2015/4/25

アー・ユー・パッショネイト?  










「朝の祈りを夜まで持ち越すわけにはいかない」ときみは美しいキャンドルを叩き壊してご満悦、でもおれはそんなきみの姿にこっそり吐気をもよおしている…インディペンデントのスピリットを取り違えているきみ、そんなきみの願望はきっと偶像視されることさ―たいして高いものでもない香のかおりでスペシャルなステージに行けるときみは言う、そんなところに行けるチケットを手にしたことなんか一度もないくせに…きみが口にする希望は、純粋は、いつでもどこかいいわけがましいんだ、イレギュラーなインパクトを狙わなければきみは自己主張すら出来やしない、きみがしたいのは自己主張なんじゃないかって、ときどきおれはそんな感じを受けることがあるよ…ジャック・ダニエルの空ボトルを穴を空けたフロアーに挿して聖地だと語るきみ、ああ、だけど、その神の定義さえきみは差し出すことが出来ないじゃないか…!「ロックンロール」ときみはクールに言う、だけど、イッツオンリーって言葉をいつも忘れたままでいる、そんなの、道化に過ぎないだろ?音楽は鳴り止まない、でも、受け止めるやつの耳がザルだから、「ロックは死んだ」なんて言葉が、いつまでも流行り続ける―ロックが死んだってことはエモーションが死んだってことだぜ、判んないのかい?きみはピッチを合わせることに夢中になりすぎなんだ、出来合いのものに寄り添っていくだけなんだよ、アヴァンギャルドという定番に自分をはめこもうとしているだけなのさ…先に決まっているかたちなんかない、そいつが生まれたときのことを考えてみればいい、音楽が生まれたのは楽譜が生まれるよりずっと前のことだぜ―70年のキングス・ロードで売ってたみたいな服を着て、辞書捲りまくって作ったイングリッシュで、きみのスピリットはするすると出てくるって言うのかい…?おれはストーンズが好きだけど、ミック・ジャガーみたいな服なんか別に買ったことないぜ、そんなの本当に馬鹿げてるって思うだけさ―ヘイヨー、きみはパッショネイティブだ、だけどそれはどこかで見たことがある、ヘイヨー、きみはアヴァンギャルドだ、もしもそれを初めて着たのがきみならね…作法じゃない、スタイルの踏襲じゃない、スタイルへの裏切りでもない、選択するものなんかなんだっていい、ようは、自分に差し出すなにかがあるかってことだけさ、目の前のテーブルに並べるカードを持ってるのかって、それだけのことさ…ねえきみ、みんなに伝わるなんて甘いこと考えちゃダメだよ、言葉なんて絶対に思った通りには伝わらないものなんだ、言葉に齧りついて、とことんまで味わってくれるやつしか、真意なんて汲み取ってはくれないものなのさ、それだって全部じゃない、それは当り前のことなんだ、そんなことに駄々をこねてる暇があるのなら新しいなにかを作ることさ、ひとつでは判らないことも、ふたつあれば判るかもしれないだろう、きみはそういうことについてあまりにも考えが足りなさ過ぎるんだ、いいかい、もしも、信念とか、スタイルとか、スタンスとかでなにかを伝えられると思ってんなら、自分の頭を殴りつけてすべてをドブに捨てることだ、そんなものきみが相手にしてる連中にとってはどんな意味も持ちはしない、たとえばきみがだらしない格好でテレビを見ながら作ったものでも、美味そうに見えたら誰かが飛びついてくれるのさ、姿勢なんかいくらアピールしたってなんの意味もないことさ、「シー・ラブズ・ユー」って3分足らずで書かれた曲だぜ―オーケイ、オーケイ、オーケイ!きみの朝の祈りだってもちろんきみにとっちゃ大切なことだ、夜にそれをぶち壊すこともね…だけどそんなのおれにしてみりゃ、だからなんなんだって話に過ぎないんだよ、おれが見たいのはそんなものじゃない、その祈りがきみになにをもたらしてるのかって、そんなものが見たいのさ…行くべき場所に行って、語るべきことを語って、うたうべき歌をうたって―そういうことがきみに出来るのかっておれは質問してるんだ、この世にあるすべての芸術で、お稽古事みたいに身につけられることなんかひとつもないんだぜ、影響を変換することが必要なんだ、大事なことはそいつさ、受け取ったものを、自分のやり方で差し出せるのか…そいつ以外に重要なことなんてほとんどないんだ。












