2016/10/25

一〇月、食事のあとで  













夜の訪れとともに降り出した雨は秋の始まりにしては不自然なほどに冷たく、まだ夏を待ってでもいるような薄着の私はたちまちのうちに凍えてしまう、友達はそんな私を笑い、私はしかたなく笑い返す、自分の身を抱くようにして震えていると、まるで怖い夢を見た後のようだなと思う、でも、怖い夢なんてここ数年まるで見ていなかった、怖い夢を見るのは憧れてばかりいる人間のすることだ、少なくとも私はそう思っていた、もちろんそれが、私が怖い夢を見ないということの理由になるかどうかはべつの話だ、新しく出来たイタリアンレストランの帰り道だった、パスタが少し柔らか過ぎると感じたけれど、味については申し分なかった、待ちたくなかったので予約を取った、予約を取ったのは友達だった、そもそも彼女がそこで食べよう、と誘ってきたのだ、そんな食事をしながら水の値段のせいでテレビの仕事を無くしたコックさんが居たね、なんて話をした、その店でそんな話をしていたのは多分私たちだけだった、近くのホールでクラシックのコンサートがあったらしく、周りはタキシードやイブニングドレスを着た中年以上のカップルでいっぱいだった、どうしてみんなあんなに人生に満足したみたいな顔をしているんだろう、と、軽く彼らの様子を窺って私は思った、もちろんそれはコンサートの余韻のせいでもあるだろう、でもきっとそれだけではなかった、私も大人になったらジャズやクラシックを聴くようになって、あんな格好をしてコンサートに通うのだろうか、なんて考えていたこともあった、高校生くらいのころだ、でも今でも私は流行歌が大好きで、休みの日は一人でカラオケに出かけて二時間くらい好きな歌をうたってばかりいる、そんな自分をどう思うかなんていう話ではないけれど、たとえば今夜のようにイタリアンレストランでそんな人たちに囲まれたとき、私はどうしてそんな大人にならなかったのだろう、なんてぼんやりと考えるのだ、そしてどうして、私は流行歌が好きなのだろうと考える、身を焦がすような激しい恋や、夕暮れの繁華街でキスを交わすようなロマンティックな経験などひとつもなかったというのに?あったのはそれなりの―それが標準なのかどうかは判らないけれど―まあよくあるような話がいくつかあっただけだ、そうして私はそんなことに飽きてしまったのかもしれないなんて考える、もっと楽しいことはあるのかもしれない、でも、もういいのだ、私はそれをつまむ程度で、あとは自分の好きなものをあれこれと追っかけている方が楽しい、雨、やんでるね、と私の考え事を邪魔しないように黙って歩いていた友達が言う、え?と聞き返して私は傘をずらして空を見上げる、星は出ていないけれど薄いヴェールを被ったような夜空がそこには広がっている、私の目を濡らすものはなにもなかった、「ほら、もうあんただけ、傘さしてるの」友達が笑う、私は慌てて傘をたたむ、撫でるような風が吹き始める、どうする、電車に乗る?と友達が聞く、彼女は多分私の答えを判っている、「いいよ、歩いて帰ろう、そんなに遠くないんだから」彼女は笑う、私は生真面目な顔をして、頷く、柔らか過ぎるパスタのことなんかいつの間にか忘れていた。













