NHKの震災ドラマ
『星影のワルツ』を観た。
津波で沖合に流され、
漂流すること三日。
奇跡的に救出された
実話を元にしているものだった。
奇しくも、
自分も、似たようなテーマで
短編を創作をして
『3.11を生きる』というサイトで
発表したことがあるが、
昨年、そこを閉鎖したばかりである。
なので、
震災10年目という
年柄でもあるので、
ここに再度、掲載することにした。
***
3・11の時に、実際に聞いた悲劇が、どうにも胸に治まらなくて、そのイメージを夢にまで見るほどトラウマになったので、思い切って、フィクションを創作して吐き出すことにした。
被災された個人名は存じ上げないが、ご本人のご冥福と、ご親族の「たましい」の助かりを、心から祈念するものである。
***
『太平洋ひとり』
1
あの日、里奈は卒業式であった。
が、あいにくと風邪をこじらせて、二階の自室の床に伏していた。
そして、午後2時46分・・・。
恐ろしいばかりの地鳴りと共に家が大きく揺れ、本棚からありとあらゆるものが飛び出して、しまいには本棚そのものが凄まじい音を立てて倒れ伏した。
両親は仕事に出掛けており、弟も学校であった。
家にひとり伏せっていた里奈は、ベッドで布団をかぶって悲鳴を上げるよりなかった。
恐ろしい揺れは、間隔をおいて、三度襲ってきた。
バキバキッという何かが折れる音が窓の外から聞こえてきて、里奈の恐怖心をさらに煽った。
「お母さ〜ん。助けてぇ〜ッ」
と、里奈は布団をかぶりながら泣き叫んだ。
激しい揺れが治まっても、しばしの間、布団から顔が出せないほど彼女はパニックに陥っていた。
風邪で体がだるくて思うように動かない、ということもあった。
里奈は、恐怖心に体を強張らせながら、布団に包まっているより為すすべがなかった。
その間にも、動悸が高鳴るような余震が何回も部屋全体をゆらして、そのたびごとに
「いや〜! 助けてぇ〜ッ」
と泣き叫び続けた。
もう室内は、足の踏み場もないほどに、あらゆるものが散乱している。
枕元のケータイは三分おきほどに「地震警戒アラーム」がなった。
里奈の十八年の人生で一度も経験したことのない、あきらかに異常な事態が発生していた。
ケータイのアラームがなるたびに部屋は音を立てて揺れた。
窓の外には、ちらちらと雪が舞っている。まだ、冬の終わりといってもよかった。
何回目かのアラームが鳴り響いた頃、里奈は揺れやまないベッドの布団の中で、聞きなれない、低いホワイト・ノイズを耳にした。
聞き覚えのないそれは、次第にヴォリュームを増し、ゴーッという唸りのなかに、メキメキ、バキバキという音を含んでいた。
里奈は本能的に破壊的な何かがこちらに迫ってくるのに恐怖した。
それは、やがて轟音になり、濁流のような水音と感じた瞬間、ダダーンッと、家の壁に激突した衝撃を感じた。
(なにッ?)
里奈は布団の中で頭が真っ白になった。
(今度はなんなのッ?)
里奈はその不明の爆音の正体に布団から顔を出して確かめる勇気が起きなかった。
それは、水がゴンゴンと流れる凄まじい音だった。
(エッ? 何なの〜…)
ドッカン、ドッカンと、次々に家の壁に何か巨大なものがぶち当たった。
それは、布団の中の里奈には、巨大なモンスターが街を踏み潰しているかのような衝撃であった。
勇気を振り絞って、布団の隙間から、ちらりと窓の外を見て、里奈は肝をつぶした。
なんと、どこかの家が何軒も目の前を流れてゆくのである。
(津波…?)
ここにおいて、里奈は初めてモンスターの正体を知った。
大津波だった。巨大津波だった。
自分のいる家もすでに一階部分は水没していた。
(何なのこれ…?)
恐怖のなかにも、唖然とした気分が湧きあがった。
幸いにも、津波は二階の窓ギリギリのところまでの水位である。
しかし、窓の外は、見渡す先まで海の中にいるような光景が拡がっていた。
磯臭い、潮の香りが部屋の扉からなだれ込んできた。
階段が海水に浸ったのだろう。
里奈は蒼ざめた表情で、窓の外を流れる何軒もの家々を見送っていたが、この先起こるであろう、我が家と我が身の運命なぞ、つゆも想像できなかった。
十八年の生涯で、聴いた事もないような自然が発する大音声に、うら若い女の子は震えるよりすべがなかった。
その時だった。地震とは明らかに違う揺れが里奈を襲った。
それはガコンッという衝撃に続いて家が何かから外れて浮き上がったような感覚であった。
我が家が浮かぶ舟になった瞬間である。
(うそ〜ッ…)
里奈は、新たに半泣きになって、浮遊して流れ始める舟のような感覚に、血が引くような寒気を感じた。
遠くに見える高台が、まるで不動の北極星のようにそこに留まってあり、自分を乗せた家の船は流れに乗ってどんどんと街中に移動していくのであった。
周囲には沿岸の何百という家々が運命を同じくしていた。
大きな漁船も巨大な津波のエネルギーには抗えず翻弄されていた。
(いったい、どうなっちゃうのぉ…)
まるで幼児のように退行し、何を為すこともできずにいたが、つい、昨日まで女子高生だった彼女は、おもむろにケータイに手を伸ばし、母親の短縮番号を押した。
ちょっとの間の機械的な呼び出し音が、里奈にはどれほど永く感じたであろう。
「里奈ぁーッ!」
「お母さーんッ!」
という、絶叫と涙声が互いの第一声であった。
「助けてぇー。お母さん」
「里奈ぁーッ!」
と、母親はふたたび絶叫した。
明らかに、母も動転していた。
「流されてるーッ。津波で、家ごと流されてるのよーッ」
と里奈はケータイに向かって泣き叫んだ。
「だいじょーぶ。だいじょーぶだから…」
と、母親はそれを何度も繰り返した。けど、その保障も、娘を助けてあげられる手立ても何もなかった。
「だいじょーぶだから、そのまま、じっとしていなさいよーッ」
と母も泣きながら叫んだ。
「お母さん。怖い…。こわいよー」
里奈は幼子のように泣きじゃくった。
母も泣いた。どうしようもなくって。
「お母さん。どこ? 今、どこに居るの?」
里奈は母の乳房を捜し求める乳児のように、その居場所を懸命に尋ねた。
「高台よ。家から見える高台に居るのよ」
母は毅然として応えた。
「お母さん。私、死ぬの?」
娘の切実な問いに、母は即答に息が詰まった。
だが、すぐさま我に返って
「ばか。助かるにきまってる。
助かるよ。だいじょうぶだから…」
と幼な子を安心させる母のような語調で言って聞かせた。
「ホント? ほんとに?」
里奈は何度もそう尋ねた。