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2015/4/12

歩いても歩いても終わらない  










長い長い回廊の内側に等間隔で開けられた正方形の小さな窓からは、中庭が見下ろせる、回廊もおそらくは正方形で(と言うのは、まだすべてを歩ききっていないからで)、その回廊に囲まれた中庭も、きっとそうだろう、中庭の中心と思しき場所には遠い昔に涸れて崩れかけた簡素な石細工の噴水があり、その噴出孔であっただろうあたりにひとつのうつくしい羽根が置いてある、おれはその羽根を手に入れたくてもう長いことそこを歩いているらしいが、回廊はその場所で感じるよりもずっと大きなスケールで造られているらしく、どれだけ歩いても中庭への出口はおろか正方形の角にすらたどり着けなかった、なにかがおかしいことには気がついていた、だって、はるか遠くと言ったところで、向かうべき場所はずっと目に見えているのだし、移動しているにしては涸れた噴水の上の羽根はずっと目の横に見えている、おれはもしかしたら歩いていないのではあるまいかと足もとを見やってみると案の定同じところでずっと足踏みをしているに過ぎなかった、いったん足を止めてどうしてこんなことになっているんだ、と考える、もしか、おかしなまじないにでもかけられたのではあるまいか、おれはここから移動出来ないような仕掛けの中に組み込まれているのかと―そう考えたら無性に怖ろしくなり駆け出した、が、やはり結果は同じことで―向かうべき場所との距離はいっこうに変わらなかったし、噴水の上の羽根はずっと同じところに見えたままだった、なのでおれはすぐに諦めた、こんなことをしていても意味がない、移動出来ないのなら足を動かしていても…そもそもなぜおれはこんなところを歩いているのだろうか?おれは床に腰を下ろしてすこし考えてみようと思った、だが、座ったはずの身体は同じところにたたずんでいて、視界はまったく変化しなかった、わかったよ、とおれは思って、動くことも座ることも諦めた、そして、窓の方に向いて中庭をながめた、時刻は午後に入ったばかりだろうか?空には薄く雲が張ってあるらしく、間接照明のような明るさで世界は照らされていた、まるで、目覚めてすぐに目にする世界みたいだった、鳥や、虫の姿は見えなかった、噴水の周りは低木が柔らかなバリケードのように植えられていて、やはり正方形だった、徹底的に正方形の設定だった、おれにはそこがどこだかはまるで理解出来なかったが、そこがどこなのかを理解することはたいして重要じゃないように思われた、もしかしたら奇異過ぎる状況のせいでそうした部分に対する考えが欠落しているのかもしれないが、とにかくもそういうことはたいして重要じゃないような気がした、重要なのはただひとつで、ここでいったいなにをしようとしているのかということ、どうすれば事態は進展するのかという、それだけだった、まるで、バグだらけのゲームの世界観の中に放り込まれたみたいで、なにもかも釈然としなかった、プログラムのミスならおれには動きようがない―そうだろ?そうした世界観はいったん壊す以外に動かしようがないはずだ…あ、とおれは思わず声を上げた、壊すことか?たとえばこの窓を壊して、あの中庭に出て、あの羽根を手に取ることが出来ればこの不愉快なゲームはハッピーエンドを迎えるのだろうか?いや、だけど、それはバッドエンドかもしれない、この先を正しく移動することを考えれば、もしかしたらなにかしらの答えが得られるかもしれない、おれはしばらくの間窓から羽根をながめながらそうするにはどういう条件が必要なのだろう、と考えた、歩いても、走ってもダメ、座ることも出来ない、ここでこうして立っているか、動いているフリをすることしか出来ない、なんて理不尽な状態だろう?おれはなぜこんなところに放り込まれているのだろう…?とりあえず、すべての動作を試してみることにした、寝転んでみると、寝転ぶことが出来た、床はとてもつるつるに出来ていて、寝転んだまま移動することが出来そうだった、おれはそのまま、氷の上で遊んでいるペンギンのように腹で滑ってみた、上手くいった、ほどなく最初の角にたどり着いた、そこから曲がってみても見える景色にたいした違いはなかった、ただ太陽の位置が違って見えるだけだ、怖ろしいほどに特徴のない建物だった、まるで、余った場所にノープランで建てたどんなものでもかまわない建物のように思えた、おれはそこも同じように滑って移動した、開いている窓もなかったし、中庭に下りる出入口的なドアもまるで見当たらなかった、そして動いてみると、回廊はたいした大きさではなかった、おれは惑わされているのだろうか、とおれは考えた、でもなぜ?こんなわけの判らない世界でいったいどんなことをすれば終わらせることが出来る?裏技だけで終了させなければいけないみたいなゲームだった、ヒントらしきものも、目的も、理由も、まるで判らないまま、ゴールを目指さなければならないのだ、どうしていいか判らなかったので、とりあえずすべて回ってみようと思った、まだ、ふたつの辺を制覇したに過ぎないのだ、あとふたつの線に解答は置かれているかもしれない、おれは少し先へ先へと物事を考えすぎる、また腹ばいになりつぎの廊下を目指した、角を折れて新しく目に入ってきた廊下も、それまでの廊下とまるで同じ造りだった、開きそうな窓もなかったし、中庭に降りられそうな出入口もなかった、おい、よしてくれよ、とおれは思いながら最後の辺を目指した、そこで見える世界もやはり同じだった、まてよ、とおれは思った、だったらおれは、どうやってここに入ってきたというんだ?おれはすこし混乱した、瞬間的に頭に浮かんだのは、子供のころに飲料水の空ビンに詰め込んだアマガエルのことだった、やつらは柔らかいから、小さな穴からでも放り込むことが出来るのだ、そして、取り出すことは出来ない―おれはそういうものを想像した、おれはどこか、出ることの出来ない入口からここに投げ込まれたのかもしれない、思わず上を見上げた、味気ない天井があるだけだった、それはおれをすこしだけ冷静な気分にさせた、おれはつぎに床を叩いてみた、鈍い音の中にひとつだけ、奇妙に高くなる音を立てる場所があった、苦労して床板を外すと、そこに地価へ下りる階段があった、うそだろ、と思わず口をついて出た、ためしに降りてみると、きちんと降りることが出来た、そこから中庭に出て、噴水のそばにたどり着いた、崩れかけた噴水の細工には、「一九五〇」と刻まれてあった、ただ、そうとだけ刻まれてあった、たぶん年号のことだろうと思った…羽根を手に取ると、すべては一瞬で消え去った、おれは砂漠の真っ只中に居た。