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2016/10/22

ブラック&ホワイト  












街の端っこの更地を囲うフェンスに絡みついたまま枯れた蔓の落書きのような交錯の隙間から血走った目が俺のことを見ていた、俺はその目に見覚えがあった、鏡で確かめるまでもなかった、斜視で歪んだ照準はそれでもこちらを真っ直ぐに見つめていた、何かしらの思いがそこにはあったけれどそれを正しく読み取ることは叶わなかった、忘れられたようなその区画には俺以外誰も生きたものはおらず、おまけに雨模様でそれはまるで現代的な幽界のような様相を呈していた、時刻は昼過ぎで空腹を感じていたが、欲望として処理するにはもう少し時間がかかりそうだった、俺は見つめ合っても仕方がないと思った、だが、この先にはもう潰れた造船所と小さな港しかなく、そこまで歩いてみてもやはり仕方がなかった、散歩の途中でこの道に迷い込んだのもほんの気まぐれのようなものだったのだ、今日は休日で、いつもよりもたっぷりと睡眠をとったけれど、普段の蓄積のせいか天候のせいか、気分よくすっきりと目覚めたというわけにはいかなかった、こんなところに迷い込んだのはそんな、ぼんやりとした気分を抱えて歩き続けたせいかもしれない、なにかひとつ、朝飯代わりの飲料を求めてふらふらと歩きだしただけだった、焦点が定まっていない、でもそれは斜視のせいではなかった、なにも思いつかなかったので俺はその目をしっかりと見返してみた、予想はついたことだったけど鏡を見ているときとたいして違いはなかった、ということは、やはりそんなものと見つめ合っていても仕方のないことなのだ、俺は視線を逸らして潰れた造船所のほうへ歩き始めた、数歩歩いたところでそんな目のことはすっかり忘れた、海の近くに建てられ、放置された巨大な廃墟はなにもかもが赤く錆びていて、押し入れで散々湿気た布団のような潮の香りがした、それは俺に古臭いアパートを想像させた、造船所の正面玄関の前に立って、硝子戸越しに長く続く廊下を眺めた、ここに来るといつもそうするのだ、硝子にもやはりさっきと同じような目が映っていた、でも俺はもうそれを見なかった、廊下の先に何があるのかは見えなかった、そこには閉じ込められた過去だけがあった、船を作りながら死ぬまで生きていけると、ここで働いていた連中は信じていただろうか?まるで意味のない問いかけだった、そこで働いていた大半の人間がくたばっているだろういまとなっては、とくに…俺は意味を無くしてそこを離れた、そのとき正面玄関と建物を覆う鉄板との間に、僅かな隙間があるのを見つけた、足元にはその隙間を塞いでいただろう幅の狭い鉄板が倒れていた、その隙間の向こうにある窓は、鍵を失っているみたいに見えた、念のために辺りを窺ってみたが、野良犬すら見かけなかった、隙間に潜り込んで、窓を動かしてみた、それは難なく開いた、身体を持ち上げて、中に潜り込んだ、大昔から放置されたままの建物で、機械警備のある可能性は少なかった、廊下の壁にくっついていたキャビネットを足場にして、俺は潜入した、空気が意識を持っているような感覚だった、四方八方から、形のないものが俺のことを見ていた、そんな視線には慣れていた、事務室だの給湯室だの更衣室だの、あらゆる部屋のドアを押したり引いたりしてみたがどこも施錠されていた、叩き割る気はなかった、それに、窓からだいたいの様子は覗くことが出来た、ひとつひとつを確かめながら廊下の端にある階段を上ると、二階の壁や廊下、天井はすべて黒く塗り潰されていた、おそらくはそこにある部屋の中も、すべて…俺は面食らったが取り敢えず歩を進めた、階下と違いどの部屋にも何も表示されてはいなかった、俺は壁をしばらく眺めてみた、もともとある色を執拗に塗り潰したようだった、塗料が褪せた感じでもなかったが、最近のものにも思えなかった、いったい、何の目的でそんなことが行われたのか?船を作るのに真っ黒い部屋が必要だとでもいうのか?俺は造船には詳しくはないが、そんなもの必要なわけがないことくらいは判った、さて―二階の廊下の真ん中で腐ったような付近の海を眺めながら俺は考えた、どこかの部屋が開くだろうか?その部屋も黒く塗り潰されているだろうか?その時、微かな音を立てて一番遠い部屋のドアが開いた、誰か居るのかと俺は身構えたが、そこから誰も出てくることはなかった、躊躇したが、その部屋に向かって走った、こちらに真っ黒い背を向けて開いているドアの向こうへ回ると、そこだけ塗られていない部屋があった、俺は中に入ろうとして、慄いて立ち止まった、天井を走る頑丈そうな太いパイプに結び付けられた首吊りのロープが、こちらを向いて垂れ下がっていた、その後ろの姿見には俺が映っていた、鏡に映った俺の首のあたりにちょうど、ぶら下げられたロープの輪っかがあり…俺はしばらくの間呆然とそれを眺めていた、いたずらには思えなかった、この部屋にこれを作った誰かと、二階を塗り潰した人間は多分同じだろう、でもその目的を確かめるには少し遅過ぎたようだった、足元には何時からそこに居るのかもう判断もつかない、滅茶苦茶に散ばった一体の白骨があったのだ。