「ぜったい。ぜったい、だいじょーぶなんだから。ぜったい助かるから、だいじょーぶだよ」
母は泣きじゃくる娘に何度もそう勇気づけた。それは、自分に対するエールでもあった。もう、心が折れそうになっている。息子や旦那の所在も分らない。
職場から高台へと揺れの後すぐに避難した母親もまた、眼前に展開する未だかつて見たことのない壮絶な破壊光景に魂を奪われていた。
そこへ娘からの「流されている」との着信である。
我が身は安全地帯にいながらも、まさに、生きた心地がしなかった。
我が家の屋根色は、新築する際に娘の意見も取り入れて、明るいオレンジ色を選んだ。
その鮮やかな色は、五百メートルほど離れた高台からもしっかり視認できるくらい目立ったものだった。
しかし、今、母親が高台から眺める我が家の方向に、その色はどこにも見当たらなかった。
今、家は娘を乗せたまま、上流に向かって押し流されていた。
辛うじて、娘の消息は知れて、今こうして文明の利器によって話も通じていた。
しかし、娘のこれからの運命をちらりとでも想像すると、母親は胸が締め付けられて息ができなくなった。
そう。やがて水は引く。
上流から下流に向かって。
でも、その下流とは、あの大海原である。果てしない水平線を持つ海。津波がやってきた海へ、津波は帰るのである。
その時、娘の乗った我が家舟は…。
いやいや。どこかに引っかかることだって、大いにあり得る。
いや。必ずや、そうなって、娘は助かるはず…。と、母親はそこに心の焦点を絞った。
「体ぬれてない?」
電池の切れるまで、母娘は通話を切らさない覚悟でいた。
「ぬれてない…」
「だいじょーぶだからね。きっと、助かるから」
「うん…」
娘は、母の励ましに幾分か自分を取り戻して、気丈夫になりかけてきた。
でも、未体験の家舟、行き先の分らぬ道行き、荒れ狂う波頭、凄まじい轟音は、十八の女の子が勇猛に振舞うには手ごわすぎる試練であった。
「もう、だめかな…」
と里奈は弱気になった。
「バカッ。生きるのよッ!
ぜったい、ぜったい、助かるんだから。
諦めちゃダメッ!」
母は、くじけそうになる娘を強くなじった。
無理もない。自分ももう壊れそうだった。
出来得ることなら、この逆巻く流れに飛び込んで娘を助けに行きたいくらいであった。
しかし、それは、映画でも何でもないこの現実では、痛いほどに不可能なことだった。
(里奈ぁ。颯太ぁ。おとうさん…)
母は祈ることと、ケータイの向こうの娘に勇気づけること以外、この場では何も為すすべがなかった。
2
家舟の流される速度は、ちょうど全速力で漕いだ自転車ぐらいの速さだろうか。
家全体がひとつの箱舟のように、ゆらゆらと揺れながら濁流の海水に乗ってどんどんと上流へと流されていった。
里奈の部屋は、さながら嵐の海を渡る船室のように大きく前後左右に揺らめいていたが、震度6強が三分も続いたファースト・インパクトで、もはや何ひとつ落ちる物はなかった。
一階の天井に空気溜まりがあるのか、家はけっこう安定感を保ちながら箱舟の用を為していた。
「里奈、だいじょうぶかいッ?」
母親は途切れることなくずっと娘の安否を問いつづけた。
「うん…。まだ、部屋まで水入ってこないよぉ…。
あぁッ…」
「どうしたのッ?」
動悸が高鳴り続けていた母親だったが、さらに一瞬ドキリとした。
「学校が見えた…」
それは里奈の卒業した小学校の体育館の屋根であった。
(そんな所まで、もう…)
母親は、娘が制御不能の箱舟によって何処まで運ばれるのか、今にも狂いそうになる思いで胸が塞がった。
高台から見下ろす土色に濁った海流の勢いは、まったくもって治まらなかった。
もはや押し流されるべく沿岸の構造物は尽きたとみえ、広大な海そのものが押し寄せてきて、凄まじい勢いで街々を呑み込んでいった。
娘の姿は見えずとも、その息遣いと哀れな声は、耳もとのケータイから轟音に紛れてまだ母親に届いていた。
(里奈ぁ…。
どうぞお助けください)
と、母親はふだん祈った事のない神仏にすがった。
(お父さん。助けて…)
と、去年亡くなった里奈の祖父にも祈った。
家舟は数キロも上流に流された。
そして、行き着くところまで行くと、次第に流れは淀み、半径数十メートルの巨大な渦をあちこちに生じさせ、ゆったりと流れを逆転させた。
いよいよ川下りのように、下流に向かって家舟は進路を反転した。
流された多くの家々と共に…。
「お母さん。今度はまたそっちに流れ出したよう…」
(どうなっちゃうの、これから…)
とまでは言葉にならなかった。
家舟の梁がギシギシと大きな呻き声をあげた。
津波の渦によって捻られ、構造にストレスがかかったのだろう。
それはまるで、家自体も
(もうだめ…)
と悲鳴を上げているかのようであった。
初めはゆったりした反転速度だったが、それは徐々に速度を上げ、次第に加速度がついて、押し流された速さを上回るほどの激流に化しつつあった。
里奈は、海岸の砂浜で、足元を返す波に足を取られて倒れた幼い日のことを想い出した。
浜辺のたった数十センチの波でも、幼い子ぐらいは転倒させる運動量があることを経験者なら誰でも知っているだろう。
この津波の高さはどうだろう。
小学校の体育館が水没しかかっている。裕に十五メートルはあるのだろう。
コンクリートの防潮堤が紙細工のごとく押し流されたのだから、その破壊力の凄まじさは計算も及ばない。
それにもまして浮力の凄さである。家一軒を基礎から浮かせてしまうのだから…。
それでも、未だ、バラバラに解体し散乱してしまった家箱の時間帯にはなかった。
しかし、どの家々もそうとうなストレスで疲弊していた。
何より海水に浸った建材は、刻一刻とその強度を脆弱化させているはずであった。
それでも、里奈の家舟は新築だったこともあり、まだ十分に舟としての機能を果たしていた。
「お母さん。こわいよぉーッ… これから、どこに行くの、これ…」
その問いにだけは、母親もさすがに応えかねて…
「だいじょーぶ。
ぜったい、助けが来るから…」
と勇気づけるよりなかった。
津波の返りは、さらに加速し、やがて渓谷の激流なみのトップスピードになって飛沫(しぶき)さえ立てはじめた。
(こわいッ…)
里奈は、そのスピード感と、家舟全体の揺れ、そして、辺りに響き渡る轟音とに圧倒されて、胸内苦悶と過呼吸の症状に陥った。
「苦しい…。お母さん。苦しいよぉ…」
娘は泣いた。怖がっており、苦しがっている。
手が届くものなら、この腕に抱きしめてやりたかった。
母親も涙した。
「里奈ぁ。がんばるのよーッ!
