーマネジャーは、例の政府補助金プログラム『クランカー(おんぼろクルマ)セール』で80台が売れた、とご機嫌。わがインプレッサは対象にならなかったが、まあけっこうなこと。引き取ったクルマが外に並んでいるよ。おんぼろ車は、政府所有なので、再販してはいけない。おんぼろは、業者がいずれは持っていって、使える部品を外したり、リサイクルするんだろうなという。ただし、エンジンはコンプリートで売ってはいけないのは、ガス食い、排気のきたないものの再利用はしないという方策だ。また補助金のディーラーへの入金はこれからという。

そのディーラーは、IMPORT GROUPという系列、スバル、VW、ヒュンダイの3銘柄をあつかっている。マネジャー氏に、「ハイブリッドとデイーゼル、どちらに将来性があると思うか」と聞かれた。
。VWジェッタTDIは、入荷した分、完売状態という。たしかに山に囲まれ、外に出るにはクルマが手っ取り早く、経済的なので、ディーゼルの価値はある。
それでも厳寒の冬の地だが、初代から先代までのプリウスの姿を見たのは意外だった。モンタナナンバーなので、ちゃんと耐えているのだろう。

もっと驚いたのは、古いスバルが健在であること。総体的に大型SUVとピックアップトラック が多いのは、農業などの土地柄だろうが、これも勢力図は変わるだろうな。SUVでもトヨタ、ニッサンのヘヴィーウエイト級からホンダ、スバルなどのクロスオーバーの進出が目立つ。

メルセデスの姿が見えない。デイーラーがない。BMWも!VWとアウデイは一緒。結構数がいる。つつましい町なのだろう。

さて、ディーラーのマネジャー、セールス女性と話しているうちに、インプレッサの点検が終わった。サービスマネジャー、5cmくらいのボルトを手に持ち、「これが刺さっていましたよ。パッチアップしておきましたから、大丈夫です」よかった、翌日はイエローストーン国立公園に登ることになっていた。

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右が新しいインプレッサ。下取りに出した96年型Mazd 626、日本名クロノスV6がまだあったので記念撮影。
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Mazda 626は、私がカリフォルニアに仕事場を設けていた時期の足で、以後、家族メンバーについてミシガン、シカゴ、そして彼女単独運転してモンタナまで来た。走行距離は約9万キロ。カリフォルニア仕様なので、何度かバッテリー上がりはあったが厳冬に保ったものだ。



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