昨日は
「ケース中断」があり、
ひとりカウンセリング室で
自己反省やら
要因分析・検討をしていた。
「ケース中断」とは
長らく続いていたケースが
カウンセラー側の失敗で
中断してしまうことで、
プロとしてけっこう
身にこたえるものがある。
それでも
ソータの将棋と同じく、
敗れた一局にこそ
学ばねばならないものが
多くあるので、
半日かけて検討してみて
やはりいろいろと
経験則的なものが浮かび上がった。
クライエントが良くなって
お礼を言われるのは
カウンセラー冥利に尽きるが、
いつもいつも
そうばかりとも言えないのが
この仕事の辛いところでもある。
「癒されても治らない。
治っても助からない」
という経験則がある。
相手の苦しみを受け入れ、
慰め、時に一緒に悲しむ、
ということは「癒し」にはなるが、
「治る」ということには
「死と再生」の通過儀礼を
経ないとならない。
つまり象徴的な「死」を
体験しないことには、
「再生」はありえないのである。
この時には、
身が切れられるような
痛み、苦しみ、辛さを体験する。
カウンセラーは「相談者」でもあるが、
その本態は
サイコ・セラピスト(心の治療者)でもある。
それゆえに
鋭利なメスも持っている。
「癒し」の段階では、
母性原理的に無条件の受容を為しながら
自然治癒により心の傷が癒えるのを待つ。
しかし、人は時として、
病むことで退行し、
現実から目を背けたり
その認知を誤ることがあり、
ことに思春期心性の頃には
「病み期」に留まろうとする
反復強迫的な傾向がある。
それはフロイト的には、
エロス(生への欲動)を封じて
タナトス(死への欲動)への
親和的選択とも言え、
ユング的には
苦難を伴う「個性化の過程」への
尻込みとも言えよう。
いつまでも卵の殻の中にいては、
あるいは、子宮の中に留まっていては、
この世に生まれ出てはこれない、
ということを見極めて、
セラピストにはその胎児に
出生を促す役目も担っている。
これは
コンフロンテーション(直面化)
という技法でもある。
「カウンセラーは現実の大使である」
とも言われる。
「もう、そろそろ自分の脚で
歩いてみませんか」
「現実から目を背けては
生きていけませんよ」
「今、何をしなくてはならないのか
考えて、実行していきましょう」
・・・というような
ゆるゆるの社会化メッセージでも
侵襲的と受け取り、
再び殻にこもったり
セラピストに見捨てられと嘆いたり、
攻撃を向けてくることすらある。
泣きながらも
それを受け入れて
歯を食いしばって立ち上がるものと、
ダダ崩れになるものの違いは
エゴ・ストレングス(自我強度)の差であると
昨日の「中断ケース」で気づいた。
これまで、
失敗してきたのには、
やはり、ASD(発達障害)絡みであった。
そして、
そこに自傷癖を伴う
PD(パーソナリティ障害)を伴ったものは
IQが高くともEgo strength が弱く
Confrontationには
耐えられないケースなのである。
Ego strength のアセスメント(査定)を
誤って「踏み込みすぎた」というのが
今回の「中断ケース」で得た
教訓である。
それは、信じられないほどの
Vulnerability(傷付きやすさ)というか、
耐性欠如がある、ということの
再認識にもなった。
今回は、
注射をしたら泣いてしまった子に、
親から、なんで泣かせるんだ、
もう注射はさせない、
という苦情があったという。
たしかに、
痛くないように注射するスキルも
見出さなくてはならないし、
メスを入れる前には
十分に麻酔が効いたか
というのを見極める目も
養わねばと思わされた。
でも、教育臨床畑にあって、
苦い薬は子どもが嫌がるから
飲ませないでくれ、
というのは
「治らなく」っても
将来「助からなく」なってもいい、
と言うように聞こえて、
それって、適切な治療を与える
保護義務に反するネグレクト、
スポイルじゃないかとも思うのだが。
それは兎も角、
信仰の上では、
とにかく「助かってほしい」
と神様には祈らせて頂いた。

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