もうすぐ助けが行くからねッ!」
それは母親の願いではあったが、それを保障するものは、今、何ひとつなかった。
今この荒れ狂う自然の猛威のなかで、誰がどう救助できるというのだろう。
現実には、母親の願いは祈りに過ぎなかった。それでも、母親は信じた。我が子が奇跡的に生還するであろうことを…。
高台では、見知らぬ人どうしがひと処に寄り合って、眼下の大惨事に、悲鳴とも絶叫ともつかない嘆きの声を誰もが上げていた。
「何なんだこれ…」を繰り返してばかりいる青年。
「何が防潮堤だぁーッ!」とやり場のない怒りを吐いている初老の男。
「カナエーッ! かなえーっ!」と濁流に向かって叫び続ける父親。
「なんまいだぶ、なんまいだぶつ…」とお経を唱える老婆。
「里奈ぁーッ!」とケータイに向かって呼びかけ続ける母親。
それはまさに、阿鼻叫喚の地獄絵図のようであった。
3
母親の祈りは、思いがけぬ形で天に届いた。
なんと里奈の乗った家舟は、ビリヤードの玉のように、無数の漂流物に押し合いへし合いされたのと、津波の巨大な渦によって方向を変えられ、母親のいる高台近辺へとその舳先を向けていたのだ。
布団から這い出し、窓辺にかじりついて外の情景に目が釘付けになっていた里奈は、そのことに気付いた。
「お母さん。そっちへ行くよーッ!」
という予想だにしなかった娘の言葉に、母親は瞬時にはその状況が呑み込めずにいた。
そして、まるで、娘が学校から帰宅でもするような姿が脳裏に浮かんで、ほんの一瞬だけ胸の内に明かりが灯ったような気がした。
しかし、それは妄想にしか過ぎなかった。
母親も、今この状況で、娘が言ったことの意味がようやく了解できた。
そして、逆巻く濁流の彼方へと目を凝らした。
すると、どうだろう。
我が家のと思しきあのオレンジ色の屋根がこちらへ向かって流れてくるではないか。
今しばらくしたら、高台から数十メートル辺りまでやってきそうな…と、思っているうちにも、どんどんと接近してくるのであった。
「里奈ぁーッ!」
思わず母親はその方角に向かってありったけの力を振り絞って雄叫びをあげた。
その時だった。
堅く閉ざされていたサッシの窓がガラリと開き、里奈が半身を乗り出してこちらに向かって叫んだ。
「お母さぁーんッ!」
母親の目に、はっきりとその姿が映った。娘である。ケータイの向こうの生身の里奈がそこにいた。
「お母さぁーんッ!」
と二度目に叫んだ声は、よりハッキリと母親の耳に届いた。
「里奈ぁーッ!」
母親も無我夢中で叫んだ。
親子共々、諸手を広げて互いを抱擁せんとばかり、互いを呼び合った。
その場面を、高台の大勢の避難者たちが目撃していた。
なんという母娘の邂逅であり、そして告別であろう。
「お母さぁーんッ!」
「里奈ぁーッ!」
二人の距離が最短に縮まったとき、母娘の目と目がしっかりと合った。
「里奈ぁーッ!」
「お母さぁーんッ!」
二人は泣きながら互いを呼び合ったが、次の瞬間には、家舟は無常にも海岸線に向かって特急列車のように高台前をすり抜けていった。
「里奈ぁーッ!」
「お母さぁーんッ!」
わずかの間にも、娘の叫び声は母の耳からどんどんと遠ざかっていった。
その先には、まるで娘のことを家ごとひと呑みにしようと魔人が大口を開いて待ち伏せしているかのように母親には思えた。
さすがに、娘も母親も、この逆巻く怒涛の中に身を投じようとは思いもしなかった。
それは間違いなく確実な自殺行為であり、漂流にまかせて救助される確率の方がまだ高いはずだった。
母親はまたケータイに向かって娘に呼びかけた。
「だいじょーぶ。
だいじょーぶだから。
がんばるのよッ!
