「あ〜。オモシロかった・・・」 <(^.^)> ♪〜 ・・・と言いながら、いつか死んでいきたい。
『わが家新聞』の「こだわりの毎日」欄です。
2020/11/13
珍しく、
五時過ぎまで熟眠した。
目覚めてすぐに、
マイ家事のゴミ出しに行った。
初冬の朝は
まだ昏く、
星々が瞬いていた。
東天には、
クレッセント、
クロワッサンの下弦の月から
恰も溢れ零れたかのように
ヴィーナスとスピカが
貴石のように輝いていた。
朝一で
佳きものを観れて、
まさに
“早起きは三文の徳”
であった。
⁂
60年以上も生きてくると、
自身の微妙な体調変化には
すぐに気づく。
まして、
HSPでもあるので、
その感度は鋭い方であろう。
おとつい、
左耳に軽い耳鳴りが
数秒したので、
(アッ! アラートだ…)
だと感知した。
案の定、
その晩は、
ソーちゃんの棋戦を
途中で爆睡して見落とすほどに
夕食後に猛烈な睡魔に襲われた。
カラダが「早く休め」という
指令なのである。
おかげで
きのうの勤務も無事務めれたが、
日中、胃の辺りに
軽微なムカつきを感じ、
ナウゼリンとセレキノンで
「早期対処」したら
晩までには改善した。
2歳での重症小児喘息から
病気との付き合いが始まってから、
クスリと共に歩んできた
一生でもある。
呼吸困難による
塗炭の苦しみから
気管支拡張剤の吸入で
劇的に楽になるという原体験が
脳裏に刻まれているから、
クスリへの信頼感は
絶対である。
医師や薬剤師にこそ
ならなかったが、
自分のカラダとの
マッチングのいい“合い薬”を
生涯を通じて求めて、
生物学科では生理学、生化学や
基礎薬理学の勉強もし、
セルフ・メディケーションを
極めようとしてきた。
そしたら、
国が医療費や健康保険の
財政がひっ迫してきて、
また、コロナ禍などもあり、
セルフ・メディケーションを推奨し、
医療控除の対象となるような
時代となってきた。
もっとも、古くは、
「越中富山の置き薬」は
どの家庭にもあって、
裕福でもない我が家にも
幼少期にはあった。
大きな行李を背負った
クスリ屋さんが定期的に来て、
紙風船をくれたりしたのも
覚えている。
むかしは、
腹痛にはセイロガン、
頭痛にはケロリン(笑)を、
親によく飲まされた。
吐き気にはキャベジンだったから、
今考えたら、お笑い草である。
自分の周囲や
生徒・父兄にも
クスリ嫌いはけっこう多く、
頑迷に「副作用」を怖れて、
治る病気も放置されるケースも
少なくない。
クスリ「信仰」や「依存」も
問題ではあるが、
極力排除を生涯のポリシーとして、
挙句に、末期がんで
スパゲッティ状態(管だらけ)で
薬物をジャンジャン投与された
知人・縁者をも多く見て来た。
昨日も
抗精神病薬を懸念する生徒に、
「体に良いのをクスリ、
体に悪いのをドク、
…って言うんだよ」
と、いつもの
決まり文句にはじまり、
「副作用が絶対にない
とは言えないけど、
確率1%以下の副作用を怖れて、
99%以上の主作用の
ベネフィットを取らないのは、
非科学的態度だ…」
と言って聞かせた。
カウンセリングを受け容れる生徒は、
賢い子が多いので、
理詰めで諭すと、
腑に落ちて、了解してくれる。
そんな、
“薬ハカセちゃん”でも、
我が身のオシリ痛と
我が身のお馬鹿に
つけるクスリは知らない(笑)。
⁂
生物は、ケミカル・マシンでもあり、
フィジカル・マシンでもあるが、
それに加えて、ヒトは、
サイコロジカル・ビーイング、
ソウロロジカル・ビーイング
でもあるなぁ…というのが、
最近のビリーフである。
山木屋路にある
真福寺のお地蔵様が
侘びた風情で、
合掌するお姿も
どこか有り難い。
ダイソーの手芸コーナーで、
かねてから欲しいと思ってた
シームリッパーを見つけて
さっそく、洋服直しに
活用している。
これまで、
カッターで代用していたが、
やはり専門ツールは
機能的にできており、
狭い隙間に先端を潜らせると
簡単に刃の部分が
仕付けた糸を切ってくれて、
ほどき作業が楽になった。
服飾マンガの
『王様の仕立て屋』で
たびたび登場していたので、
いつかは入手したいと思ってたが、
灯台下暗しで、近所の
ダイソーにあったとは…。
NHKのニュース特集で、
コロナ禍でのマスクが、
乳幼児の保育や教育現場で
懸念される問題が出始めていると
報じられて、将来の
禍根になるのではと危惧された。
言語獲得以前の乳児は、
たしかに、親とケアテーカーの
顔全体の表情から
相手の喜怒哀楽を認知する。
実験で、
“福笑い”のような
目鼻口がバラバラの表情を見せると
赤ん坊は不安反応を示す。
それが、高じれば
情緒障害に発展するだろうことは
想像に難くない。
アイコンタクトのみで
ある程度、相手の意図や
エモーションを測れるのは、
成熟した大人になってからなのである。
先日の教育講演会では、
フロアの父兄が全員マスク姿で、
壇上からは目元しか視認できないから、
その反応がつかめず、
とてもやりにくかった記憶がある。
やはり、
口角が上がったり、
頬の筋肉が緩んだりすることが、
相手の笑顔や好感度を
読み取るのには不可欠な
ファクターなのである。
“三つ子の魂百まで”
という古人の経験則も嘘ではなく、
言語獲得以前の臨界期に、
相手の表情を学習する機会が奪われたら、
晩期障害より早く
情緒面での発達障害が生じるだろう。
その対策としては、
透明なフェイスシールドを用いて、
ある程度は、解決されるだろうが、
しかし、それとて、素顔ではなく、
一枚の謝絶物を介するので、
その微かな影響とて無視は
できないかもしれない。
近所にできた唐揚げ屋の
照り焼き手羽先と
砂肝揚げを
わざわざドレッセしてみた(笑)。
プレートのフレームを
額縁に見立てて、
白地をキャンバスと思って、
食材の色で描くアートを心掛けているが、
“絵に描いた餅”のようではなく、
「キレイ」かつ「美味しそう」
というのを両立されるには
何かコツがあるはずだと、
探求を続けているが、
まだ、ネット情報以上の
秘訣のようなものは
掴めていない。
だからこそ、
今日も、明日も、
ドレッセし続けているのだろう。
芸事の道は、須らく、
飽くほどにやってみて、
そこから、何かが捨象されて
洗練の極みに
到達するのかもしれない。

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