2006/5/21

オレンジの代価  




オレンジの色味に我慢が出来なくなった乞食が、くすねようとしてしくじる市場

捕まえて殴ったのは件の果物屋の隣に店を構える乾物屋の冗談が上手い親父
『悪いことをするやつには我慢がならねえんだ』と、皆の溜まり場の酒場で語った

いつもは優しい親父にそんな一面があるなんてと、市場の連中は驚き、即座に行動した彼の判断を褒め称えた
『あいつはやると思っていたよ、見るからに喰いたそうな素振りで朝から昼過ぎまで何も買わずにずっと市場をうろついてやがったからね。』
『ああ、あいつはやばいなと俺も思ってはいた。』果物屋のはす向かいの小物屋の若者が言った
『だけどまさか本当にやるなんて…』
まったくだ、と皆は口々にそう言った、「何もしなかった」自分を肯定しなければならなかったから

『今まで乞食なんて市場に紛れ込んだことなかったのにねえ。』酒場のママは別にそれが何のせいでもよいという調子で呟いた『世の中景気が悪いのかねぇ…。』
『この店は繁盛してるじゃないか。』木彫り細工屋の髭面の大男がママを冷やかした
『あんたの払いはまだだけどね?』とママが冷やかす、皆は馬鹿笑いする、乾物屋の親父は主役を奪われてむっとする
乞食の話はそれで終わり、後は男だの女だのの話があちらこちらで遅くまで交わされた
やがて看板になり、ママに急かされて連中はご機嫌でばらばらと店を後にし、それぞれの寝ぐらへ千鳥足
ママはつくともないため息をつきながら零れた酒や煙草の吸殻を始末する、今日も一日が終わった、私は昼まで眠って起きるだけ―


件の果物屋の店主はまだ若い娘で、見合いで仲良くなって式を挙げた旦那が二ヶ月足らずで病死したばかりだった
娘は殴られている乞食の顔色に見覚えがあった、あれはきっと肺を病んでいる―旦那がくたばるときにああいう顔色をしていたのだ
娘はふと思い立って明日の売物の蓄えからオレンジをひとつ取り出すと夜の街路へ飛び出した、こんなことをしてどうなるというものでもないけれど―

夜気はまだ冷たく、夜露がまとわりついた、いやな空気、雨の前みたいな

この小さな町で乞食が宿を取れるところなんて幾つも無かった、娘はほどなく港に近い公園のベンチで喀血して死んでいる乞食を見つけた―もがいてはだけたらしい肌には不気味に変色した痣が幾つもついていた
ベンチから男が吐き出した血液がたくさんの筋を作って地面に落ち、それはまるで小さな天蓋の一角のように見えた
娘は呆然と男に近づき、開いたままの瞳を覗き込んだ、あの時、その瞳は娘のことを見たのだ

乾物屋の親父に痩せた腕を掴まれたその瞬間に

『いいわよオレンジひとつくらい。』そう言ってやればよかったのか?けれど娘には何も思いつかなかった、そんなことは初めてで、怯えて、震えているだけだったのだ
娘は長いことそこにそうしていたがやがて自分に出来ることは(もう)何一つ無いのだと悟り身を翻して家路への道を急いだ


家の近くまで戻って来たとき、娘はその手にオレンジを持ったまま来てしまったことに気付いた
こんな―こんな小さなものが誰かを殺すことになるなんて―

娘は家の前を通り過ぎ、市場のそばにある川まで走り、川面にオレンジを投げ込んだ
それは明日売ることの出来るオレンジがひとつ減るということを意味していた
そして娘はとぼとぼと家に帰り、泣きながら眠った


翌朝港で働く男が公園で死んでいる乞食を見つけた

その男もまた酒場の常連で、(ああ、こいつがその…)と、思っただけだった
人が呼ばれ、痩せこけた乞食は町の墓地の余ったところに気休め程度のしるしと共に埋められた



犬か猫の埋葬の方がまだ愛されていた



昼休みに港の男が市場で買い物をするついでに乾物屋に寄り、昨日あんたが言ってた乞食死んでたよと告げた、隣で聞いていた娘はかすかに青ざめた
聞きつけた市場の連中が商売そっちのけで乾物屋に群がり、ああでもないこうでもないと言葉を交し合った

