2009/8/17

胎盤  











紫色の唇をした
少女が産声を上げる時間
バレンが
巧妙な胎盤に色を馴染ませてゆくその時間
木の屑を集めながら
生命はどこにあるのだと自問していた
朝から雨が長く降り続いて
今ではそこにもう時間の流れというものはなく
肩や、腕や、指先が、ぼんやりとした疲れを感じる頃
少女の産声はくたびれた屋根裏で
惰眠を貪る鼠の耳をヒクつかせるほどに轟いた
ああ
宿酔いの霞みの中にある幻想の余韻を抱きながら
ひたすらにそいつは性器であろうとしたのか
生温かい赤子の
さらに奥にある真理を
その胎盤から生み出そうとしたのか
軒先が濡れてゆく
まるで
次の始まりへの準備のように


紫色の唇をした少女は
まだ言葉も話せぬうちから
そいつの残した彫刻刀で
自ら名付けた
名前を
右腕に彫り込んだ
それは誰も知らない文字で
誰にも彼女の名前を知ることは出来なかったけれど
彼女はそうすることで非常な満足を手に入れたようで
それきりどんなわがままを言うことはなかった


時々右腕の名前を愛おしそうに撫でていた


少女は一〇歳になるまでに
ぐんと背を伸ばしたけれど
全く言葉を発することがなかった
まわりの者たちが彼女を医者に連れて行ったが
医者は困惑して
「彼女の内部にはおかしなところは何もない」

繰り返すばかりだった
「心の問題ではないか」

まわりの者たちには思い当たる節がなくもなかったので
頃合いを見計らって心の医者の所に彼女を連れていったが
彼女の心にもやはり病みの形跡はなく
医者は
「私の扱うべき問題ではない」

首を横に振った
私の扱うべき問題ではない
それはきっと
彼女が彼女であるために必要なことなのであろう、と


ところで彼女の唇は相変わらず紫色で
その色味は時々
見るものをぞっとさせることさえあった
「この子はどこか悪いんじゃないのかね」
たまに訪れる客人が
そんな風に気をもむことがあったが
彼女はどこも悪くないんだ、と
みんなが彼女を病院に連れていった話をすると
合点がいかぬ、という具合に首をかしげながら帰って行った
事実、彼女はそのあたりの誰よりも健康で
病気と呼べるようなものはなにひとつしたことがなかった


少女には依然名前がなかった
彼女は彼らが与える名前を決して認めず
静かな調子でただただ自分の右腕を指さすばかりであったから
みんなはそれならそれで仕方がないかという気になって
うなずきや手ぶりなどで彼女のことを呼んだ
気の利いたものは右腕を指さして呼んだ
彼女は呼ばれればちゃんとそこに行って
いろいろなことの手伝いをしたので
そのうちみんなは名前のことなどどうでもいいのだと思うようになっていった


少女が初潮を終えると
彼女を繭のように
色香が包むようになった
彼女のまわりに居た者たちは
どちらかと言えば独り者の男が多かったので
彼らの少女に対する態度は
思いやりから次第に
下心を含んだものへと変わっていった
少女は非常に敏感な感覚を持っていたので
このまま自分が何もしなければ
いつか彼らに壊されてしまうだろう、と
考えるようになった
彼らの目がだんだんと血走ってくるころに
少女はひとりずつ
さびしい男を自分の部屋へ引き込んだ
最初の男は
なるべく優しくしてくれそうな気のいい男を選んだ
少女と背丈が同じぐらいしかない
伏目がちな男だった
この男が自分を好きになってくれれば
そのまま結婚してもいいけれどなんて少女はちょっと考えたけれど
どちらにしてもそれはいますぐの話ではないだろうと思い
その後は出来るだけその男につれなくした
男は戸惑いながらも問い詰める勇気はなく
やがて彼女を抱く前の自分に戻った
少女はやがて周囲の連中の毒抜きを済ませ
彼らはもとの気のいい連中に戻った
新しい年が来るころには
少女はそれまでを脱ぎ捨てたように綺麗な女となっていた


女の右腕には
彼女が彫り込んだわけのわからない名前があったから
男の中には
二度と彼女を求めないものもいた
それでも構わない者たちが
数日おきに
かわるがわる彼女と交わった
そのうちのまた何人かは
彼女を人形のようだと思って
やがて彼女が少女であった頃の関係に戻った
最終的に彼女と関係を続けたのは
ほんの2、3人の男だった


ほどなく女は子を宿した
誰が父親なのか誰にも判らなかった
彼女は部屋にこもるようになり
複雑な思いを抱きながらも
男達の妻が彼女に何かと世話を焼くようになった
妻たちの中には
途中で妻でなくなる者もいた
それでも紫色の唇の女には
ひどい仕打ちを与えようなどと思うものは誰も居なかったのだ


