音の無い時間には血液の足音が聞こえる  







概念上の自動拳銃の引鉄が脳下垂体のなにがしかに風穴を開ける時、眼球はコントラストのバランスを僅かに淡くして、忘れられた観賞用水槽の中の、小魚の死体を含んだ腐った水のような白になる、ゼラチン質の感覚に沈み込んでいく惰眠のあとの曖昧なフォーカスの肉体、表に流れ出してこない血液がいつまでもうろついている、その足跡はいつまでも赤く、広い刷毛で塗りつけられた塗料のように強固で、そう、言うなれば、俺の体内はそんなアスファルトで執拗に舗装されている、音の無い時間には血液の足音が聞こえる、暗いワン・トーンのアルトサックスの音色のような…クロージング・タイムを迎えたままで誰も居なくなった裏通りの店の中で死んでいた女の話を聞いたかい?衣類はすべて剥ぎ取られていて、ナイフの刃先で全身に模様が刻まれていたそうだ、死ぬまでに相当な時間を必要としただろうって新聞で刑事が話していたよ、あの店には俺も何度か行ったことがあった、どうしてもやることが思いつかない時に何度か―確かに、明るい雰囲気じゃなかったさ、いつでも誰かの通夜が行われているような店だった、ジューク・ボックスはロカビリーばかりを大音量で鳴らし続けていたのに…「天国まであと3歩」なんて、いまとなっては笑い話にもなりゃあしないよな―カウンターの中には真っ直ぐな黒い髪を腰まで伸ばした女が、いつでもぼんやりした調子で腰掛けていた、注文を何度も繰り返さなけりゃいけないことがほとんどだったな、なにしろまわりのことになんかまるで注意を払っちゃいないんだ、機械仕掛けの人形みたいに数分置きにゆっくりと首を動かすくらいだった、注文をくり返す時ぐらいしか口を開かなかった、ああ、ラジオを消しておくべきだったよな、いつまでもあの店のことを思い出してしまう、ささやかながらやることをいくつか抱えているというのに…日々は狂ったように暑く、俺はいつでも水を飲んでいる、身体はどうしようもなく疲弊していて…時々現実は剥離して中空を漂っている、だがそれで何かが困難になるような複雑な日常は送っていない、あっちにあるものをこっちへとやるだけさ…まるで人体実験のようだ、当事者でありながら傍観者で、そしていつでも水を飲み続けている、そんな時の時間はぶっ壊れている、数字を剥がされて、全身を切り刻まれている、廃棄されて、薄暗い空間に転がされている、そいつの流した煤けた血に誘われて、きちがいみたいな太陽の匂いを嗅いでいる、まるで生命のカオスの中で行先を見失った野良犬だ、鼻を鳴らしてもなんの見当もつきはしない、気がつけば薄暮の中に居る、終わったんだよ、今日の日はなにもかも終わったんだ、終了して、鍵を掛けられたんだ、腹の膨らんだ蛾がけたたましい羽音を立てながらそう告げては飛び去っていく、なぜ彼らはいつもそんなことばかりを騒がしく話しかけていくのだろうか?シンプルな構造の生物たちの考えることは俺には判らない、思考は幾つもの線を同時に勝手に引き続けるようなものだ、そうでなければ人間なんて生物にはなんの意味もないはずだ、なあ、あの店の名前、思いだせるか?カウンターに居たあの女の名前は?ラジオのニュースで言ってなかったか?そのことを思い出せるか?俺は自問しながら水を飲む、渇いて掠れる身体がほんの少し確かな脈を打つ、ああ、と走る文明たちのヘッドライトの中を迷いながら、俺にはそれを思い出す理由などないことに気付く、なあ、理由など必要なのだろうか?記憶の蓋を開ける時に、そんなもの本当に必要なのだろうか?もしも確実に思いだせるとしたらどんな記憶がいい?カウンターの中の女の名前で構わない?まるで化粧っ気のない女だったけれど、指先だけはいつも赤く塗っていたっけな、動脈を流れる血液のような赤い色にさ、そう、まるで俺の体内に塗りつけられた血液の足跡みたいな…薄暗い照明の中で、あの赤色だけははっきりと見えたな、俺はあの指先に導かれていたのかもしれないな、放ったらかしても差し支えない示唆のように、あの赤色を見つめていたのかもしれない、どうして思いだせないんだろう?そんなことぐらいしか?…部屋の中には朝置き去りにされたままの散漫な自我が蓄積している、そいつらを押しどけてシャワーを浴びると、どんな理由なら動けるのかと、面倒臭い疑問が頭をもたげる、あの、そう、あの店の名前…女を誘う時、俺、口に出さなかったか?「…っていう潰れた店があるんだ、潜り込もうぜ、なあに、誰も来やしないよ…」どうして思いだせない?カウンターの女の赤く塗った指先のことぐらいしか……






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