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2016/10/20

判らないものがおまえを生かしている  













白夜のように月が燃えあがる夜に暗色のシーツに包まれた寝床におまえは横たわる、清潔な寝室のそこかしこに蛆虫のように蠢いている憤りの欠片、それはすべておまえが隠した懐から零れ落ちていったものだ、もぞもぞと床の上で、淡い影のような、あるのかないのか判らないようなそいつが時のない時の中を生きている、おまえは仰向けになっているが目を閉じてはいない、数百年もそのままで寝ているミイラのように目を見開いて、天井から垂れてくる雨垂れのような詩情を眺めている、それは決して書き留める気分になれない羅列、決して指先まで到達することのないインスピレーション、そうさ、まさに寂し気な雨垂れのように滴っては濡らすことも叶わずに蒸発していく、蒸発してしまう、消えていくそれらはいったいどんなところへたどり着くのだろう、叶わなかった詩情―叶わなかった雨はきっとまた空へと戻っていく、だからいつかは叶うことがあるかもしれない、だが、叶わなかった詩情は…亡霊のようにそこに留まることさえ出来ない連中は…幼い自殺者のように哀しい憤りを長く残して居なくなる、居なくなってそのまま忘れ去られてしまう、彼らにアドレスがあればいい、そうすればおまえは彼らにいつかコンタクトを取ることが出来るかもしれない、電話を鳴らしてもいい、メールを送ってもいい、もう少し親しい仲ならラインで小洒落たスタンプを送りつけたって構わない、でもそうしたところできっと返信はないだろうけど…そもそも彼らになにかを発することが可能なのかさえ微妙なところだろう―なあ、いつまでそうして目を開けているつもりなのかね?明日も早いだろうに?―もちろんおまえ自身にもそうしたことは充分よく判っている、誰に言われることもない話だ、だけどおまえはそうして目を見開いたまま横たわっている、まるで死体の真似事をしているみたいにだ―おまえは時々そうして寝床の中で、夜というものを死のように感じてきた、寝小便を垂れていたころからだ、寝床の中で見上げる天井の暗がりがグラデーションをわずかに変えるとき、そんな景色の中でウトウトして、現実と夢の境界があやふやになるとき、おまえはいつでもこのまま死ぬのではないかと考えた―ある意味でおまえは、毎晩のように死んでいたのだ、毎晩のようにその恐怖に慄いていたのだ、何故だ?まだ死ぬこともないのに、何故だ?薄暗い小さな寝床の中で、蠢く影の中に何を見ていたのだろう―?そうしてあの頃と同じように目を見開いていると、おまえはなかなか寝返りをうつことが出来ない、目をそらすと殺されるかもしれないとどこかで感じているのかもしれない、もちろん本気でそんなものに怯えているとしたら、とんだ笑いものだろう、だがそれはまるで在り得ないということではない、運命というのはいわば慈悲深い殺害者だ、あいつらはいつでもおれたちを殺すことが出来る、もしかおまえはそいつらがやってくるのを待っているのかい、もしそうだとしたら、どんな意味合いで、どんな理由でそうして待っているのかい、拒むためかい、それとも受け入れるためかい、ええ、どんな理由でそうして待っているんだい、待っていることに果たして、理由は必要だと思うかい…そうだな、もしかしたら必要のないものなのかもしれないな、待つと決めたら待っていればいいんだ、それだけのことかもしれないな―そこになにかしらの思惑があったとしたら、きっとおまえは裏切られるだろう、思惑というのは得てしてそういうものだ―おまえの頭の中では寝床に入る前に聴いていた音楽が流れている、音楽が終わった夜に、おまえは眠りにつくだろう、だけどそれはまだ先の話で、理由のない逡巡はもっともっと深く続くだろう、おまえは小さなころから寝つきの悪い子供だった―理由についてはさっき話したよな―おまえはそいつを見たいのかい、おまえはそいつを拒みたいのかい、それともそいつを受け入れたいのかい…その問いはもう終わったって?問いかけとは繰り返されるものだ、繰り返されれば意味合いが違ってくることがある、問とは答えを導き出すためのものじゃない、それについてもう一度考えてみるためのスイッチなんだ、おまえは寝床の中で目を見開いている、それは初めての夜ではないはずだ、人間の一生は繰り返される問だ、おまえはこれからも問いかけを繰り返して生きていく、そしてその問いに終わりがないことを、子供ではないおまえはもう理解しているはずなのだ。









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