娘は出来れば聞きたくなかったが隣の店にいてはそうもいかなかった

『そんなに強く殴っちゃいないよ。』乾物屋の親父はばつが悪そうにそう吐き捨てた『寿命だったんだよ。』
そうだよ、寿命だったんだよと誰かが声を合わせた、それで他の皆もそれならそれでいいかという気になってそれぞれの店に戻った

だって本当に汚い乞食だったし、乾物屋の親父は本当に冗談が上手い人だったから

娘はいてもたっても居られない心境だったがその日は誰かがひっきりなしに果物を買いに来た


結局のところ、彼女以外は乞食が死んだことをなんとも思っちゃいなかった

(オレンジ一個ぐらいなんてことはなかったんだ)

最後から二番目のオレンジを笑顔で客に渡しながら娘はそんなことを考えた




そして、私は明日もここでオレンジを売って日銭を稼ぐのだ








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2006/5/16

だけどたぶん本当はそこには何も無いんだ  







澄んだ水のそばに行こう
澄んだ水のそばで
正しいものが身体の中を駆け巡るのを聞こう
様々な思考により偏屈になってしまう自分自身を
素直な存在によって満たそう
言葉が尽きた刹那死を感じたり
圧迫される夜に眠りを忘れるときに
その存在の香りを取り出して嗅ごう
どうにもならないことがある
どうにもならないことだってある
雨の続いた後、どうしても濡れてしまう靴のように
みすぼらしく変化してしまう時間が確かにある
美しいものに寄ってばかりいると
当たり前のことが判らなくなってしまうから
時々叩き落される、そして
上がってこられるかどうかテストされるのだ
闇の中で眼を見開け、それは確実な視界よりもずっと重要な何かを隠している
眠れない夜が嘆きのためだけに存在していると思ってしまったら生きることはとても恥ずかしいだろう
枯れた井戸に母音を投げ込め、50音になって返ってくるかどうか試すだけの価値はある
確信だけが真実だと思うのは愚かなことさ
違う語感を使ってみれば妙に跳ね上がることだってある
好物以外にも美味い喰いもんは隠れてるってことさ
澄んだ水のそばに行ってみようよ、そこにはきっともっといろいろなものが隠れている
澄んだ水のそばで
内部を洗い直して新しい空気を仕入れよう
草原に群生する名も知らぬ花が日ごとに入れ替わっていることを知ろう
真実は変化する
乾いたまっすぐな草も
雨の後には力無く濡れている
それを知りたいと思うことはちょっとした思い上がりなのかな
出来る限りのことでいいんだが
この手に触れる分のことだけでいいんだが
澄んだ水のそばに続く道を探し直さなけりゃいけない
知ってるはずの入口があった辺りには
同じようで違う背の高い草が群生しててどうにも見つけられない
しきたりとかことわりを自然に理解するようになって
すんなりそこへ行けたらどんなに幸せなことだろうか
澄んだ水のそばへ行こう
澄んだ水のそばへ行って
正しいものが身体中を駆け巡るその音を聞こう
澄んだ水のそばで
エナジーとエレジーとポエジーをフォーマットするんだ
手に余るようなご馳走など要らない
この手に収まるだけのものが欲しいだけ
喰い尽してしまえば
また新しいものが喰えるもの
今欲しいものだけでいい
今欲しいものだけで
今欲しいものだけでこの夜を越えたい
澄んだ水のそばに行って
澄んだ水のそばに行ってさ
自分をごまかし続けて生きて居たいんだ
確信なんて嘘っぽいからさ
見つからない振りをして居たいんだ
不確かでいい
見えるものは
見えるものは必ず身体の中で色を変えるから
少なくとも少しは判っているんだ
言葉にすがってるくせに不自然だけれども
言葉が生み出すものなんて微々たるもんだって思っていなくちゃきっととんでもないミスをやらかす
心が文字の羅列だけで終わるものだなんて思いたくない
澄んだ水のそばにはいつでも新しい尚且つ普遍的なバイブレーションが隠れている
そんなものを端の方から少し頂いて、すっきりした身体をしっかりと確かめながら
ちょっとしたもんだなんて思えたら

なあ、ちょっと


素敵なことだとは思わないかね?









