冷たい七面鳥  














滑落した真夜中の亀裂の底辺に横たわり
衝撃の中で朧げな幻想を見ていた
ままならない肉体のどこか入り組んだ場所で
仕切り直しよりもシャットダウンが要求されていた
そこは氷山の中心のように堅牢で
あらゆる存在は存在し続ける以上の意味はなかった
ある意味でそれは現実という世界の
もっとも理解し易い抽象画のようなものだった
ビートルズが流れていた
ジョージ・マーティンが切り貼りしたアルバムさ
その余韻がまだ続いていた
欠伸交じりのギターが泣いていたところだった
音楽は要らないもの、だから必要とされる
俺は架空の氷山の内壁に
思いついたフレーズを彫り残した


天井裏でカタカタと
緩んだ木枠を鳴らして遊んでいた子鼠は
俺の気配が突然消えたことに気づいて
なぜか声を潜めて親鼠を呼んだ
「それは現実じゃない」と親鼠は髭を揺らせて
「現実に在ったことではないがリアルなものだ」
「現実にはないがリアル」と子鼠は復唱した
「わからない」親鼠は頷いた
「私にも詳しいことはわからん」「だが人間にはそういうことがあるらしい」
「そうなんだ」子鼠は眉を潜めた
「人間っていちいちややこしいんだね」親鼠は微笑んだ
「ああ、でもそういう人間はごく一部だ」「そうなの?」
「そうだ、ほとんどの人間は我々と同じような毎日を生きているよ…食事をし、排泄し、繁殖をし、寝て、起きる―そういう毎日を繰り返す」
「同じだ」
「そう、同じなんだ、同じ動物だからね」「でも」
「そうじゃない人間が新しいものを作り出すんだ」


氷山なんかに例えるべきじゃなかった、温度は時の経過と比例するかのように下がって行った、部屋着の俺は両腕で身体を抱いてどうにかやり過ごそうとした、だが、それがいつまで続くのか見当もつかなかったし、そもそもここがどういう場所なのかまるでわからなかった…ただひとつ断言出来ることは、その床はとても滑らかで引っかかりひとつ無かった―滑落のダメージはとうになくなっていた―けれどそんな感触が無意識のうちに氷山なんてものを連想させたのだろう…俺は眠くなり始めていた、そもそも寝支度を始めていたところだったのだ、件のアルバムは寝物語にゃ最適なんだ…


「彼はいまどこに居るの?もちろん、現実的には、ということじゃなくて」
「わかりやすく言えば、彼らが心と呼んでいるものの中に居る」
「心」「テレビで流れてる歌の中によく出てくる言葉だね」
「そうだ、でもあれは本当の意味での心ではない」「でもそれを使うととても話が早い」
子鼠は鼻を鳴らした「人間って、なんか気に入らない」
「そうだね、人間にはほんとのことはあまりない」「日常というものが基準になると、嘘でもなんでも正しいということになる」
「どういうこと?」
「清潔な布で汚れたものを隠す、それが彼らの規律でありモラルなんだ」「もちろんほとんどの人間において、ということだけどね」


朦朧とした意識の中で俺は、二十年くらい前に住んでいたロフト付きワンルームの部屋を思い出していた、越してきた当初からエアコンの水漏れがひどくて、エアコンの下に並べていたCDのほとんどがずぶ濡れになってブックレットが駄目になった、不動産屋に相談して修理費を折半という形で業者を呼んだ―排水パイプの中に昆虫の死骸が詰まっていた、あの日、すべてが片付いてから動かした時のエアコンの風―あれはとんでもなく快適だった、俺はそれから数日をほとんど部屋から出ることなく過ごした、いろいろあってその部屋はそれからすぐに引き払ったけれど、思えばいまもそこからあまり遠くないところに住んでいる―俺は自分が死にかけていることがわかった、それがこの、現実とも幻覚ともつかない世界の中でのことなのか、それとも生体としての完全な終わりなのかという部分についてはなんとも言えなかったけれど、とにかく死にかけていた、体温はすっかり失われて、歯の根が合わなかった、こむら返りのように全身が突っ張り、あらゆる筋が音を立てて切れるのではないかというほどに伸び切っていた