そんな暮らしが三月(みつき)も続いたころ
女は不思議な夢を見るようになる
暗闇の中で音がしている
ちょうど女が生まれたときのように
暗闇の中で
誰かが版画に色を馴染ませている
しゅ、しゅ、とバレンの音が
滑らかにこだましていた
あの絵はなんだろう、と女は考えた
その時女は少女に戻っていたが
腹はぽってりと膨らんでいた
ああ
まるで子供を撫でるようだ
色を馴染ませるというのは
まるで子供を愛でるようにするのだと女は考えた
不意に、バレンをもつ者の手が止まり
くるりと女の方を向く
そこにはとても恐ろしい顔がある予感がするのだが
その顔がすっかりこちらを向く前に必ず女は目覚めてしまう
身体にはびっしょりと汗をかいて


女は次第にその夢が持つ圧力に翻弄されるようになった
子を宿しているというのに
身体は激しく痩せて
出始めた腹以外は、まるで
枯木のような有様だった
六月(むつき)を過ぎるころには
女は歩けなくなり
布団に寝たきりとなった
彼女を世話する女たちは自分たちが最も信頼する医者に
出来るだけつきっきりで彼女を診てくれるよう頼んだ
とはいえ薬を与えるわけにはいかないので
医者は彼女が口にするべき栄養を点滴や注射で与えた
自分の身体にぷつりと穴が開く音が聞こえるたび
女は何かを思い出すような目をしてぶるっと短くふるえた


間もなく生まれるという頃
紫色の唇の女はもう目を開けることもなくなっていった
かいがいしく彼女の世話を続けていた女たちは
「あの子はもうどんなことをしても死んでしまうんだ」
と言って
彼女の家からもどるたびに泣いた
男達は自分たちのせいで彼女がそうなってしまったような気がして
塞ぎこんで酒を飲んでばかりいた
医者はギリギリのところで彼女の命をとどめているようだった
今では医者も少し痩せ始めて見えた
せめて赤ん坊だけは
せめて赤ん坊だけは、と
彼らは祈るようになっていた


ある日
子供がもう生まれるかという頃
紫色の唇の女は深い深い夢を見た
無数の古代魚が踊る海の中に彼女は居た
彼女は身ごもる前の身体に戻り
素っ裸で
淡い光を放ちながら海の中にいた
彫刻のような古代魚たちは
彼女の存在を神格化しているかのように
祈りのように彼女を中心にしてゆっくりと同じ方向に円を書いていた
数え切れないほどの生き物がいた
そしてなぜかどれもこれも古めかしかった
海の色は
ひとつの印象だけを強く押し出したようにうっすらと青いだけだった
私を取り囲んでいる、数え切れないほどの、生き物
数え切れないほどの命
女は次第に自分の身体を海中の潮の流れに任せていった
漂う女、周りを泳ぐ古代魚、彼らは次第にひれの動きを速くして、女を中心に海中には
新しい海流が生まれる、次第に速くなる流れ、それはまるで海の中で起きた嵐のように、次第に速くなる流れ、次第に速くなる流れ、女は淡い光を放つ、女はゆっくりと回る、古代魚たちは何かの装置のように懸命に泳ぎ始める…


やがて、女の身体は一直線に空に向かって弾かれ、地球を包む空気の層を抜けて、宇宙へと飛んだ、女は宇宙空間から、地球がたったひとつの胎盤であることを見た、ああ、胎盤、胎盤、胎盤、胎盤、胎盤!私もまたたったひとつの胎盤だったのだ、たったひとつの胎盤として、私はこの運命を選択したのだ…女の身体に次々と流れ込む古めかしい命、人、犬、馬、牛、鳥、魚、虫…あらゆる命が悟りの速さで彼女の胎内を通過していく、彼女は地球と同じたったひとつの胎盤であり、そしてまた通過してゆくたったひとつの命である、ああ、あああ、人は生きているだけで、その命を身体の中でかけ巡らすのだ、綺麗だ、綺麗だ、綺麗だ、綺麗だ、たったひとつの命、たったひとつの胎盤、それは限定された印象のように青く…私もまた命だった、美しく愚かなひとつの命だった、今私の人生を悔いることはない、私はたったひとつの私を生きただけなのだ、そこには否定や肯定が存在してはいけない、私はたったひとつの私を生きただけなのだから…生命の、速さ、それは時間を含んで、なんて心地の良い…女は目を閉じる、出来ればこのまま身体を離れたいと思いさえしたが、下腹部の激しい痛みが彼女を自分の身体に引き戻す、そうだ、そうだ、私にはまだやることがあるのだ、自分の役目を知った以上、私はこれだけはやり遂げなければならない、あなた、あなた、私は必ずあなたをこの世界に呼び出して見せる、私は役目を知った、役目を手に入れた、それはもはやあなたを生むことに集約される…私の身体に残った力のことなど大した問題ではない、私には生むことが出来る、私には生むことが出来る…


