5月に先発隊で
大阪に単身赴任していた
フミ吉のところに、
やっと東京の母子が引っ越して
また三人家族の生活が
無事スタートしたようである。
休日には、
そっそく京都巡りをしてるようで、
フミにとっては
生まれ故郷で5歳まで過ごしたので、
トーチャン/カーチャンに連れられて
ほぼ全ての寺院を廻ったので、
もしかしたらデジャヴュ感が
あるやもしれぬ。
8年間の在京中に
拝観できなかったのは、
桂離宮、修学院離宮、苔寺だけで、
あとは末寺の塔頭に至るまで
二巡りくらいした。
中でも、
偏愛のある個所は
近所の東福寺で、
その本堂と塔頭の
「芬陀院(雪舟寺)」は
何度訪れたか分からない。
乳児・幼児期のフミを
連れて歩いた京都を、
親になって我が子を
連れている姿を見るのも
なんだか感慨深いものがある。
"りくぼう"に
ここがお父さんの生まれた処だよ、
と声をかけたかどうか…(笑)。
りくぼうも
久しぶりに両親が揃って
晴ればれしたいい顔をしている。
宇治の平等院も
幾度も訪ねたが、
正面のお堂の観音開きが
閉ざされている光景は
初めて見る。
これもコロナ禍の影響かもしれないが、
こういう時だからこそ
阿弥陀様のご尊顔を拝したい
と思うのだが…。
京都の坊様も
仏様を観光物扱いしたり、
私物化するというのを
80年代の市の古都税導入時の
「拝観停止」問題で感じた事がある。
冷凍パイ生地を使って
『キッシュ・ロレーヌ』を
こしらえてみた。
YouTubeの
『ポールボキューズの料理教室』
を視て、ちゃんとした
パナード(ホワイトソース)の
作り方を勉強した。
オフ日だったので、
『セカンドストリート』を
ブラウジングしてきたら、
新品で3000円の定価のものが
ワンコインであったので
3枚選んできた。
ロゼのアシェット(大皿)と
合わせてみたら、
どれもエレガントな感じだった。
キッシュは
定番のトリアングル(三角)には
デクパージュ(切り分け)せず、
セルクル(丸型)で抜いて
深皿の形状に合わせてみた。
ラスター彩の
ドーナツ型のは
カミさんに受けていて
「カワ(・∀・)イイ!!」
と喜んでいた。
今朝の
全国紙朝刊の地方欄に、
福大教授様が
淫行でクビになった事が
出ていた。
当然の処遇である。
これで、もし、
譴責(けんせき)とか
減給のような
身内に甘い処分だったら、
OB会として
学長に談判するつもりだった。
当人は如何に猛省しようが、
全国の男性カウンセラーの名誉も
大いに失墜させた事の大罪は
失せるものではない。
これで、
福大の心理学教室も
"曰く付き"の穢れを
背負わされてしまった。
こうなったら、
変態教授様と同年齢で
同高・同院・同教室出の
カウンセラーです…
とでも自虐的に公然と
ギャグにするより
仕方がないなぁ…。
ハァ〜…(〃_ _)σ‖
**********
『魂理学試論』12
「この世はリアルな夢?」
*
時折、この世は「自我」という意識がみている夢ではないか…という思う事がある。
睡眠時の夢には、荒唐無稽なものが多いが、それでも、様々な人が出てきて、様々なアイテム、様々なシチュエーションが設定される。
それは、あたかも、もう一つの現実のような気がするが、全てが脳内で作られた「自作自演」のものなのである。
なので、ユング心理学では、夢分析に於いては、解釈をする際に、主体水準と客体水準とに分けて考える。
自分以外にAという人物が登場した時には、実際のAにまつわる自由連想をしてみて、腑に落ちる事を探し当てる。
それが客体水準であり、主体水準では、そのAも自分自身と考えて、それにはどういう意味があるのかを考える。
これを敷衍してみると、現実世界のAさんも、時に、自分が創り上げている幻影、「一つの生涯」という物語に登場させている人物の一人なのではないか、という気がする時があるのである。
そのAさにも自意識があるということは「自明」のようで、証明のしようがない。
なぜなら、夢の登場人物でさえ
「あなたは、本当に生きているんですか?
自意識があるんですか?」
と問うて、
「なに馬鹿な事を…。
あるに決まってんでしょ」
と、けんもほろろに答えるだろう。
*
解離性障害や離人症になると、現実感が希薄になる症状が現れる。
これは、脳内の生理的異常によるものとされる。
脳神経系の伝達物質のバランスや視覚系−聴覚系の連合が乱れると「現実感」が正常に感知されなくなるのである。
自分にも最近、解離性の症状が起きたが、危なく「自失」する前で、なんとか踏みとどまってくれたので幸いした。
卓球部の中学生男子もカウンセリングで
「ボールを打っている実感がないんです。
ボールを打ってるのは、いったい誰なのか分からなくなる」
と言ったのを聞いたことがある(笑)。
健常者から見たら、馬鹿げた事に聞こえるだろうが、この離人感という異常症状は薬物治療で改善した。
健常者でも、ドラッグや酩酊により、現実見当識が正常でなくなることはよくある。
亡父は、癌切除後のベッドで、全身麻酔から覚めると、天上を指さして
「モルモット…モルモット…
天上の処を飛んでる」
と言って、看病している母親や我われを笑わせてくれた(笑)。
麻薬の覚醒時幻覚を見たのだろうが、彼には、その時、現実見当識も低下しており、覚醒していながらの現実と感じたのだろう。
主体水準では、かくばかりに、この世の現実といえども、薬物ひとつで簡単に違って認知されるのである。
この場合、彼以外の他者にとっての外的現実では「誤謬」なのだが、彼自身の内的現実(心的現実)では「真実」なのである。
我々は、夜見る夢と現実の違いは明らかに区分できているが、現実の中でも、「夢のような出来事」はしばしば経験する。
たとえば、今現在の「コロナ禍」の渦中も、まるで「悪い夢」を見ているようだ。
3.11の震災も原発事故も、過ぎた事だが、「ひどい夢」のようであった。
*
本当の客観性というのは、有り得ないということをよく描いているのが、芥川の『藪の中』という作品であり、これは黒沢監督により『羅生門』として映画化された。
その内容は、一つの事件を体験した4人が、言う事がてんでバラバラなのである。
まさに、現実とは、各人にとって、主体水準での解釈に過ぎない、ということをよく示している。
さて、今の魂理学的問題は、様々な領域のアナロジー(類推・類比)によって考察すると、「一にして全 全にして一」という事から、この現実は、自分の意識が創り上げたものである、という見方も成立するような気がする。
それは、他者に自意識があっても別にかまわない。
宇宙における現実は、3次元の動的な曼荼羅的に、重なり合い干渉しあって存在しているとも考えられるからである。
この宇宙が誕生して、138億年して、自分の固有の自意識を「自分で認知」している。
前世も来世も、とりあえずは横に置いておいて、兎も角、今現在、ここにおいて「自意識」が働いて、外的世界を感知・認知している。

0