2017/5/21

足跡に名札がついたことはない  












通り過ぎてゆく連中の靴はどれも洗いたてみたいに艶めいていて、おれは自分の薄汚れたスニーカーを見下ろしてほくそ笑む。それはおれとやつらの「歩行」という行為に関する決定的な認識差であり、歩いてきた距離の違いなのだ。やつらはまるで歩いたことなんかないみたいな顔をしている、そしてそれはたいていの場合本当にそうなのだ。交通ルールと運転技術を学んで免許を交付してもらい、信号や渋滞で足止めをくらいながら膝が退化してゆくのを誇りに感じているのだ。おれはかれらを横目で見ながら一歩ずつの感触を確かめてきた。それは確かに有意義なことだったし、かれらが見落としてしまうほとんどのものを目に留めることが出来た。かれらは当然ずっと早く目的地のようなものに到達しておれのことを嘲笑っていたが、おれはなにも知らずに距離だけを進めることなどに興味はなかったのだ。おれはひと足ごとに感じていた、額に汗が滲むことを、疲弊した肉体が腹を減らして鳴くことを。靴底を受け止める大地の確かさを。そこにはわざわざ書き綴ることのない詩情があった。わざわざ掻き鳴らす必要のない音楽があった。だからこそおれは書いたのだ、弱い目を見開いて、指が凝固して痙攣を始めるまで。だからこそおれは歌ったのだ、咽喉が擦れて耳障りな音を立てるまで。要らないと判っているからこそ、そうして続けてきた。汗まみれになって、目をしばたかせながら。それはおれという人間を調律するためのものだった、そして、おれが踏みしめてきたものをどのように理解しているか、口にしてきたものをどのように消化し、排泄してきたのかという確認のようなものだった。そうして自分自身のための長い長い名刺を作ることで、おれは自分の人生を出来うる限り分解して組み直したのだ。別にそれで過去が塗り替えられるわけではなかったし、記憶や認識になんらかの影響があるわけではなかった。だがいいか、パーソナルコンピューターだってコマンドがない状態でも動作し続けている、パーソナルコンピューターという物質として生き続けるために。おれも、おれという人間として生き続けるためにそうしてハードディスクを回転させ続けているのだ、おそらくはコンピューターのそれよりも、ずっと複雑なシンプルさを求めて…ヒトの言語は数式の配列ではない、それは強いていうなら感情の化石の陳列だ、ガラスすらない陳列棚の上に、ろくな分類もされないまま捨て置かれてゆく。名前もなく、名札もない。ライトアップされることもなく、一般公開されることもない。そこにそんなものが陳列されていることなんて誰も知らない。おれだってそのすべてのことは判らない。ただ反射的な年表のようにそこにあるだけだ。特に手を入れられることもないけれど、それは朽ちることがなく、色褪せることすらない。ただそこにあることを忘れられてしまうだけだ。誰もが時折自分自身のことすら忘れてしまうように。だからおれは薄汚れたスニーカーに足を突っ込んで歩き続ける。それはここにある、それはここで並べられていると、声ならぬ声が囁くのを聞き逃すことのないように。