きっと自衛隊が助けてくれるからッ!」
と、はじめて母親の口から具体的な救助の希望を娘に告げた。
「わかった。
がんばるッ!」
里奈は、母親の励ましが功を奏したのか、いくらか気丈さを取り戻していた。
母親も娘も祈る思いだった。
(自衛隊でも、海上保安庁でも、漁船でも、なんでもいいから助けて…。神様ぁ…)
里奈を乗せた家舟は、海岸線を超え沖へと向いだした。
わずか数分で、母のいる高台は遠方に遠のいた。
恐るべき引き波の速さである。
それでも今のところ、バッテリーが続く限り、母娘の応答を阻むものがなかった。
「里奈ッ。窓を閉めなさいッ!」
母は強い口調で娘にそう指示をし、娘はそれに従った。
部屋中は完全に潮の匂いに満たされていた。
もう洋上に出ており、我が町は遥か彼方へと後退していた。
4
「里…だいじょ…」
ケータイの音声が突然、途絶えた。
そうだ。陸から数キロも離れた洋上では圏外になってしまうのだった。
母とのつながり≠ヘそこで途絶した。
バッテリーはまだ十分にあった。
陸地と洋上で、母娘共にそのことに気付いたときは、暗澹となり、母親は膝折れ、地面に突っ伏して泣いた。娘は憎しみをこめてケータイを部屋の隅に叩きつけた。
孤立無援となった。
まだ陸地が見えるものの、家舟は無常にも、沖へ沖へと流されていく。
やがて津波の引き波から潮の流れに乗ったら、太平洋を横断しかねない。それまでこの華奢な、にわかづくりの新造船が持つはずもなかった。
海上は少しばかりうねっていた。
ザザーン…っという、大波が壁面にぶつかった拍子に、ドアの下からササーッと海水が浸入してきた。
「いや〜ッ!」
里奈は嘆きの悲鳴をあげた。
「死」が虎口を開けて一歩一歩彼女に近づいてきた。
「お母さぁ〜ん…。
たすけてぇ〜…」
この春、晴れて大学生になるはずだった娘は、少女のようになって目蓋の母にすがった。
「死にたくないよぅ・・・…」
その時、また濁った水がズルリと床の上を滑るように入ってきた。その焦げ茶色の魔手は、しだいに里奈の座すベッドに手を掛けようとしていた。
「お父さぁ〜ん…。
たすけてぇ〜…」
安否も分らぬ父に、幼い日、その膝の上でうたた寝をした父に、里奈はすがった。
母親の声に励まされ、つい先刻まで気丈さを保っていた娘は、通信途絶を境に、気弱な船長(ふなおさ)に堕してしまった。
絶望・・・。
【望みがないこと】
ついこないだまで受験生だった里奈の脳裏に、そんな辞書的な単語が浮かび上がった。
真新しいフローリングを汚しながらジワッジワッと侵襲してくる海水。潮臭い室内。窓の外には、鉛色の天空から舞い降り飛び交う風花。
里奈の頭からは、母親の言った「自衛隊」も「海上保安庁」も「漁師」も消えていた。
(死ぬんだ。わたし…)
悲観の極みの中で、里奈は諦念も覚悟も持てぬまま、この覚めない夢のような現実のいきつく果てに待っているのが、方程式の唯一の解であることだけは識っていた。
里奈はフローリングの汚点を凝視しながら、しばし虚脱状態に陥った。
頬に幾筋もの涙が走った。
石膏像のように固まって思考は停止した。
まさに虚脱…。
いっそのこと、魂だけがこの肉体を幽離して高台の母のもとへ翔んでいけたら…。
(そうだ。死のうッ!)
非常時に、健全な娘に閃いたのは、平時ならば、全くもって不健全な閃きであった。
(このまま、ジワジワと恐怖に苛まれて狂い死にするより、潔く、自ら命を絶った方がいいに決まってる…)
それは、法律で婚姻可能な十八歳の青年が下した決断だった。
5
里奈は、どう死のうかと思案した。
JK(女子高生)お得意のWC(リストカット)をするか、いっそNC(ネックカット)をするか…。
カッターなら自室の勉強机の引き出しにある。
里奈は揺らぐ甲板のようなフローリングを歩み、それを取り出した。
ベッドに戻ると、窓に背を向けてチキチキと、ブレードを伸ばし、腕をまくりあげてみた。
うっすらと青みがかった静脈が見えた。
冷たい刃先を手首に当ててみた。
ダッパーン…と、うねりが外壁に打ち付けた。
ジュクジュクと泡を立てて、濁流がドアの下の隙間からさらに流れ込んできた。
(グズグズしていられない…)
と、頭では思うのだが、つい今朝方まで、都会での〈花の女子大生〉生活を夢見心地で待ち暮らしていたのである。
それが、その日の午後に、手首を切って自殺しよう、という百八十度「暗転」の人生を実現する勇気がどうして湧いてくるだろうか。
手首に銀色の刃先を当てたまま、後から後から涙がこぼれた。
悲しかった。悔しかった。怖かった。
(なんで、私が…
今、死ななきゃならないの…。
いったい、どんな悪い事をした、っていうの…)
それは、巨大地震と巨大津波を起こした自然か神に向かっての恨み言、泣き言であった。
(なんで…)
と再び疑問が繰り返した刹那、里奈はカッターをケータイ同様に部屋の隅に叩き付けた。
死ねなかった。
そう易々とは命を絶つことができなかった。
「だいじょーぶッ!
だいじょーぶだからッ!
ぜったい助かるから…
自衛隊…」
という母親の叫び声がこの期に及んで脳裏に浮かんだ。
それは不安と恐怖で、悲観の極みに陥り、束の間、死神にとり憑かれた彼女を救う慈母の言霊でもあった。
そうだ。たとえ万に一つの可能性だとしても、生きてさえいれば、生存確率は0%ではないはずだ。
自衛隊…
海上保安庁…
漁船…
報道関係ヘリ…
アメリカ軍…
理系大学に合格した里奈は、咄嗟に、感情から理性モードへとスイッチを切り替えた。
それは瞬時のことであった。
捨て鉢になって、泣き言と恨み言を言って自殺しようなんて…。
里奈は、自室に迫り来る海水と溺死の恐怖と闘っていた。
「頑張って、里奈ぁーッ」
と、檄をとばす母の声を耳に聞いた。
「だいじょーぶッ!
だいじょーぶだからッ!
