若者の活字離れが叫ばれて久しいが、この私もここ二十数年、活字から遠ざかっていた。
学生時代は短編の手軽さで星新一を読み、バイクに乗るようになってからは片岡義男のバイクを題材とした作品をむさぼるように読んでいた。
それ以降は週刊誌などの長くて2〜3ページで終わる文章は読んでるものの、長編の小説などトンと読まなくなった。
そんな私が今、浅田次郎の「地下鉄(メトロ)に乗って」という文庫本を買い求めて読んでいる。
事の発端は、数日前にTVでやっていた同名の映画を観たから。
http://www.metro-movie.jp/
正確にはリアルタイムで観たわけではなく、録画したものを昨日になって観た。
ところが、PCに録画したその映画は途中で切れていたのよ(汗)
普段は映画など観ないのだけれど、郷愁を感じさせる昭和30年代の町並みが劇中に出てくるというので、「ALWAYS 三丁目の夕日」の感覚で楽しみにしていた。
偶然なのか?どちらにも堤真一が出演してていい味出してる。
ストーリー的には思い描いていたものと違っていたのだが、段々と引きずりこまれていって、「この後、感動の結末」と煽りが入ったところでプツっと切れた…
お目当ての30年代の町並みも見れたから、それでも良いかとも思ったが、やっぱ気になる。
そこで文庫本を買い求めて読んでいる次第。
今のところ1/3ほどまで読み進めたが、ほぼ映画と同じなので、堤真一のイメージを思い浮かべながら行を追っている。
で、Wanの描写など全くと言っていいほど出てこないんだけど、ところどころにハッとする文面があるんだな。
例えば、事故で電車が止まり、いつ来るとも分からぬそれを待っている間の会話で、
「赤坂見附まで歩くのも億劫ですね。ごらんの通りの大荷物だし。ここで待ちますよ」
「いい若い者が、億劫か」
「億劫がらずにまる一日歩き詰めた結果です」
「一日歩き詰めても、(商品が売れなくて)荷物は軽くならんか。不景気なんだね」
これをSoulとの関係に置き換えれば、
「新しく試みるのも億劫ですね、ごらんの通りのSoulだし。(成長するまで)待ちますよ」
「夢を持った者が、億劫か」
「億劫がらずに何度も試行錯誤を重ねた結果です」
「何度も試行錯誤しても、Soulは良くならんか。信頼関係がないんだね」
話は前後するが、
「若い者が別にまいることはなかろう。地下鉄は一本止まっても、乗り継ぎを考えれば、どう回っても帰れる。君も○○(初心)まで戻って、△△線(別のやり方)で□□(目的)まで出ればよかろう。大して変わらんよ」
となる。
そう、目的はひとつでも、やり方は幾通りもある。
初めからやり直しだったとしても、遠回りだと思っても、ただ待っているのと大して時間は変わらないのかもしれないな。
そして極めつけは、タイムスリップして若き日の兄に会った場面での感想。
<記憶の中の兄のそれとはちがう、甲高い少年の声、体つきもずっと華奢に見える。背もこんなに低かったろうか。
若くして死んだ兄の姿が、心の中で象徴化されて、実物よりもずっと偉大でたくましい男の姿になっていたことを知った。>
これは正しくBJを偲んだ時の私の思いと同じだ。
でも逆に今のSFは、そんな思いの私に過小評価されているのかな?
この小説のようにもしSFがタイムスリップして、在りし日のBJの姿を見たら何を思うのだろうか?
「アンタ誰?」ってか?