0

2017/5/15

夏の亡霊  









紙パックの飲料水が路上で踏み潰されて幾何学的なかたちにねじけ刺さったままのストローから血を流す、きみのモカシンはそれを石かなにかのように避けて歩いて行く、あとに続くおれは植え込みに残る昨日の雨のにおいを嗅ぎながらそいつを、だれも踏みつけることがない場所まで押しやる、スリップオンの外側で…アーケードの周辺で人々が激しくうごめき始めて、昨夜から寝ていないタクシー・ドライバーが何度もクラクションを鳴らす、野良猫が二匹、じゃれながらそのそばを走り抜けていく、アナログ・カメラがフィルムを巻き上げるような音を立てながら制服を着た自転車の学生たちが魚のように自由な軌道を描く、自由か、おれは彼らの背中を追いながら約束された自由の儚さについて考える、信号が青になるまでの間だけ―きみはいつでも特別な用事があるみたいに歩く、空をつんざくビルのなかでスケジュールを調整している秘書のような足取りだ、約束された自由、と限定された思考がリフレインする、人間を縛り付けるのはいつでもそいつ自身に違いない、時々強い風が吹いて、それが止むたびに温度が少し高くなる、おれはイラつき過ぎて穏やかにそいつを抱え込むくせがついた、きみは歩きながらおれがなにか声を発するのを待っている、でも今日のおれはそんな声なき期待に乗るような気分じゃない、昨夜は渇き過ぎた…窓の外では叩きつけるような雨があんなに降り続いていたというのに!はっきりと喪失が意識された動作だった、ただただあてのない放出があっただけの…踊るように歩いていた二人組の女子高生が素っ頓狂な声を上げて、そのあたりを歩いている何人かの連中が振り返る、その誰もが似たような寝ぼけ眼で―きっとどいつもこいつもこのあたりで働いている人間なんだろう、きみのモカシンが不意に進路を変えてその女子高生を捕らえる、すれ違いざまに巧妙に肘を背中に入れていく、いって、と女子高生は苦々しい顔をして振り返るが、誰がそんなことをしていったのか想像もつかない、おれは女子高生の、化粧だかウェザリングだか判らない顔をそれとなく眺めながら、我関せずといった態度で通り過ぎていく、背後で舌打ちが聞こえる、この街の悪意はいつも、顔が見えないところでだけよく聞こえる、それは、この街の幼さをよく現わしている、とおれは考えている、べつに、どこで発表する気もない話だが…おれはきみのモカシンを追いかける、いつだったか、きみの誕生日におれが贈ったものだ、おそらくはそれは、きみの最後の賭けなのだろう、おれはそのことに気づいているがやはりアクションを起こすことはしない、おれはきみのモカシンに追いつく、そうして、喉が渇いたからどこかでなにか飲もうと提案する、きみのモカシンは呆れたように少しの間立ち止まり、やがて諦めたようにおれに先を促す、おれは一番近くにある安っぽいチェーンのコーヒー・ショップを選ぶ、そうすることでメトロノームのようにあとをついて来る足音がなにかを察してくれればいいなと思いながら―おれの注文はすぐに終わる、おれの注文はいつでもすぐに終わる、おれが注文するものはいつでも決まっている―きみはしばらくレジスターの前で思案して、やがて口を開く、それだってほとんどの場合同じなのだ、ただきみは気に入らないのだ、おれがその店をチョイスしたことや、その店のシステムや、不確実なアンドロイドのような店員の声のトーンや、やたらに掃除された薄っぺらい背もたれなんかが…おれたちは飲物を持ってカウンターに隣り合って座る、おれたち以外の客は年寄りしか居ない、おれたちは黙ってそれぞれのオーダーを片付ける、空になったきみのミルクポーションの容器が軽い音を立てて床に転がる、きみは三度に一度は必ずそれを落とす、おれは無意識にそれを拾い上げてそれをカウンターに戻す、きみはこちらを見ることはないがおれがそうしていることは知っている、それからおれたちはどちらからともなく容器を捨てて店を出る、雲が減り始めた空はウンザリするくらい青い、歩き始めた足音はいつかまたシンクロするかもしれない、でもおれはすでに残像を追い始めている。