あああ
ああああ


雷鳴のような彼女の叫びが
真夜中ただ一度こだました
その声に目を覚ました男達や女達が
次に聞いたのは激しく泣き叫ぶ赤子の声だった
誰もがその場を跳ね起きて
紫色の唇の女の住処へ向かった
彼女は体中の血を全て流して
赤子に手を伸ばしたまま
菩薩のようなささやかな笑みを浮かべてこと切れていた
紫色の唇は
噛みしめたせいか
初めて真紅に染まっていた


いま、赤子は眠っている
そこに乳はないが
そこに母はないが
彼女のことを覚えている人たちが
彼に暖かい寝床を用意した
その唇は血のように赤く
右の腕には









激しく切り刻んだ訳の判らない模様があった…

















0

2009/8/5

それでも僕らはきっと祈りのために  











僕らは虚ろな階段を
カモメのように
カメムシのように
ひらひらと
ごそごそと
やりながら
途方もない一段を
へろへろと
へろへろと
のぼる



適当なフィルムを
はりつけたような青空
それが
いつ
暮れるのか
なんてことは
誰も
知ることはなくて
便宜的に
設定された世界で
僕らは
虚ろな階段を
のぼる
わけの
わからない歌を
確信のように
ぶつぶつ
うたいながら



彼方に見えるは
いつか
過ごしてきた街並み
生まれたり
求めたり
あきらめたりして
過ごしてきた
雑食の世界
僕らはあそこに居た
便宜的な名前と
便宜的な肉体を
持って



階段の表面には
貝殻が敷き詰められている
進化の歴史を語るには
これ以上はないといったような
生意気な様子で
だから
僕らは
踏みしめる足を
容赦することが出来ず
ずっと疲れる
ずっとずっと疲れる
かなしい気分は
看板みたいに
額に
掲げてきたけど
こんなに
現実的なものではなかった



僕らの足は止まらない
僕たちは
もう
あきらめることは出来ない
一度
許されてしまったら
もう
あきらめることは出来ない



階段の上には祭壇があり
何らかの象徴が
鎮座ましましている
だけど
僕らはそんなものは
くだらないジョークみたいなものだと
とっくに
気づいているから
なにかにつけて
最上段を目指す理由を探しながら
のぼっていかなければならない
(例えばいまいましい貝殻を全部踏みしめるためとか)



祭壇はかがやく
きっと
あの祭壇には
燭台は無い
これでもかとばかりに
ホワイトアウトな太陽が
はばを利かせているから
あんなところで
蝋燭なんかに火をつけたら
きっと



立ってられないくらい
馬鹿にされるに違いないのだ



僕らは階段をのぼる
僕らは階段をもっとのぼる
実験の末に
本能を曲げられたマウスみたいに
僕らは
それをのぼりつづける
最上階がどうでもいいのなら
僕らには
理由がないはずなのだ
こじつけてまで
のぼる理由を
どうしても
僕らは見つけられない
少し先にいた
友だちがおかしくなる
笑いがとまらなくなって
せっかくのぼってきたものをはるか下まで転げ落ちてしまった
(もうあれでは誰にもどうすることも出来ないだろう)



ブリキ細工のようなカラスが
かんらかんらと笑いながら
友だちの靴をひろっていずこかへ飛んで行った
巣にでも使うのだろうか
ブリキのような身体に
ぬくもりは必要だろうか
僕らはカラスの背中を見つめる
もちろん果てしなく足を動かしながら
カラスはだんだん小さくなって
やがて小さな点になったが
そのあとも不自然なくらい
僕らの目には見え続けていた



下の方からアヴェ・マリアが聞こえる
信心深いお嬢さんが
そこらへんに居るらしい
彼女の歌声は大変綺麗だけど
風景にはいささか場違いなように思える
この場所に祈りがあるなんて誰も思っていないのだから



のぼりながら
転げ落ちた
友だちの名前を
僕らは考えた
だけど
誰にも
彼がどんな名前だったのか







思い出すことは
ついに出来なかったのだ












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2009/8/5

風に吹かれて  











淫らな夜に唾を吐きながら飛び惑う鳥だった、嘔吐のように溢れ出る鳴声のせいでいつでも水が欲しくてたまらなかった、カットされた景色のような電信柱の影をかすめながらうち捨てられた巨大なマンションの最上階のベランダに旋回を繰り返しながら降りてゆく…割れたガラスで足を傷つけぬようにしなければ、寝ているうちに血を流していたなんて先に目覚めるだろう女に何と思われるか判らない。