「そこは怖いところなの?」
「そうだね、怖いよ」「人間が持ちうるものの中で一番怖いものだよ」
「バネの罠より怖い?」「バネの罠より怖いよ」
子鼠は震えた
「罠なら怪我をするだけで済む」「そのために死ぬようなことはあまりない」「でも心の中で死ぬと現実的にも死んでしまう」「あるいは死んだも同然というような状態になってしまう」
子鼠はますます怯えながら言った「人間はどうしてそんな怖いものを持っているの?」
「我々が人間に近しい動物、猫や犬を恐れるように」親鼠はこの説明は適当ではないかもしれないと思いながらそれでも話し続けた「人間は生命というものを恐れている」「私が思うに彼らは、自分の中の動物的な部分とどう折り合いをつけたらいいのかわからないのだろう」「彼らは自分たちの世界を絶対だと思い過ぎる」
「わけがわからないよ」「それなのにどうして彼らはあんなに独善的なのさ?」
「たぶん」「彼ら自身だってそんなことには自覚的じゃないよ、私はそう思うね」親鼠は天井裏の僅かな隙間から下を眺めた「さて」「そろそろなんとかしてあげなくちゃいけないな」
親鼠は二、三度同じ場所で跳ねて調子をつけると、物凄い勢いであちこちを走り回った、子鼠も本能的にあとに続いた


俺は滑落した姿勢のままで寝床に帰ってきた、ジョン・レノンが核分裂のシステムを解説しているみたいな態度で聴き慣れたメロディーを歌っていた、俺は仰向けになってしばらく天井を見上げた、両手を開いたり閉じたりして思い通りに動くかどうか確かめた、そうして携帯のアラームのセットを確かめて眠りに落ちた、ジョージ・マーティンのアルバムはやはり眠るための音楽としては最高の出来だった





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生き続けろ、ひとつの言葉がひとつのことだけを語っているわけじゃない  