0

2017/5/9

夢を見なよ、この夜はまだ明けることはない  













死蝋化した骸を思わせる粘ついた月と鋲のような星々が食い込んだタールみたいな黒が
呪詛のようなリズムで這いずるやつらの頭上にぶら下がってる
駅前のコーヒーハウスで飲み干した自家焙煎にはまるで無関心で
新しい靴のつま先の汚れを気にしてばかりいる
ほんの数時間前ドラッグストアの前で刺殺事件があったって
被害者は「会ったこともない若い男だった」って何度か繰り返してこと切れたって
砂金を掘ってるような目をした警官が俺を呼び止めてそんなことを話したんだ
「今日はずっとこの辺りにおられたのですか?」って聞くもんだから
「まあね、ちょっとね」と答えていくつかの質問に答えた
結果的に俺は被害者が誰かなんてまるで判らなかったし
数人に電話をかければアリバイなんて簡単に証明出来たから
脈のないお見合いみたいに話はたいして盛り上がらなかった
「失礼しました」と警官は帽子を脱いで頭を下げた
そうすると彼は凄く若いみたいに見えた
べつに急いでいないし、と笑いながら俺は彼を労った
大変ですね、なんて白々しいことは言わなかったけれど
今日日の街中で警官が大変な思いをしていなかったらこの辺りは死体だらけだ
軽い会釈をして警官と別れたあと
表通りが嫌になって適当なところで路地に入り込んだ
街灯など数えるほどもないその路地を通るのは四年ぶりくらいだった
いつからだろう、明かりのない道を歩くことが心地よく感じられるようになったのは
ちゃんと思い出すと余計な記憶を時間の墓場から引きずり出しそうな気がして
それ以上そのことについて考えるのは止めにした
古い石敷きの路面はもとがどれくらいのサイズだったのかも判らないほどに砕けて
スニーカーのソールの下で大仰な装飾品のような音を立てた
暗闇に装飾品、そんな意味のないフレーズを頭の中で呟いて
この路地を出たらどこへ向かおうかと思案していると
先の暗がりから友達が歩いてきた
数年前に喧嘩別れしたままになっていたやつだった
「久しぶりだね」とそいつが言った、昔のことなどもう忘れたという調子で
「そうだね」と俺も言った
それから少しの間俺たちは並んで暗闇を歩いた
「向こうに用事があるんじゃなかったのか?」俺がそう尋ねると
友達はぷっと吹き出してこう答えた
「用事なんか抱えてたらこんなところ通らないよ」
簡潔に表通りを歩くよ、と友達は付け足した、俺はそのフレーズが凄く気に入った
「簡潔に、ね」「簡潔にさ」
それからまた少しの間二人とも黙って歩いていた、俺たちは昔からそういう感じだった
「なんでまたこんなところを歩いていたんだ?」今度は友達が俺に聞いた
散歩をしていて、と俺は答えた「コーヒーが飲みたくなって…そのあとは気まぐれさ」
「そうか」と友達は答えた
「警察がたくさんうろついてるのを見なかったか?」友達が質問を続けた
ああ、と俺は答えた「見たよ、呼び止められていろいろ聞かれた」「俺もだ」
「何度も何度も刺されたらしいよ」友達はそう言いながら顔をしかめた
「通り魔なのかね」「きっとそうだろうね」
それから俺たちはまた黙って歩いた、路地を出たところで俺は少し立ち止まった、どうしたんだ、と友達が聞いた
「このあとどうするのか決まっていないんだ」俺がそういうと友達は鼻で笑った
「相変わらずだな」俺は苦笑して肯定した「俺はなんだか急に疲れが出た」と友達が言った
「このまま家に帰って、シャワーを浴びて眠ることにするよ」
それがいい、と俺は言った
「俺につきあってたら何時になるか判らないからな」俺がそう言うと友達は快活に笑った
それでそのまま路地の出口で俺たちは別れた
本当に疲れているのか友達は凄く急いだ感じで駅の方に走って行った
「ゆっくり休むといい」見送りながら俺はそんなことを呟いた
夜の街に溢れる連中はどこか、嘘ごとを何とかして信じ続けようとしているみたいに見える
自動販売機で炭酸飲料を買って、時間をかけて飲み干した、すれ違うやつらの目は、夜の闇に半分隠れて
どんなものを見つめているのか釈然としなかった
このまま街の外れの川まで行って、しばらくのんびりしようと思った
たとえば明かりが少なくても、もしこの空が月も星もないようなときでも
どういうわけか川の流れははっきりと感じることが出来る
河原の一角にある、寂れた公園の軋むブランコに腰を下ろして
友達のギラついた目を思い出していた
柔らかな風が吹く
寝床に戻るまでにはもうしばらくかかるだろう












0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