ぜったい助かるから…
自衛隊…」
と、里奈は、母親の必死の叫びを復唱していた。
心が折れたらゲームセットになる。
テニス選手だった里奈は、経験でそのことをよく熟知していた。
(敵に怖れてはダメ。
相手をよく見極めなきゃ…)
死の虎口を撃破するのには、自らを鼓舞せねばならなかった。
(死んでたまるかッ)
里奈は、〈勇猛な自分〉が心の奥底から湧いて出てくるのを頼もしく感じた。
「♪オッモッい〜ぃ、こぉーんだぁらー、試練ッ、の道ぃを〜ッ♪」
なぜだか、ふいに、遠く昔、父の膝の上で見た古い野球アニメの主題歌が口をついて出てきた。
それは、自分へのエールだった。
同時に、父の膝の温もりと、いくらかヤニ臭い口元まで、記憶の底から甦ってきた。
なつかしい気持ちに浸りながら、里奈は父と一緒に唱和した日々に想いを馳せた。
6
窓辺から遠く陸地に目をやると、故郷はしだいに霞みはじめていた。
それでも、水平線とは明らかに違い、山々の凹凸が地面の在ることをあからさまに見せていた。
それは西の方角に当たり、その反対側が、陽の出ずる沖合である。
家舟は一路その方角に舳先を向けていた。
沖合に出るにつれ、周囲に散乱していた浮遊物も疎らになり、流された家々は、まるで宇宙の膨張によって銀河どうしが互いに遠ざかるように散開しはじめていった。
家舟はゆったりとした周期で時計回りの方向に回転していた。
それによって、寝室の窓は陸地に向いたり、沖合に向いたりした。
何分かの周期で一回転して、さながら螺旋階段のように、同じ方角にくるたびに陸地は西の水平線にちょっとずつ沈んでいった。
理系の人間には馬鹿らしいことだったが、地球が丸いことが呪わしかった。
その間にも、床上浸水は確実にその嵩を増し、フローリング全体がユラユラと蠢く巨大アメーバに占拠されたかのようであった。
(建材が水を吸ってるんだ…)
湿潤率と沈降率は時間経過に正比例していることは、理系の学生でなくとも自明だった。
一定の傾きで右肩上がりにモニター上を上昇する直線の先には、デッドライン、即ち、虎口がポッカリ開いていた。
ドラマのように放送時間ギリギリでの奇跡的な救助がなくば、自分の余命は、落下する砂時計の砂の残量であることを、里奈は痛いほどイメージできた。
(やばい。やばい…。
もうダメだ…)
またもや、ペシミスティックな想念と諦念感が、さっきまで『巨人の星』を歌っていた勇猛な少女の心を侵食しようとしていた。
家舟とデュエットでシンクロするかのように、里奈の心も揺れに揺れた。
十八年の人生のなかで、最も濃密な時間を今、ここで、生きていることに彼女は気付く余裕なぞなかった。
枕の下から半分顔をのぞかせていた目覚まし時計が、3時半過ぎを指していた。
あれから、まだ一時間も経っていなかった。だが、この時間の長さはどうだろう。
今朝、体調しだいでは、卒業式に出られるかも…と、念のためにセットし、そのアラーム音をとめて起きた。
風邪さえ癒えていれば、卒業式に出ていて、地震とともに仲間たちと避難したか、あるいは、津波を見て校舎の屋上へと退避したかもしれない…。
受験を終えて、しかも合格して、緊張の糸が緩んで、油断して、風邪を招いたのかもしれない。
今さら、ああしていたら…、こうしていれば…と、「タラレバ」論に帰結しても詮ない事だった。
【時間の矢は元に戻らない】
熱力学第二法則は、宇宙の基本原理である。
里奈は理系頭≠フ自分が恨めしかった。
科学は人の役に立つものだが、人は科学のために生きているのではない。
そんな哲学的なことを、このカタストロフィックなクライシス状況で、里奈は学習した。
7
一時間が過ぎた。
里奈を乗せた家舟は、辛うじて浮力を失うことなく航行していた。
だが、船室と化した寝室は、足元に小波が立つほどだった。
家舟は周期的にゆったりと回転を続けていたが、もはや、どの方角にも陸地を見出す事は出来なかった。
360度、見渡す限りの水平線。
コンパスを持たぬ船長(ふなおさ)は、方向喪失感に呆然となった。
水。水。水。
海。海。海。
(ここは何処?…)
太平洋をたった一人で漂流していた。
食料も飲み水もない。
トイレも使えず、乾いたタオルもない。
もうすぐ、ベッドも水に沈むだろう。
この『少女漂流記』の結末は、まだ誰にもわからない。
里奈は沈没船のクルーとして、脱出時の救命具の準備に取りかかっていた。
まず、ゴミ箱のポリ袋を取り出して、風船のように息を吹き込んで堅く結わえた。そして、すかさずセーターの下に入れて、腹抱きにした。
ついでにプラ製のゴミ箱を逆さまにして、開口部をガムテープで幾重にも塞いだ。これは、わき腹のあたりにセーターの上からガムテープでグルグル巻きにして接着させた。
他にも空気を溜めれそうな耐水性のものを選っては、小物箱だろうが、ビニルバッグだろうが、きっちりと密閉しては体にくくりつけた。
些細なものでも掻き集めれば、人ひとりを浮かすだけの浮力を得られるはずである。
地震で散乱した書棚の参考書や問題集などが、自室のプールで浮いたり沈んだりしていた。
それは不思議な光景としか言いようがなかった。
床上浸水はすでにニーハイ・レベルである。
家の沈降速度は時間に比例するものとばかり里奈は考えていたが、臨界値を超えたら加速度的にドボン…と、いくことだって有り得た。
時折、海水が窓ガラスにかかるようになった。
それが、海面と同じ高さになったら、やがて水圧で圧壊するだろう。
その時が、この家舟の終焉の時である。
脱出のタイミングは、リハーサルなしの一発勝負だ。
命の瀬戸際。
身一つでの漂流。
鮫の餌食?…
里奈のシミュレーションは、安易な楽観には傾き難かった。
でもやるよりない。
命を一分一秒でも永らえるために。
