カラダが
秋モードへの変換中なのか、
ちょっと「プチデプ」(ちょい鬱)
のようで、なんだか、
ここ数日、意欲に欠けている。
仕事以外は、
なんだか面倒くさい感じがして
やる気が起こらない。
なので、
ブログネタ作りを
積極的にする気も起こらず、
ストックしてある画像ファイルから
選び出している。
きのうはK中で
昼休み中に、
カウンセリング室の
掛け錠を外からカチャリと
いたずらで掛けた生徒がいて、
内側から引き戸が開かなくなり、
椅子に上がって天窓から
廊下に怒号した。
ちょっとムッとしたので、
もとより声量があり
声が大きい方だが、
肚(はら)から振り絞るように
大声で怒声を上げたので、
驚いて階下の先生が
二人やってきて
鍵を外してくれた。
当の悪たれ生徒は
笑いながら走って逃げたが、
学年の先生方が
あいつらしかいない、
と見当をつけて
犯人二人を連れてきてくれた。
怒りは収まっていたので、
二人をカウンセリング室に座らせて
話を聞くと、一人は神妙にしてたが、
実行犯は神妙にできず
笑いどおしで呆れたが、
聞けば小学校から
イタズラや多動で先生に
叱られてきた子らしかった。
謝罪場面で
神妙にできないのは、
TPOに適応できない
ADHD傾向に思えた。
これまで、
小中と担任から
保護者に受診を奨めても、
「元気なだけ」
とか
「自分もそうだった」(父親)
と言うばかりで、
まともに受け止めようと
されなかったという。
このままでは、
適切な治療機会をさらに
逸してしまうので、
当人、および担任にも
カウンセリングを奨めたが、
また親がディスターブ要因に
なりかねない。
カウンセラーやカウンセリング室に
絡んでくるケースは、
大概は無意識下で
「SOS」を発している事が多い。
はたして、
当人のセルフ(無意識)が
エゴ(意識)を従えて
カウンセリングに連れてこられるか、
彼の人生の大きな岐路である。
未治療ADHD群の一部は、
CD(素行症/Conduct Disorder)
ASPD(反社会性パーソナリティ障害)
と連続的・階層的に
DBD(破壊的行動障害)に憎悪しやすい、
という疫学的研究がある。
それで、これを
「DBDマーチ」とも言う。
「攻撃性」には
「積極的、意欲的、建設的」といった
ポジティヴな側面もあるが、
時として、非行や犯罪として
発現されるケースも
少なくはないのである。
『哀しみ』と
題名をつけた箱庭作品の
分析をした。
全体に円形を為しており、
「曼荼羅」を思わせる。
人が無意識に
円構造に執着する時は、
その完全性が
現状の心的不安定性を
「補償」するものとして
表現されると深層心理学では見ている。
島の中にさらに島構造があり、
その真ん中では、
ネコが殺された生き物たちの亡霊に
殺されるところだという。
周囲の平和なコテージにやってきた
人たちは、外でBBQをやっていると
突然、洞穴からトラが出てきて
二人連れを襲って喰ってしまう。
それを
近くの丘陵に立つ教会から
ムーミンが隠れながら見ているが、
やがて島全体が沈没するために、
助かる者は誰もいない、という。
島全体の中心には
石が置かれ、
それは、あたかも
「賢者の石」のようでもあり、
クライエントを
「死と再生」の通過儀礼後に
救いあげる「セルフ(無意識下の自己)」の
シンボルのようにも思われた。
主訴の心身症は、
クライエントを「個性化の過程」
「自己実現」に導く
「セルフ・アレンジメント」
のようにも感じられる。
ユングは、
「人が症状を治すのではなく、
症状が人を治すのである」
と、いみじくも言っている。
なんだか、
最近、体調が思わしくないせいか、
やたらと中学時代の
可愛いと思っていた子のことを
思い出す。
一種の「治療的退行」
なのかもしれない。
それと、ふと、また、
私淑する河合先生の
レクチャー・テープを
トイレット・タイムに
聞き出した(笑)。
師である
碧水先生が生涯に
残された歌集が
書棚にあるが、
その一万数千首から
厳選したものを一冊に編んで
遺族の御許可を得て
出版したことがある。
委託販売で
100冊ほどしか売れていないが、
それでも、その「たましい」の歌を
百人もの人にお届けできたのは
幸いであると思っている。
書家でもあられる先生は、
師範がどちらが自分の手本か
判別できない、とまで
言わしめるほど
愚直に稽古された名人だが、
その独自の書体は
瓢げていて面白い。
『魂理学試論』8
「かつて在り、今も在り、これからも在る」
*
「自意識」について、長らく考えてきた。
なにせ、デカルトの言う「我思う 故に我在り」というのは、疑いようもない事実のような気がするので…。
あるいは、この自意識の感覚自体が、鮮明な夢のようなイリュージョンなのかもしれないが…。
なら、その「夢見て手」という「主体」はいったい誰か? となる。
そこから、【この世は、神の見ている夢である】という比喩ができたりする。
兎も角も、とりあえず、物事の出発点として「今在る」自意識をイリュージョンではなくリアルなものとして思考実験を進めていくことにする。
そうすると、最近、思うに至ったことは、この自意識とは「かつて在り、今も在り、これからも在る」普遍的なものではないか、ということである。
これは、「たましいは生き通し」という事とほぼ同じだが、「自意識」イコール「たましい」と即断していいものか、いささか躊躇する部分がある。
それは、一回性の人生を生きるごとに「個性性は変わる」からである。
つまり、自分は、前世はおろか100代前の記憶なぞないからである。
ただ、世界には、前世を記憶する子どもたちがいて、かなりの確率で彼/彼女たちの言うことが出鱈目ではなく、現実の事と一致するというエピソードが数ある。
また、金光教内のエピソードに、現世の自分が難儀するのは何代前かの自分の生き方が真善美聖に反するものだったから、という、まるで隔世遺伝みたいな、数世代後の因果応報が神から告げられるというものがあった。
なんだか腑には落ちなかったが、ほぉ…と、関心するエピソードではあった。
受精卵と体細胞には、ヒトとして展開し得るすべての遺伝情報が入っている。
とすれば、「たましい」にもすべての情報があるのかもしれない。
異端的な物理学者の中には、素粒子1ケには宇宙の全情報が含まれている、という説もあり、ファンタジーとしては面白い。
華厳教では、似たような考え方をしている。
それでも、体細胞では特定の組織・器官に「分化」した後では、他の部位にもなれる全能性は封印される。その封印を解くことも細胞では可能になり、「脱分化」させれば「未分化」な受精卵と同じ全能性に戻るのである。それがiPS細胞である。
そうであるならば、また飛躍するが、分化して個性化した「たましい」も「脱分化」操作しだいでは、全情報を引き出せる可能性はある。
スタニスラフ・グロフなどのトランパーソナル心理学者では、LSDなどの薬物を用いた年齢を逆行させる「退行催眠」で、被験者の前世記憶を引き出したというエピソードもある。

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