派手に破壊された窓から中に忍び込む、光源が何も無くとも充分に明るい最上階だ、数十年は前のささやかな暮らしの名残が時を口ずさむように白くくすんでいる…首を吊って死んだアイドルのグラビアが「どこに行けばいいのかしら」というような調子で開かれたままぼんやりしている、おそらく人には上がることが出来ないだろう畳には雀か何かの死骸があり、骨と羽だけのそれは、まるで無機質ななにかで雀そのものの在り方を模写しようと試みた結果であるかのようだ。


硬直した炎のように存在意義を失った網戸の中では、三匹の墨のようなカナブン「飛びたかった」と言いたげな半端に開いた硬い羽。


夜毎身体から離脱するようになってもう3年になる、初めはそのうち戻ってこれなくなるのではないかと不安だったが、ひと月、ふた月と経過するうちそんな恐れはいつの間にかなくなっていた、俺という鳥に特定の名前はない、だいたいが、特別鳥に詳しい方ではなかった…俺がいま鳥の姿をしているのは、飛ぶ、というイメージに漠然と反応した結果、なのだろう、おそらくは。


広めの二間の部屋を抜けて台所に出る、何か黒い、すすのようなものが床一面に散乱している、まだ人が踏みこめるころに、誰かがいたずらをしたのかもしれない10年前にはガスだった、そんなものがばらまかれたような痕跡だった、流しに飛び移ると流しの中でラジカセのようなものを燃やした形跡があった、かなり執拗に燃やしたのだろう、灰の内側をよくよく眺めて、カセットテープのリール部分を見つけることが出来なければ、誰もそれをラジカセだとは気がつかない、俺は軽く羽ばたいてみた、長い間の堆積で湿気を相当に吸ってしまったのか、毒々しいその塊は少しも挫けることはなかった。


おかしな話だが、自分が昔住んでいた家のことを思い出した、越した後に一度だけ訪ねて行って、無人だった家屋に潜り込んで数時間遊んでいたことがあったのだ、小学生のころだったか…あれは不思議な体験だった、家族があり、家具が置いてあったそのころより、全てが行ってしまったその家の方が、どこか親密な匂いがした、面倒な虚飾なしに語り合う言葉のような親密さが、一階、両親が住んでいた居間、廊下、台所、階段、二階の部屋…あの時初めてその家に触れた気がした、その時初めてその家と深く通じあった気がしたのだ、潜り込んでよかったと思った、俺は間違いなくあの数時間、あの家の中で暮らしていたのだ。


肉体を離れて彷徨っていると、同じように肉体を離れて彷徨っている者たちに出会うことがある、「亡霊」なんて名前で呼ばれるやつだ、彼らは俺の状態に非常な興味を持って近づいてくる、よくテレビの心霊レポートものなので、「大変に意思の疎通が困難な霊です」なんて場面を見ることがあるが、こちらが肉体を離れていればどんなやつだろうとそこそこの話は出来る、基本的な情報は携帯電話の赤外線通信のように相互に送信、受信されるような感覚がある、さて…台所から玄関の脇のトイレや浴室のスペースに入って行ったら、青年だろうか「生きてるのか?」と彼は言った「そのようだ」と俺は答えた、俺のような存在は面白がられるのか、どんな厄介そうな連中にも簡単に受け入れられる、おそらく俺が人の形をしていないことに大きな原因があるのだろう、少なくとも外面上俺は鳥であるから、その裏にどのようなものを感じても彼らが生に対して抱いている一種の生理的嫌悪のようなものはあまり表れないで済むのだろう。


「自殺したんだ、もう40年は前になるかな」とそいつは言った、上がれないのかと俺は尋ねた、「たぶん上がりたくないんだね」「どうして」「だってそしたらきっと輪廻しなくちゃならないだろう、せっかく死んだのにまた生まれてこなくちゃいけないなんて馬鹿げてると思わないか?」判らなくもない、と俺は答えた、そして、そこを離れた、「ここは面白いよ、とても」玄関に開いた大穴から俺は外に出た、あいつは多分悪霊なんて呼ばれる類のものだろう、「ここは面白いよ」という言葉に興味はあったが、時刻はもう夜明けに近くなっていた―確信はないが、きっと夜が明けるまでフラフラしていたら死んでしまうのではないかという気持ちがずっとあった…俺は翼を広げ、一気に上昇すると、さっき俺が居た部屋のひとつ下の階から気をつけのまま背骨をなくしてしまったみたいな女がひとり、神粘土のような表情でこちらを見上げていた、なるほどね、と俺は思った。


明日からしばらくは退屈しなくて済みそうだ。













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