その緊張感は、幼い日、初めての運動会で、徒競走の直前に感じたあの高揚感に近かった。
交感神経の興奮が極みに達し、瞳孔が拡散し、拍動が高まり、血管は収縮する。
これ以上の「命懸け」の時はなかろう。
突然、大きなうねりが家を数メートルも持ち上げた。
それは津波の第二波だった。
波の頂上から谷に落ちる時、里奈は飛行機の急降下時に感じる、あのマイナスのGを体感した。
その時、家舟も船体にマックスの負荷を受けて、扉は海水圧で吹き飛ばされ、里奈は全身濡れ鼠になった。
押し寄せた海水は、一挙に寝室の窓の位置まで達した。
今しかなかった。
水圧で窓が開かなくなる。
里奈はこの機を逃さずに、窓を全開にし、大洋に身を投じた。
今開けたばかりの窓から大量の海水が一気になだれ込んだ。
瞬時にして家は沈降し、二階のオレンジ色の屋根のみが海面にわずかに浮かんでいた。
そこにも空気溜まりがあったのだろう。
里奈は、その鮮やかな色合いの屋根までバタ足で近づいて、突端に手を伸ばした。
そして、スヌーピーのように、その屋根の上に仰向けになった。
もはや、それは舟でもなんでもなかった。そのほとんどを海面下に没した漂流物の一部でしかなかった。
8
全身が海水に浸った里奈は、屋根の突端に身を寄せたはよかったが、そのあまりの寒さに歯の根が合わないほど震え上がった。
3月初旬の海水温は、10℃にも満たなかった。
まして、時折、チラチラと雪が舞い落ちてくる天候である。
ポリ袋やプラスチック・ゴミ箱でこしらえたあげた手製救命具によって、氷山の一角のような屋根の突端が水没しても、しばらくは浮いていられよう。
だが、この水温と寒風では、低体温症によって、そう長くはもつまい…。
(もう、ダメか…)
さすがに里奈も、360度見渡す限り水平線の中に、ひとり放り出されては、観念するよりなかった。
早春の濃い青緑の海にオレンジ色の屋根は、偶然にも補色関係にあり、それは哀しいほど鮮やかであった。
寒色の海に浮かぶ唯一暖色の屋根の上に、里奈は惚けたように、じっと仰向けに寝そべっていた。
パニクるでもなく、泣くでもなく、恐れるでもなく…
ただただ、疲れ果てて、諦めと空しさ、虚ろな思い…
そして、五感から感覚される、眩い光、波の音、潮の香り、体の冷たさ、口の中の塩辛さ…
まだ、死んではいなかった。
(東京、行きたかったなぁ…)
もう、言葉は出なかった。
それでも、熱い涙は、まだこぼれた。
極寒のなかで、それはほんとうに熱い涙だった。
(裕くん。ごめん。
わたし、東京行けないわ…)
里奈は、こころの中でそう詫びると、しずかに目を閉じて嗚咽した。
遠くに海鳥が数羽、コーコーと鳴きながら、気流に乗ってフワフワと飛び交っていた。
高台の母親は、気も狂わんばかりの思いで、彼方沖合を凝視し続けていた。
愛娘が今、広い洋上で、寒さに打ち震えていることも、行くことが叶わなかった都会へ思いを馳せていることも、人生の終幕をたったひとりで迎えようとしていることも、知る由もなかった。
9
【低体温症(Hypothermia ハイポサーミア)とは、恒温動物の深部体温が、正常な生体活動の維持に必要な水準を下回ったときに生じる様々な症状の総称。ヒトでは、直腸温が35℃以下に低下した場合に低体温症と診断される。低体温症による死を凍死と呼ぶ】
(ウィキペディア)
一度、極寒の海中に没した里奈は、今まさに、そのハイポサーミア≠ニいう恒温動物にとっては致命的とも言える物理的寒冷刺激にしてやられていた。
まさか、冬山ならいざ知らず…、もうすぐ春になろうかという海の上で凍死するようなハメになるとは…。
里奈は、自律神経のホメオスタシス(恒常性維持)機能がどこまで体温を維持できるか…。やはり時間の問題だろう…と、ぼんやりした意識で感じていた。
寒風に晒される中、濡れた服を着たままでは、気化熱により体温低下が進行することは自明の理であった。
カチカチと歯の根が音を立て始めた。
(寒い。寒いよぅ…)
3才くらいのインナーチャイルドが凍え始めた。
一方で、実年齢の理系頭は、そのうち、体内の生化学反応が、マルファンクショナル(機能不全)に陥るんだろうなぁ…と、覚悟した。
ヒトは、腹を冷やすと下痢になる。それは、消化管の温度低下によって消化酵素の活性化が鈍り、消化作用が阻害されるからである。
生命活動の担い手でもある体内酵素は、37℃前後が最適活性温度であることは、高校生なら誰でも生物の時間に習う。
直腸内で検温できる深部体温が35℃を切ると、ヒトはもはや人事不省状態に陥ってしまう。
洋上には、乾いたタオルも衣服も、暖をとる何の熱源もなかった。
まさに、絶体絶命である。
(ダメだ。こりゃ…)
それは、里奈の好きだったドリフの長さんの決めセリフだった。
彼女の深層に潜むトリックスターが、この悲惨極まる状況下をセルフモニタリングして、道化てみせた。
それは、まだ、意識が混濁してはいない証しでもあった。
「寒さ」を感じているうちは、まだ、感覚センサーも正常に機能している。
しかし、瀕死の状態には違いなかった。
(キュウ…ジョ…?…)
この期に及んで、それは、宝籤でミリオネアになるのと同率のことだった。
(お母さん…
お父さん…
聡太ぁ…
みんな、ありがとう…
いろいろ、ありがとう…
けっこう、たのしかったよ…)
頬にまた熱い涙が走った。
その流れる筋に沿って自分の体温を感じる事ができた。
(裕くん…
好きよ…
大好きよ…
ごめんね…
ほんとに、ごめん…
泣かないでね…
怒らないで…
ごめんなさい…)
すべて言葉にはならなかった。
脳内の、こころの内の、囁きであった。
大きなうねりの波頭が砕け、里奈の全身を洗った。
いくらか塩水を飲んだが、やはり、冷たさが先に感じられた。