駱駝の玩具の背に本物のナイフ、飾り柄にいつかの血の記憶、縁の欠けたマグカップの中にはつがいの蝿の死体、それはあまりにも語れない、形を残す時間が短過ぎて…手を取って、ここから離れてゆくすべてのもののために、愚直な祈りとあまりにも乱雑な純粋、あらゆる信仰が指し示す先はどこともつかない方向ばかりで―手を洗っている間にいくつものことが思い出されては消えて行く、遠い昔に死んだ級友の記憶みたいに、排水口に俺の死んだ皮膚が引っかかっている…切れかけた蛍光灯は地下室を連想させる、昨日止んだ雨のにおい―御伽噺のようなものだったことがそう遠くない未来として考えられる瞬間に、腕時計の文字盤が意味を成さなくなるわけは…ハンドルを握り続けたロック・ワグラムの焦燥、駆け抜けてきた背後の砂漠を舞う砂煙は、きっと、人生そのもののように思えたに違いない、スラップするベース、死後硬直のようなプログラムされたリズム―色のない月は欲望を飲み込んでいく、女は呆けた顔をしてそれを見上げている、青い夜、いつか誰かが形容したそんな言葉が脳裏に浮かぶ、失われたアドレスにアクセスし続けるのはやめた方がいい、その先にあるコンタクトは惨酷なほど冷たいに違いない…毛足の長いカーペットのなかに隠れた落とした錠剤、化石のように変化していく、薄っぺらい液晶テレビの画面の中では連行されていく誰かの伏し目がちな様子、罪はたまたま罪だったということもある―非通知の着信を三度無視して、眠るための準備をするのにいまがどれだけ適当かということについて考える、答えは出ない―そういう問題についてはまともな答えが出たためしがない…きっと、そんな風に考えてしまう時点でそれは適当ではないのだろう、ボーカリストはマイクから少し離れたところで歌っている、不味い入れ方をしたインスタントコーヒー、今日を葬るにはそんなものの方が良い、熱いうちに流し込む、焼け焦げていく消化器官…どこかの部屋から聞こえる異国のドラマの性急な台詞回し―異なるリズムは噛み合わないってたいていの人間は考えてしまうけれど…風が年老いた壁を叩いている、インプロヴィゼイション・ジャズのような極端な抑揚、ノイズが欲しいな、空になったマグカップの中にそんな呟きを落として、ボロボロの歯を労わるようにブラシを当てた、一昨日の抜歯の跡には未だ微かな違和感…眠るための挨拶は短いさよなら、暖かい夜でも用意したばかりの寝床は冷たい、注意しておくんだよ、夢を見過ぎた朝には目覚めた瞬間こそが嘘に思えるものだ…人を殺す夢をよく見る、あらゆる種類の手段で―その瞬間に力を失くしていく肉塊の感触がたまらなく好きだ、おっと…勘違いするなよ、これは現実の感覚ではなく、そして現実の願望でももちろんない、ただ、そんな夢を見ることがあるっていうだけの話だ―積まれたコミックと崩れ落ちた小説、彼らが俺の中に埋め込んだ種が発芽する夜には、こうしてとりとめもなくイメージを羅列していくのさ―それは俺のなかの釈然としない感情をデフラグする、多少アクセスしやすくして、適度に朧げに理解出来るように促してくれる…詩人は言葉に頼り過ぎるし、格闘家は拳を信じ過ぎる―俺の話すことにはとりとめがない、けれど、そこに何もないわけじゃない…真実はフレーバーのようにしか存在しないものだ―回転を繰り返すディスク、聴き慣れたフレーズはいつも同じように聴こえるわけじゃない、認識や感覚の僅かな誤差、そいつはたまらなく刺激的に脳髄を腫らしていく、生き続けろ、ひとつの言葉がひとつのことだけを語っているわけじゃないと…摩耗していく肉体に新しい血液を送り込む、書き続けるからには易々と目を閉じることは許されない―爪切りと耳掻きと綿棒、床に転がるすべてを隅にまとめて、眠る前にフレーズの闇の奥へと繰り出していく、もう少し書き進めようか、もう少し手ごたえを得るまで…道化に化けるまでにはまだ少し時間がある、俺は俺自身をハチの巣にするためのマシンガンを持っている、弾は腐るほどある―そして、吹き飛ばすべき愚かしい塵も…銃声が轟いたら目を見開くんだ、俺の血飛沫は鮮やかにデジタルに飛散するだろう、空の薬莢が欲しいならいくらでも好きなだけ取っていきなよ、すこしも遠慮なんかしなくて構わない、衝動の過去に過ぎないそんなもの、俺は爪の先ほども欲しいなんて思わないからさ…。













