風邪の具合も
だいぶ治まってきたが、
そしたらなりを潜めていた
オシリ痛が待ってましたとばかり、
満開状態に痛みだして
今朝は「神経痛」を抑えるのに
鎮痛剤を服用した。
十日ほど
痛みが去っていたので、
これはもう完治したかな…と、
やれ嬉しやと喜んでいたが、
カラダ内の打ち合わせがあるのか(笑)
他の処を病んでる時には
オシリ痛は感じないのである。
ためしに
両方のホッペをギュッと
つねってみると
両方とも痛いのだが(笑)、
なんでかオシリ痛くんは
遠慮深いのか
目立ちたがり屋なのか、
自分ひとりで症状を主張したいようだ。
ほんに、
こまった子である(笑)。
きのうは
PNES(心因性非癲癇性発作)が
すっかりよくなった
常連のJCが来て、
校内合唱コンクールの
ピアノ伴奏のアナリーゼをした。
医大に通院しているが
PNESがレアケースなのか、
5-6人の医師・心理師などが
集まった処でいろいろと
症状について聴かれたという。
癲癇発作と似た症状を示すが、
脳波には癲癇性棘波が見られず、
心理的要因とされる発作である。
『HEIWAの鐘』という
初見の曲だったが、
楽理と演奏法に沿って
一緒に検討した。
長年ピアノを習ってきただけあって、
カウンセリング室に設置してある
電子キーボードを
上手に演奏していた。
ただ、
ピアノ教室では、
音大レベルの深い解釈は
習ってこなかったようで、
指はよく廻るが
譜面の構成や
作曲家の意図を汲んで
効果的に演奏するというメトードを
初めて知ったようで
感心しながら熱心に
書き込みをしていた。
テストで
学年で2番になりました、
と嬉しそうに報告してくれたので、
音楽理論の勉強も
打てば響くように理解していた。
K中では、
指揮者の子と
楽曲アナリーゼを真剣にして、
『指揮者賞』を取れたので、
今度も『最優秀賞』を
取れるかどうかが楽しみである。
風邪気味が続いてたので、
"がっつりお昼"を続けている。
きのうも
通勤路にある
『みどりや』で
トンカツ(200円)
オニギリ(250円)
を買い足して、
ベジ弁とのランチとした。
やっぱし、
「病み期」は
"菜っぱ"では治らず、
"米のめし"が
「喰いクスリ」になる。
だって、
点滴と同じ
<C₆H₁₂O₆>だもん。
"菜っ葉"は<vitamin>だよね。
学界からジャーナルと
ニュースレター(広報誌)が
珍しく同梱で届いた。
いつもは別々なのに…。
たしかに、
そのほうが
経費削減になるよなぁ…。
まだ、
コロナ禍における
「心理問題」についての研究は
掲載されていなかった。
査読に時間が
かかっているのだろうか。
こういうのって、
なかなか「旬」の時季に
タイムリーに役立つ研究や
論文が発表されないのが
常である。
心理支援だからノンビリしてる、
というわけでもないが、
なにせ、コロナ禍ストレスで
「うつ病」や自殺の増加というのは
メンタルヘルス・ケアㇻ―としても
看過できない状況なのである。
今朝は
朝刊の「社説」に
ソーちゃんの
コロナ禍における
「希望と勇気」を与えたという
社会的貢献を評価していたが、
その通りである。
現に、ここにも、
そのひとりが居るわけだから(笑)。
コロナの気鬱感に加え、
寒暖差による自律神経失調気味で、
兎角、晴ればれしない心持ちを
彼の快進撃が
一服の清涼剤となってくれた。
いつも見ている
石田 和雄九段の
YouTubeチャンネルでは、
王位戦に敗れ(挑戦失敗)、
叡王戦に敗れた(防衛失敗)、
トヨピーの心理的痛手は
相当のもので、
「竜王戦」は「藤井有利」
「四冠可能性大」と評していた。
七番勝負で、
勝率8割4分のソーちゃんが、
勝率6割8分のトヨピーに対し、
「絶対有利」であることは
確率的にも言える。
7回闘って
4回負ける確率は、
4割3分である。
∴84%>43%
もう「四冠」は
達成したも
同様である(笑)。
「確率の神様」は
嘘をつかない(笑)。
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『魂理学試論』11
「魂はないと考える」
*
養老先生の説く『唯脳論』は「身体一元論」で、巷間「たましい」と言われるものは、「脳という構造体の意識という機能のことである」として、ないものと考える。
それはそれで、スッキリしていていい。
多くの人たちは、自分の持つ自意識が、死後も続いて欲しいという「願望」や、そうであるに違いないという「希望的観測」を抱いている。
しかし、今日の脳科学の所見からは、どうやっても「たましい」の実在性は証明されない。
科学一般が万能ではないから、その所見も絶対性を持つとも言い切れないが、それでも、常識的には納得できるロジックである。
であるならば、「魂はないもの」という考えで論考を進める必要もある。
現実見当識や自意識のない「熟眠状態」を「死の無意識状態」と類比する例は多い。
その状態では、欲も得もなく、不安も恐怖も、喜怒哀楽もない。
「死=絶対無」であるとすれば、「寝入っている状態」と同じなので、自意識の消失を不安がることも、残念がることもできないのである。
人が、あえて「たましい」という肉体と心(意識活動)とは別のものを想定し、それが死後にも存在し続ける、というのは、そうあって欲しいという、生きている人間が考える「願望/欲望」なのかもしれない。
*
「もうこの世に生まれてきたくない」
という遺書を残して自死する若者がいる。
カウンセリングの心理相談でも、そのような事を打ち明ける中高生がいる。
それは、究極の自己否定感と言えよう。
うつ病でも似たような厭世気分が起こる事はある。
そして、自分という存在が疎ましく、消し去りたい、二度と生じさせたくない、という願望を抱くこともある。
なので、そういう時は、この世の憂さを忘れ去れる「眠りの世界」だけが救いなのである。
無化したい、という願望は、幼児にもあって、虐待的環境下や拙劣な生活環境下では、「消しゴムになりたい」「雲になりたい」という物化(ものか)したいと口にすることがある。
*
脳の機能障害で、サイコパス的な猟奇殺人を犯す者がいるが、その者の「たましい」は、最初からサイコパス的性質だったのだろうか…。
認知症や統合失調症が重症化して亡くなった「たましい」は、その状態のまま保たれるのだろうか…。
こういった愚にもつかない疑問が脳裏に浮かぶが、犯罪者は地獄に行き、病死者は天国で正常に戻る、という解釈があったなら、それはかなり「ご都合主義」的な宗教的意味付けであろう。
もっとも、魂理学の「なんでもあり」論でも、そう言ってもいいことにはなる(笑)。
そして、「たましい」は無くてもいい、という説も成り立つ。
*
「たましい」とは世俗的な価値観では「真善美聖」なるもの、と思われがちだが、西洋の悪魔や東洋の怨霊のように「偽悪醜邪」なるものがあってもいい。
しかし、それすら、生きている人間が「文化的」あるいは「文学的」なコンテクストで語るなかで、浮かび上がってくる「真偽」「善悪」「美醜」「聖邪」の対立価値観であるように思われる。
すなわち、生ける者の投影した像(イメージ)もしくは観念であるかもしれないのだ。
現実世界の日常では、生涯「たましい」というのものを意識せず、寿命を全うする人も少なからずいよう。

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