まだ、生きている…と、里奈はずぶ濡れで仰向けになったまま、ほんの少し口角を緩め苦笑した。
10
ハイポサーミア(低体温症)は、30℃を切ったあたりから、寒さの感覚や震えが消失し、意識混濁や幻覚が生じ、やがてコーマ(昏睡)へと至る。
個人差はあるものの、雪崩に巻き込まれても窒息さえしなければ、数時間は延命していることがある。
小雪がちらつく三月の海で、全身濡れ鼠になった里奈の体温は気化熱によってもどんどん奪われていった。
海難事故で救助された者が、誰もが毛布に巻かれるのは、この体温保持を図るためなのである。
里奈はまだ口元がカチカチ振るえていた。
それは体の振動によって体温を上げようという生体のホメオスタシス(恒常性維持)作用によるものである。
数分おきに波を被り、小雪混じりの寒風に晒されては、さすがに十代の健康体といえども、しだいにその体力を奪われていくのは必定であった。
元来、冷え性の里奈は、逸早く、指先に痺れを感じ始めた。
それは、日常生活ではついぞ体験したことのない痺れであった。
(とうとう…きたな…)
と思った。
きっと、その痺れが、ジワジワと中心をめがけるように登ってきて、やがては全身に広がり、そして脳に達した時に失神するのだろ…と、おぼろげな意識で悟った。
極寒は、痛覚も刺激するもので、
真夏にカキ氷やアイスキャンディーを大量に頬張ったときに、よくおでこに痛みが生ずるときがあろう。
氷と水の入ったボールに塩を投入し、凝固点降下を起こさせると、0℃を下回る氷点下温度になる。そこへ手を浸してみれば、常人ならば、ものの数秒で冷たさ変じて痛みになるはずである。
これは、熱さも過ぎれば痛くなるのと同じことである。すべての感覚の極点は痛覚に通ずるのである。
里奈の肢体もしだいに痛覚が疼きはじめていた。それは、風邪で節々が痛んだ経験とは異なるはじめての体感であった。苦痛といってもよかった。
(早く…失神させて…)
彼女はアンコントローラブルな状態に陥った自分の肢体を見放し、脳にそう願った。
意識さえ消失すれば、あとは楽に逝けるはずであった。
それでも、里奈の苦痛は極限までは未だ達していなかった。それが証拠に、脳内麻薬であるエンドルフィンが分泌されてはいなかった。
人間、瀕死の状態に陥ると、自らの体を外から見る幽体離脱現象やユーフォリア(多幸感)が生じる、ということを世界中の臨死体験者が報告している。
そして、側頭葉にある〈シルヴィウス裂〉という脳の溝に電気的刺激を与えると、それと同様の現象が起こることを、1933年にワイルダー・ペンフィールドという脳神経外科医が発見した。
それが、脳内麻薬のエンドルフィンとどう相関関係があるのかは未だ明らかにはなっていないが、いずれにせよ、蘇生した臨死体験者は、人間には死ぬほどの苦痛に瀕した場合、何らかの生化学的、電気生理学的な回避装置がありそうだ、ということを述懐している。
たしかに、年寄りの誰もが、病身になると、眠りながらそのまま逝けたらいい、という安楽な自然死を望むものである。
人の死に際には、もう一つ、神話的なエピソードがある。それは、個人の一生分を瞬時に振り返る〈パノラマ現象〉が起こることがある、というものである。
これもまた、臨死体験者の証言だが、自分の数十年の生涯を、まるで早送り映像を見るかのように、または、自らが再体験するかのような経験をしたというのである。
里奈には未だ、そのどれもが起きてはいなかった。
11
カモメと思しき海鳥が番(つがい)なのか二羽揃って、里奈の真上のほんの数メートルの処までフワリフワリと気流に揺れながら舞い降りてきた。
里奈はじっとしたまま、薄目の上下に狭い視界でそれを眺めていた。
(おいで…。ここへ…)
ひとりぼっちの洋上で、それはかけがえのない生きた友であった。
(やすんで…いいよ…)
カモメの黒い目に里奈はこころのなかで訴えかけた。
コーコー…と、二羽のカモメは鳴くばかりで、この洋上の不可思議な生き物に好奇心で近づいて、夫婦で「何だろうこれ?」とでも言い合っているようだった。
久しぶりに生き物の温もりとその息に触れたかのような気がして、里奈はほんのちょっとだけ安堵した。
やがて、カモメは力強く二、三度羽ばたくと上昇気流にスイと乗り、彼女を置き去りにしたまま彼方へと飛び去った。
(いいなぁ…鳥は…)
この時ばかりは、同じ恒温動物でありながら、羽を持たないヒト科の自分を恨めしく思った。
「If … I were a bird…, I would fly …to you…」
里奈は、漂流の身となって、初めて声に出してみた。潮水を飲んだため、その声は老婆のように嗄れていた。
受験で覚えた仮定法の構文は、この洋上の孤独な詩人には、ぴったりくるシチュエーションだった。
(翔んできたい…)
その行き先は、母の待つあの高台であり、彼の待つ都会であった。
気力を振り絞って、里奈はさらに、息も切れ切れに、吟詠した。
「Fly up …to the eternity …by the wings …of love…」
嗄れ声で吟じ終えたとき、この瞬間に死ねたら、かっこいいのに…と、元JK(女子高生)らしい虚栄心がちらりと胸の内を過ぎった。
それは、たしか…
《愛の翼に乗りて
永久(とわ)へと
旅立たん》
という古典詩の一節だった。
いつだったか、英語が得意だった親友の綾乃が、
「このthe eternity≠チて、『死』っていうメタファー(暗喩)じゃないのかなぁ…」
と、何気なく言ったことを、里奈はふと思い出した。
(そうだよ…。
あやの…
あんたが…
ただしいよぉ…)
親友の「えへん」と、誇らしげに微笑む顔が目蓋の裏に映った。
里奈もほんのちょっとだけ口元が緩んだ。