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2015/4/2

ミーナ  









色褪せ、草臥れた雑草の中から、あの子の可愛い手の平が少しだけ覗いていて事態はようやく動き始めた、おとなたちが騒ぎ、こどもたちが泣き、見つけられた子の両親が呼ばれた、検査の結果残酷な行為の末に殺されていたことが判った、子供の母親は泣き崩れそのまま気を失った、殺されたのはその地方に住む八歳の女の子で、名前をミーナといった、ミーナの葬儀にはたくさんの友達と学校のおとなたち、それから彼女の死をくいものにしようと目論んでいる新聞記者たちとテレビ局の記者たちが押し寄せた、もちろんカメラを抱えた連中は決して中に入ることが出来なかった、彼女の親族の有志たちが集まって大人しい用心棒のような役割を果たしていたのだ、彼女の母親はその葬儀に出席することが出来なかった、あの瞬間以来すっかりふせってしまったのだ…「おかあさんいま忙しいから、しばらく外で遊んでらっしゃい」それが母親がミーナと最後に交わした言葉だった、ミーナは文句も言わず、素直に…あそこでどうして例えば、「二階でひとりで遊んでらっしゃい」とか、そういうふうに言えなかったのだろうか?軋む脳味噌を横たえながら母親はずっとそんな風に考えていた、父親は気丈に振舞ってはいたがやはり傷ついていて、あの日から一度も食事を取っていなかった、非常にやつれ、非常に疲弊していたが、彼はまだそのことに気づいては居なかった、母親が最後に言った言葉のことで自分をひどく責めていることは判っていたがそれをどうしてなだめてやればよいのか判らずにいた、「おまえのせいじゃない」そういうのは簡単だったが、それはミーナが死んだことの代わりにはならないのだ、葬儀を取り仕切り、ミーナの小さな身体が墓の中に入り、すっかり土をかけられて固められてから、哀しい一群は別れ、父親はひとり欠けた家へと戻った、ミーナの墓の前で最後にひとりになったとき、このまま頭を撃ち抜けたらどんなにいいだろうと思ったが、ひとり残される母親のことを思うと実行することは出来なかった、それはかれにとって幸運なことであったが、彼にはなぜか不運であるように思えて仕方がなかった、正式な運命のもとで別れる命でさえ途方もない哀しみを伴うのに、こんな別れを受け入れることが出来るはずもなかった、そして彼は、妻のこと、ミーナの母親のことを思った、彼女はきっと自分よりもずっと辛い思いをしているだろう、と彼は思った、そのことを思うといっそう胸が絞めつけられた、なんとかしてやらねばならない、彼はそう心に決めた、俺が苦しんでいる場合ではない、と―いまはなにも言えなくても、そばに居てやればきっと彼女の心も癒えるはずだ、そして初めて、犯人への怒りに身体が震えた、警察で聞いた話は、とても正気で聞いてはいられないものだった、愛しいひとり娘がそんな目にあったなんて耐えられなかった、どれだけ泣き叫んだことだろう、どれだけ俺の名を呼び、妻の名を呼んだだろう、最後は首を絞められたのだ、息絶えるまでの長い間、ずっとずっと苦しんだことだろう、彼の心の中は憎しみと哀しみで一杯になって、神すら恨んだ、よくないことだとは思いつつも、それを止めることが出来なかった、この運命はあまりにも受け入れがたかった…