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2006/5/15

長い放熱のあとの新しい蝶  








ひところの炎が緩やかに偲びながら揺るがないものに形を変えてゆく放熱の午後
ぼんやりとしていたが心情は生きていた
ひとしきり刻み付けた傷に眼を落として、しばらくは何も知るつもりもなかったけれど
吸い込み、吐き出した隙に紛れ込んだ幾つもの微生物が強引に指針を歪ませた
サイクルの狂った惰眠を貪るソファーの上で体内のプログラムが派手に組み換えを始める
要らないものが硬質化したナイン・ボールが排泄に続くポケットに落とされ
新しいボールが中枢から投げ落とされた
俺はある意味で俺である必要は無く、誰かの―もう少し執拗な比喩を用いるならひとつ上か下の階層に潜む俺の知らない俺の様な誰かが
手玉を勝手に弾き飛ばして新しいゲームを始める
乾いた音が跳躍を始めると眠ることなんかもう出来はしない、せめて身体を起こして
新しい何かを飲み込むか吐き出すかしなくちゃ
長く休んでいた身体は軋んだ、油の足りない古い機械の様にね
だけどここしばらくの間に気付いたことの中で一番重要なことだったのは、新しいものを紡ぎだすのは新しい感性などでは無く
むしろ様々な企みが堆積した結果の上にあるってことだった、そいつを知ってしまったから
そろそろ何かを書き始めなくちゃならない
近頃のペンには電源のボタンがある、起動を待つ間にFMをチェックしよう―蓄積の無い新しい歌を聴いて
古臭い怒りを燃え上がらせよう
俺という気体の行き場所を探している
俺という気体の行き場所を探しているんだ、どんなに休息を願ったところで
ノルマを果たさなけりゃ神様は笑いかけてはくれないに違いない
勘違いだろうがお門違いだろうが始めたものは先に進めなけりゃ
完結しないものがどれだけ人を不安にさせるかは知っているつもりだから
夕刻の太陽が山の向こうの他人の墓石に反射して朝日の様な影を作る、それはもしかしたら目覚めろという暗示かもしれない
ジャスト・チューニングの後流れてきたのは昔歌ったことのあるメロディーで
何度目かのナイン・ボールを落としたあと俺の身体は勝手に歌詞を辿り始めた
忘れる、忘れないに関係無く、染み込んでる空気というものが確かにある
時に穏やかな教師の様な態度を気取って見せる色褪せた回想
こじづけでも何でも繋げちまったやつの勝ちだ
いくら景色が変わっても求めるものはひとつなんだから
こめかみを叩いて蘇生の準備を始めた、ハード・ディスクに移植される俺の亜種
稼動音がシンクロを促す、前頭葉から触手を伸ばして液晶画面とリンクしよう
新世紀の悟りにはCPUの匂いがするのさ
入力、変換、エンター…もはや鉛など不要だけれど指先のリズムは大切に
欲しいもの以外は何も取り入れないようにしよう、気紛れが頭をもたげない限りは
理由なんて求める必要は無いのさ、流れに乗って跳ねるだけで
あとは適当に休憩地点で辺りを見回せばいい
結論なんて孵化の様に次第に始まるものさ
それがいつか…幾つかの事柄が徐々に形を成したときに
何が俺をここまで来させたのか判るのかもしれないなんて、そんなことが
そんなことが近頃変に愉快に思えるんだ


いつか
いつか俺の頭の中だけで




誰も知らない蝶が無数に飛び交うんじゃないかって思えてさ











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