肢体の麻痺はそうとうに進行していた。痛みと痺れが混交して、まるで自分の体ではないようなストレンジな感覚であった。
テニスの3セット・タイブレークで、フルに39ゲーム闘った時でさえ、こんなに疲労困憊ではなかった。筋肉痛ではあったが…。
まさに、全身バラバラになりそうな極限の痛みと痺れに近かった。
(ねむりたい…)
と里奈は願ったが。心地よい温もりなぞ何処にもない寒空と冷水に取り巻かれた環境であった。
大海原での野垂れ死に…
嫌な言葉である。
震災死…
月並み。
孤独死…
いくらか詩的。
溺死…
単なる死因。
(はやく…死にたい…)
里奈も、とうとう希死念慮に捕らわれた。
鋭い大鎌を持ったマンガチックな死神の姿こそ見えなかったが、今にも来そうで、なかなか来ない「己れの死」が恨めしくもあった。
決して、望んで死にたいわけではない。だが、嫌でも死なざるを得ない状況なら、いっそのこと、さっさと済ませたかった。
あの月ごとの面倒な日と同じように…。
まだ、流されて数時間しか経っていなかったが、心身共にそうとう参っていた。
殊に、体温低下は留めることが出来ず、危篤に陥る一、二歩前のきびしい状況だった。
12
人が必死の状況に陥った時、
定型的な心的状況の経過を見る、ということを《タナトロジー(死生学)》の権威エリザベス・キューブラー・ロスが提唱している。
それは、ロスの名著『死ぬ瞬間』によれば…
【否認】
自分が死ぬことを認めたくない。それは嘘事であって現実事ではないと思う段階。
【怒り】
なぜ自分が死ななければならないのか、という怒りを感じる段階。
【取引】
神様に、助けてくれたら何でもする、と取引を試みる段階。
【抑うつ】
精神運動が停止する段階。
【受容】
間もなく自分が死ぬという現実を受け容れる段階。
もっとも、ロスは、必ずしも全ての人が、このような経過を辿るわけではないとも述べている。
そういえば、里奈も、ある程度それらに似た心理を抱いてきた。
今や、短時間で「抑うつ」と「受容」に達しようとしていたが…。
冷点と痛点という二つの感覚点を激しく刺激されて、その身体的苦痛は今、極限に達していた。それはまさに気も遠くなりそうな苦痛だった。
それでも、この少女は“考える葦(あし)”で在り続けていた。
感覚と思考はヒトの別なる機能である。
(こんど…
うまれかわったら…
なにしよう…)
里奈は輪廻転生後の人生に思いを馳せた。
(また…
とうさん、かあさんの…
こどもに、うまれてきたい…
そうたとも、きょうだいで…)
それは、現世と何も変わらなかった。
そして…
(ゆうくんと…
けっこん…して…
あか・・ちゃん…)
…と、夢見たところで、意識が途切れた。
彼女が待ち焦がれていた睡魔と失神が混ぜ合わさったような瞬間が葦の考え≠遮断した。
体温だけでなく、心拍・血圧・呼吸数といったヴァイタル・サインも徐々に下降しつつあった。
体の機能低下に伴って、意識が先に消失するのは、神の恩寵なのかもしれない。
無神論者なら、進化の産物と嘯くかもしれないが。
兎も角も、これ以上、里奈は苦痛を意識することがなかった。
しかし、巷間言われていたようなパノラマ現象や幽体離脱、ユーフォリア(多幸感)を体験する間もなかった。
しだいに、緩やかな筋硬直が始まりつつあった。
意識があればこそ、決して平坦ではない海面に突き出た屋根の突端にバランスよく仰向けになっていることができたが、居眠りしながら自転車に乗れない原理で、その肢体はズルッと滑り出した。
スローモーション・フィルムのように里奈の体は、音もなくヌプリと海面に浮遊した。
「リケジョ(理系女子)」お手製の浮力装置は、たしかに機能していた。
依然として、何処からも、誰からも、何の救助も得られはしなかった。
つがいのカモメのみが、ほんの一時、哀れな漂流者を物珍しそうに眺めて去っただけであった。
13
眠り姫は、傍目には、気持ちよさげに海面に浮いていた。
それは、高濃度塩水の死海で、仰向けに浮きながら本を読んでいる、あの奇態な姿のようにも見えた。
意識を消失した里奈には、もう冷たさも痛さも孤独感も感じはしなかった。
それは、彼女にとっても、高台で娘の無事を祈り続けていた母親にとっても、不幸中の幸いであったのかもしれない。
里奈の体は、しだいに、オレンジ色の屋根の突端から離れだし、自ら海流に乗り始めた。
その姿は、少しばかり閉じた「大」の字に近かったが、仰向けのままを維持していたことは、まだ生存への微かな可能性を残していた。
これがうつ伏せになったら溺れて一巻の終わりである。
今、この瞬間に、海からでも空からでも、何者かに発見されて、保温処置を受ければ、蘇生の可能性があった。
だが、タイムリミットの砂時計は、ほんのわずかな残量しかなかった。
閉じていた目蓋が微かに動いた。
里奈の体は、失神後に、ノンレム睡眠を経ずに、入眠期レム睡眠に入ったようである。
この時、多くの人は「入眠時幻覚」や「睡眠麻痺(金縛り)」を体験するものである。
幸いなことに、彼女は、「幻覚」を見ることになった。
天空にポッカリと浮いている自分がいた。
体はヒンヤリしていたが、決して不快ではなかった。
なんだかとても懐かしい気分に包まれていた。
そう。
母親の胎内にいたときは、こんな感じだったのかも知れない。
いくらか終末エンドルフィンが分泌されつつあった。
脳内モルヒネは確実に苦痛と恐れとを除去してくれていた。
三月十一日
午後五時四十六分
高村 里奈の心肺は、停止した・・・。
広い大海原は、すでに闇の中に没していた。
暗い波間を、潮の流れに乗って、里奈はひとり、何処までも何処までも、流れていった。

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