幽霊の見える日、洗面所の鏡を万遍無く塗り潰して。  


















幽霊の見える日、洗面所の鏡を万遍無く塗り潰して、どこからか忍び込んだ鼠が食い破った洗顔フォームのチューブをごみ箱に投げ込んだ、太陽が顔を見せる時間があまりなかった日、深く息を吸い込んだら黴の臭いを嗅いだ気がした…ディスプレイではミレーヌ・ファルメールが巨大な蜘蛛と戯れている、ティッシュを抜き取って鼻を掃除するとほんの僅かに出血している、別に珍しいことじゃない―冬はとくにそんなふうになることが多い―過ぎてしまえば瞬き程度の一日だった、そしてそれもやはりべつに珍しいことじゃない、強張った手首を折り曲げて野性を思い出そうとする時間の…それとはかけ離れた種類の疲弊、受け入れることと慣れることは同じではない、そうさ、俺はずっとそう考えながら生きている、肉体のことなど放っておけばいい、心が乱れなければ、身体は自然に正しい方を向くように出来ている…「健全な肉体に健全な精神が宿る」ってよく言うだろ―あれは嘘だよ、健全な精神が健全な肉体を作るんだ、それが正解さ―ああ、もちろん、いまさらことわる必要もないかもしれないけれど、俺が口にしている健全っていうのは、世間一般の言う健全とはまるで違う意味だというのは理解しておいて欲しい…ではなにをもって健全というのかって?それはこれを読めば最後にはおのずとわかるようになっているはずさ―多分ね―いや、俺自身、自分がなにを書いているのかなんてろくに理解しちゃいないんだよ、脳味噌と指先に任せっきりでね、はっきりこうだと認識するのはいつも少し経ってからさ…つまり俺は一番それを目にするのが早い俺の読者ってわけだ―なあ、とにもかくにもそれについてやたらと語りたがる連中が居るだろう、そういうの、あんまり好きじゃないんだよな…理屈こねくり回したって自分が綴るもののなにかが変わるわけじゃないだろう、語りたいなら指先で存分に語るべきさ、お喋りはどこでだって疎ましがられるものだろ―まあ、俺なんか喋らな過ぎて疎ましがられてるけどね…しょうがないことさ、俺は自分のためだけの言葉でしか喋れない、なにかこう、虚しくなるんだ、無駄口をきくのはさ―昔はさ、俺だって好きだったよ、こんな理由で書いているんだとか、書くことによってこんなものを手に入れているんだ、とか…だけどある時、それが凄く馬鹿げたことのように思えてね、それからはあまり話さなくなった―多少、酒が入った時以外はね―ほら、ああいうときって、下らない話でも楽しく思えるじゃないか…それはともかく、そうだぜ、どれだけ語ったって、それは本当のことには辿り着かないんだ、即効性を意識するぶんだけ余計かもしれないね、そんなことにはなんの意味もない、それで自分の文章が良くなることも悪くなることもない―だったら黙って言葉を並べている方がいいってことさ…俺は歯を磨いて、寝支度を整えた、一日の休みは決まり事をこなすだけでほとんどが終わってしまう―俺は独り言のように書く、とりとめもないものが好きだ、それは明確なものよりずっといろいろなものが隠れている気がする、いろいろな方向へと感じることが出来る、ひとことで言える答えがないもの、そんなものがいちばんリアルだって感じるんだ、だってそうだろ、さまざまな触覚がなにかを感知する瞬間、それには名前がついてないんだ、のちのち解釈されて、命名されて、分類される…俺は、なにもかも決定されないうちに言葉を投げ出す、出鱈目に投げつけて、おそらくは深層心理からの呼びかけに従い、ひとつの模様になるまでそれを続けるんだ、初めから終わりまで、こんなものがいいような気がする、って、そんな調子で指先を動かしている、直観、という言葉は少し違うかもしれないが、そうした感覚によって並べられた言葉は決して澱むことがない、あらかじめそうなることが決まっていたかのように澄ましてやがるんだ、俺はそういうものを眺めているのが好きなのさ、手のかかる写真だ、色を使わない絵なんだ―なあ、随分前に一度書いたことがあるかもしれない、人は眠っているとき、魂は神のもとに帰って、メンテナンスを受けているって―傲慢に聞こえないように祈りながら言うよ、俺、書いている時にそういうのを感じるんだ、それは神なのか、あるいは俺自身の中にあるなにかなのか、定かじゃないんだけどさ…さて!そろそろ寝る時間だ、アラームを仕掛けて、ほんの少しだけ不自由な眠りにどっぷりと浸かっていくことにするさ…。









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