それから一週間が過ぎたが、妻はいっこうに良くならず、次第に食事も取らなくなっていった、医者は、ひどいことを言わなきゃならない、と言って、彼の妻が死ぬかもしれないことを告げた、衰弱が激しい、このままでは危ない、私に出来ることは栄養を入れることだけだ、だがそれがいまの彼女にどれだけためになっているかは判らない、彼はまた、いま立っているところよりもいっそう深い地獄へと落ちていった、あんたも決して大丈夫とは言えない、と医者は言った、明日からあんたの注射も用意しておくよ、と…その夜から彼は眠れなくなった、妻が起きている間はずっと彼女のベッドのそばに居て、なんでもない風を装って話しかけたりした、妻は返事を返すことが出来なかったが、時々愛想笑いを返した、彼が娘と自分のせいで苦しんでいることは彼女にも判っていた、だが、彼女の心にはもう生きる気力というものがなかった、自分がもう人間ではないような気さえしていた、このままミーナのあとを追うつもりだった、彼女が安らかに眠った振りをして、彼がベッドを離れると、朝が来るまでずっとすすり泣いていた、彼女は娘を失ってから二週間後に痩せ細って死んだ


三人居たはずの家に男はひとりになり、強烈な孤独が始まった、妻の葬儀のあと男の顔からは表情がなくなり、誰の言葉にも返事を返さなくなった、男はあまり眠らなくなった、一日のうちでたった一度の食事を夕刻に取って、それからずっと窓際のソファーに腰を下ろして、ライフルを磨いていた、時には分解して、綺麗に掃除をした、どうしてそんなことをしているのか判らなかった、でも、それをしてるとなにも考えないですんだ、哀しみも、怒りももうそこにはなかった、あるのは永遠に続くような喪失感だけだった、俺はどうして生きているんだろう、と男は考えた、俺をこの世に繋ぎとめる理由はもうとっくになくなったのに…男は仕事にも行かなくなった、若いころに懸命に働いたせいで、余生をのんびり過ごすくらいならなんとかなりそうなくらいの金があった、だが男は、そんなことの心配など少しもしていなかった、どうして俺は生きているんだろう?