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オルタネイト・ピッキングの幻想  









歪んだ頭蓋骨は陳列され、天井のひと隅から滴る雨水は床に暗示的な不協和音を作り出す、お前の罪の名をその情景に添えよう、次に来た誰かが腐肉の臭いを飲み込まずに済むように…黒猫がひとつ、自分の毛並みを整えるたびにアドレス帳から誰かが削除されていく、その空白は夜とも明けがたともつかない時間に垣間見る夢のように覚束ない、飲料水の押しつけがましい潤い、まるで喉が蛍光ペンキで塗り潰されていくみたいだ、それでもきっと、それでもきっと―カラカラに渇いてしまうよりはマシに違いない、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの足音、ひとつ教えといてやろう、夢が覚めるときに自分を疑ってはいけない…雨降りと快晴が交互に訪れる今週、人々は傘と良くない遊びの予定を次々と持ち替えながら、いつかは希望だったそれを街路の片隅に嘔吐してゆく、悲しい…あまりにも悲しい慰安の光景だ、間抜け過ぎて笑う気にもならない―誰かがずっとポエトリーリーディングを繰り返している、ただのリズムになりたがっているような性急な言葉遊びからは、いつしか血痰が絡む音が混じり始める、おお、誰某ともわからないあいつは今初めて詩になろうとしているのだ、木の幹に齧りついた幼虫が生命力のほとんどをつぎ込んで脱皮を目論むかのように…痛みや、苦しみや、悲しみがなければ、喜びも訪れない、逆もまた然りだ、どちらかを取ろうとするやつらが多過ぎる、その境界線すらどこなのか定かではないというのに!それが果たしていつも、たったひとつのものなのかすらわからないというのに―!結論は重要ではない、結論は決して重要ではない、躍起になって求めてきた昔がお前にもしもあるのなら俺の言っていることは容易く理解出来るだろう、俺はそれについて口にすることを億劫には思わない、何度だって繰り返してみせよう、お前がそれをはっきりと理解することが出来るまで…飾り棚には埃によって白く変色した実験器具がある、ビーカーにフラスコ―底には僅かながら、いつかに試された薬品の名残がある、薄暗いガラスの中で、彼らはなにがしかの結論の欠片を抱いたまま、そんなことには何の意味もなかったと誰かが口にするまで静かに待っているだろう、この世に生まれたものたちはそれが人であろうが物であろうが、みんなそれぞれのやりかたで終わりを待っているのだ、記される文章は死ぬまでの暇潰しだ、頭蓋骨がカラカラと笑う、俺はそのリズムを譜面に書き起こす、いまではあまり見かけることもなくなった濁ったガラスの窓から差し込む光が、空気中に漂う塵をぴんと張られた糸のように照らしている、ポエトリーリーディングはもう内臓を吐き散らす音のみになって、通ぶった何人かの連中がそれに喝采を送っている、アドレセンス!俺はタチの悪い冗談を言う、でも誰もそんなことは気にしたりしない、もしかしたら理解出来ないのかもしれない、俺は脚を組みなおして、天井の雨垂れを眺める、もう止んだのだろうか、光が少し強くなった気がする、でも例えば窓を開けて、それを確かめるようなことはしない、それがどちらかなんていまの俺にはまるで関係がないことだ、ふと、天井の雨漏りの原因を確かめてみようかなんていう気になって、ストールを持ち出して雨漏りのする辺りを押してみる、長いことそれは続いていたのか、すっかり脆くなっていた、泣き言のような音を立てながらそれは少しずつ床に降りそそいだ、そうして…ほんの少し明かりが差し込んだ天井裏には、頭蓋骨がひとつ転がっていた、誰かが天井裏に忍び込んで、そこで尽き果てたのだろうか、俺にはなぜかそうとは思えなかった、だとしてもそんなことで死んだ理由にはならないし、第一その頭蓋骨には妙な親近感を感じた…俺は頭蓋骨を手に取ってストールを下り、机の上のスタンドをつけてまじまじと眺めてみた―その歯の並びには見覚えがあった、頭の形にも…眼窩の奥に潜んでいる結晶化した薄暗い感情にも…「これは俺のものだ」俺は両手でそれを捧げ上げてそう叫んだ、陳列されている頭蓋骨がカタカタと笑った、俺は頭蓋骨を机に置き、床に寝転んだ、運動場の砂のように埃が舞い上がり、しばらくの間咽込んだ、あれは俺のものだ、と、俺はもう一度繰り返した、理由はわからないが、それはそういうことになっていたのだ、そうとしか思えなかった、俺はいろいろなことが楽になったような気がした、天井の雨漏りはいまやあらゆる場所へと広がっていた、あらゆる場所から雨が落ちて来ていた、でも雨の音なんかもう聞こえていなかった、唇の端に落ちたそれをなめると、錆びた鉄のような味がした、頭蓋骨は笑うことを止めて、俺の動向を注意深く見つめている。






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