2019/3/25

冷たい七面鳥  














滑落した真夜中の亀裂の底辺に横たわり
衝撃の中で朧げな幻想を見ていた
ままならない肉体のどこか入り組んだ場所で
仕切り直しよりもシャットダウンが要求されていた
そこは氷山の中心のように堅牢で
あらゆる存在は存在し続ける以上の意味はなかった
ある意味でそれは現実という世界の
もっとも理解し易い抽象画のようなものだった
ビートルズが流れていた
ジョージ・マーティンが切り貼りしたアルバムさ
その余韻がまだ続いていた
欠伸交じりのギターが泣いていたところだった
音楽は要らないもの、だから必要とされる
俺は架空の氷山の内壁に
思いついたフレーズを彫り残した


天井裏でカタカタと
緩んだ木枠を鳴らして遊んでいた子鼠は
俺の気配が突然消えたことに気づいて
なぜか声を潜めて親鼠を呼んだ
「それは現実じゃない」と親鼠は髭を揺らせて
「現実に在ったことではないがリアルなものだ」
「現実にはないがリアル」と子鼠は復唱した
「わからない」親鼠は頷いた
「私にも詳しいことはわからん」「だが人間にはそういうことがあるらしい」
「そうなんだ」子鼠は眉を潜めた
「人間っていちいちややこしいんだね」親鼠は微笑んだ
「ああ、でもそういう人間はごく一部だ」「そうなの?」
「そうだ、ほとんどの人間は我々と同じような毎日を生きているよ…食事をし、排泄し、繁殖をし、寝て、起きる―そういう毎日を繰り返す」
「同じだ」
「そう、同じなんだ、同じ動物だからね」「でも」
「そうじゃない人間が新しいものを作り出すんだ」


氷山なんかに例えるべきじゃなかった、温度は時の経過と比例するかのように下がって行った、部屋着の俺は両腕で身体を抱いてどうにかやり過ごそうとした、だが、それがいつまで続くのか見当もつかなかったし、そもそもここがどういう場所なのかまるでわからなかった…ただひとつ断言出来ることは、その床はとても滑らかで引っかかりひとつ無かった―滑落のダメージはとうになくなっていた―けれどそんな感触が無意識のうちに氷山なんてものを連想させたのだろう…俺は眠くなり始めていた、そもそも寝支度を始めていたところだったのだ、件のアルバムは寝物語にゃ最適なんだ…


「彼はいまどこに居るの?もちろん、現実的には、ということじゃなくて」
「わかりやすく言えば、彼らが心と呼んでいるものの中に居る」
「心」「テレビで流れてる歌の中によく出てくる言葉だね」
「そうだ、でもあれは本当の意味での心ではない」「でもそれを使うととても話が早い」
子鼠は鼻を鳴らした「人間って、なんか気に入らない」
「そうだね、人間にはほんとのことはあまりない」「日常というものが基準になると、嘘でもなんでも正しいということになる」
「どういうこと?」
「清潔な布で汚れたものを隠す、それが彼らの規律でありモラルなんだ」「もちろんほとんどの人間において、ということだけどね」


朦朧とした意識の中で俺は、二十年くらい前に住んでいたロフト付きワンルームの部屋を思い出していた、越してきた当初からエアコンの水漏れがひどくて、エアコンの下に並べていたCDのほとんどがずぶ濡れになってブックレットが駄目になった、不動産屋に相談して修理費を折半という形で業者を呼んだ―排水パイプの中に昆虫の死骸が詰まっていた、あの日、すべてが片付いてから動かした時のエアコンの風―あれはとんでもなく快適だった、俺はそれから数日をほとんど部屋から出ることなく過ごした、いろいろあってその部屋はそれからすぐに引き払ったけれど、思えばいまもそこからあまり遠くないところに住んでいる―俺は自分が死にかけていることがわかった、それがこの、現実とも幻覚ともつかない世界の中でのことなのか、それとも生体としての完全な終わりなのかという部分についてはなんとも言えなかったけれど、とにかく死にかけていた、体温はすっかり失われて、歯の根が合わなかった、こむら返りのように全身が突っ張り、あらゆる筋が音を立てて切れるのではないかというほどに伸び切っていた


「そこは怖いところなの?」
「そうだね、怖いよ」「人間が持ちうるものの中で一番怖いものだよ」
「バネの罠より怖い?」「バネの罠より怖いよ」
子鼠は震えた
「罠なら怪我をするだけで済む」「そのために死ぬようなことはあまりない」「でも心の中で死ぬと現実的にも死んでしまう」「あるいは死んだも同然というような状態になってしまう」
子鼠はますます怯えながら言った「人間はどうしてそんな怖いものを持っているの?」
「我々が人間に近しい動物、猫や犬を恐れるように」親鼠はこの説明は適当ではないかもしれないと思いながらそれでも話し続けた「人間は生命というものを恐れている」「私が思うに彼らは、自分の中の動物的な部分とどう折り合いをつけたらいいのかわからないのだろう」「彼らは自分たちの世界を絶対だと思い過ぎる」
「わけがわからないよ」「それなのにどうして彼らはあんなに独善的なのさ?」
「たぶん」「彼ら自身だってそんなことには自覚的じゃないよ、私はそう思うね」親鼠は天井裏の僅かな隙間から下を眺めた「さて」「そろそろなんとかしてあげなくちゃいけないな」
親鼠は二、三度同じ場所で跳ねて調子をつけると、物凄い勢いであちこちを走り回った、子鼠も本能的にあとに続いた


俺は滑落した姿勢のままで寝床に帰ってきた、ジョン・レノンが核分裂のシステムを解説しているみたいな態度で聴き慣れたメロディーを歌っていた、俺は仰向けになってしばらく天井を見上げた、両手を開いたり閉じたりして思い通りに動くかどうか確かめた、そうして携帯のアラームのセットを確かめて眠りに落ちた、ジョージ・マーティンのアルバムはやはり眠るための音楽としては最高の出来だった





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