それから数年が過ぎた、嵐がひどい夏の夜遅く、ひとりの旅人が男の家のドアをノックした、旅人はケンと名乗った、小柄な、みすぼらしい男で、雨に濡れて余計にみすぼらしかった、道に迷ってしまって、と、ケンは言った、男は久しく人と話して居なかったのでしばらく言葉を思い出せなかった、ケンのほうもまた、男の様子になにかおかしなものを感じていたが、ここを出てまた嵐のなかを歩くことなど出来ようもなかった、男はケンを家に招きいれた、風呂を沸かし、ケンを入れてやった、ケンは心から感謝します、と頭を下げて長いこと温まっていた、男はケンの荷物を乾かしてやろうと床に置いてあったナップサックを持ち上げた、そのとき、ショルダーのところについていたカンバッヂが外れて転がった、男はそれを拾い上げてもとどおりにしようとして雷に打たれたような衝撃を覚えた、ミーナのオーバーオールについていたものと同じだったからだ、それは彼が買い与えたものだった、いまではもう売っていないもののはずだった、もしも…これがそうなら……彼はカンバッヂを裏返した、うろたえて、たまたま取った行動だった、そこには、薄くかすれてはいたが、懐かしい文字で小さく名前が刻まれてあった、ミーナ、と、つたない文字で…そのとき、ケンが風呂を終えて出てきた、男が彼の荷物を見つめているので、少し変な顔をした、ああ、と男は言った、「乾かしてやろうとおもってね」ケンはほっとした様子で、そうですか、と答えた、男はケンに温かい飲物をすすめた、ケンは喜んでそれを飲んだ、「この嵐はこれからひどくなるよ」と男は言った、「毎年今頃に一度だけ来るんだ、我々は慣れっこだが、君のような旅行客が時々ひどい目に合うんだ」権は苦笑して、今年は僕だったわけですね、と言った、男は微笑んで、このあたりは初めてかね、と聞いた、そのときケンの顔に奇妙な影がよぎったのを男は見た、「初めてみたいなもんですね」と男は言った、「四、五年前に一度来たことがあるのですが、そのときはあまり時間がなくて…」男は数度頷いて、静かに聞いた、「そのときは、仕事か何かで来たのかね?」ケンの顔は少し色をなくした、そして、ええまあ、とだけ言ってカップを掴んで、飲んだ―もう口を開けないために、そうしたように見えた、「疲れただろう、ここで待っていてくれ、君の寝床を用意してくるよ」男はそう言って二階へと上がった、ミーナの部屋を使うつもりだった、「すみません、ありがとう」階下でケンがそう言うのが聞こえた


男に部屋に案内されたケンは、壁にかけてあるオーバーオールと、その胸のポケットのところについてあるカンバッヂを見て真っ青になったが、男は気づかないふりをした、ここは娘の部屋でね、と男は何気ない調子で言った、「ベッドは少し小さいが、状態はいい…あまり使われることがなかったからね」ぐっすり眠れるだろう、という男の言葉に、ケンは青ざめながら頷いた、すぐにでも眠るといいよ、と男は微笑みながら言って、ケンの肩をぽんぽんと叩いた、ケンは声もなくこくこくと頷くばかりだった


夜明け近く、男はライフルを手にミーナの部屋に向かった、ケンが気づかないことは判っていた、飲物には妻が最後に使っていた睡眠薬が残っていたから―ケンがそうであることを、男は確信した、それは疑いようがなかった、もし違っていても、どうでもいいと思った、俺がここまで死人のように生きてきたのには、きちんとした理由があったのだ―ケンはいびきをかいて眠っていた、男はその鼻筋あたりにくっつきそうなほどに銃口を寄せて、引鉄を引いた、ケンの頭は枕の上で下顎のみになった…男はしばらくケンの様子を見つめていたが、やがて部屋の隅に腰を下ろすと、銃口を口にくわえ、引鉄を引いた―


やがて数日後に嵐が去り、男の家の異変に最初に気づいたのは郵便配達の男だった、呼び鈴を押しても出てこないことをおかしいと思い(というのも、男はほぼ外に出ることはなく、彼がベルを鳴らせばほとんどすぐに出てきたからだ)、周囲をうろついてみると、二階の窓のところに異常なほどの数の虫が飛んでいるのが見えた、すぐにとってかえして警察に駆け込み、巡査が様子を見に入ると、二階のその部屋で死んでいる二人の男を見つけた、部屋の隅で死んでいるのはその家の男に違いなかったが、ベッドで寝ている下顎だけの男はまったく誰なのか判らなかった、すぐに応援が呼ばれ、家中の捜索が始まった、キッチンのハンガーにかけられていた荷物から、ケンの書いたものが出てきた、数年前にこの街で少女を殺した、とその手紙には記されていた、本当に後悔した、あの時はどうかしていた、自分を抑えることが出来なかった、少女に詫びるためにこの街に来た、と、手紙には記されてあった、ほかにもいろいろと書かれていたが、それはおそらくのちに遺書のようなものになるために書かれたものだった―それを読んだひとりの刑事は、ミーナの事件のことを知っていた、「なるほどね」と彼は言った、「ケンとやらは、最短距離でこの街での用事を済ませたわけだ」だが、と刑事は声に出すことなく続けた、「ケンはここに来るべきではなかった、父親に、こんなことをさせるべきじゃなかった」




俺は彼には、すべてが昔話になるまで生きていて欲しかった、と。








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