湯築城が何故、現道後公園の地に築かれたかを探るには、当時の地勢を明らかにせねばならない。その意味で、北朝方の誰かが湯築城の場所を始めて軍事拠点とした時、湯築の丘は周囲を2本の川と条里制により作られた水路で囲まれていたと、筆写は拙サイト「
伊豫漫遊」及び「湯築城と伊予の中世」(創風社出版)で記した。
では松山の条里制はいつ作られたか。これがはっきりしない。条里制は古代から南北朝期にかけてつくられたと言われ、松山では比較的遅かったと見られている。道後に跡が残る条里制が、もし南北朝期に作られたものなら、湯築城築城後に整備された可能性も出て来る。松山の条里制に関する文献史料が有るのか無いのか正確には知らないが、存在するとは聞いたことが無い。だが一つだけ手懸りがある。

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