画用紙の上に散らばっていくクレパス  















閉ざされたままの部屋の、すりガラスの小さな窓のついたキッチンの床に腰を下ろして、目を開けている時に見える夢にうつつを抜かしていた、部屋は隙間風ばかりで寒く、記憶とともに凍てついていて、それはもはやすでに死んだ誰かの生命の残響だった、床には降り始めたばかりの新雪を思わせるくらいの埃が積もっていた、西日がちょうど窓からまっすぐに差し込んでくる時間帯で、そんな床が鮮やかに照らされるとなぜか、幼稚園児のころに玄関で遊んだ名前も思い出せない誰かと過ごした時間を思い出した、そんな無垢な頃のことだけを思い出すことが増えた気がする、たぶんそれは数限りない欠落を繰り返してきたせいなのだろう、思えばイメージにはいつも熱のない景色ばかりがあったような気がする…ここに住んだのは短い間だった、どうして今頃になって来てみようと思ったのか、気まぐれに踊らされて電車を乗り継いで訪ねてみると、ぼろぼろの廃墟になっていた、一階の四部屋はすべてのドアが破られ好き放題に荒らされていたが、外階段が取り外されていたせいで二階は無傷に近い状態だった、どうしてそんな措置がなされたのか理解出来ないが、俺はその措置に感謝した、子供のころに何度か、階段を使わずに二階まで上ったことがあった、そのルートを思い出すことが出来なければ、俺だってここを訪ねることは出来なかっただろう―二階の鍵はすべて開いていた、俺はもうそれを不思議だとも思わなかった、そうして座っていると、数度だけあったことのある隣の部屋の水商売の女のことや、一階の奥、つまりこの部屋の真下にいた半分ボケた老人のことなんかを思い出した、ああ、暮らしていたのだ、と俺はひとりごとを言った、それは、今現在の生活よりもずっとリアルなものに思えた、リアルな暮らしだったように思えた、自由だったからか?それは少し違う、ではなんだ?きっと、リアルな彩がそこにはあったせいだ、ではそれは何故だ?それはたぶんどこの、どんな場所にも俺自身の興味があったせいだ…なんて、そんな表現ですべてを言い尽くせるわけもないことはわかっちゃいるけれど…どんなことをしていたのだろう?特別意思も意向もあったわけではないだろう、動物のように、目に映るものすべてを触れたりかじったりしていただけだ、勘違いしないで欲しい、あの頃は良かったななんて話じゃない、どちらかといえば、それはいったいどこへ行ってしまったのか、という疑問符のようなものだ―特別成長や老化などを感じたことはない、むしろ自分自身の根幹はほとんど変わっていない気がした、分別だのなんだのと余計なものがくっついただけだ、それでも、記憶と呼ぶにはあまりにも曖昧なイメージしかなかったし、必死で思い出そうとしたところで思い出せることなどそんなにはなかった、原因は忘れたけれど、二階から一階へと外階段を下りる時に一度転がり落ちたことがあったななんて、そんなことばかりだ、そのころの俺は俺自身であったはずなのに、すでに俺自身から切り離されているように思えた、それが良いことなのか、悪いことなのかもよくわからなかった、そして、俺自身がいったい誰なのかも…そんなもの、滾々と考えたらわかるやつなんて居ないのかもしれないけれど…じゃなけりゃ本屋にあんなにセラピーの本が並んでるわけはない―西日は夕暮れに変わり始めていた、そういえば、と俺は思い出した、ここに住んでいたころは夕暮れが怖くて、早いうちから電気をつけていたことを…怖がりだって両親には笑われた、でもそれは違うんだよな、と今は思う、そんなことが怖く思えるくらい、他に怖いものがなかったのだ、それは間違いない、きっとあの時の俺よりも、親父やお袋のほうがずっと怖がりだったはずだ、そうじゃなきゃおかしいさ、親父―親父が死んでからもう何年経つ?喉を癌細胞に占拠されて、目を見開いたまま天井を見つめていた、なにを見ていたんだろうか、死ぬのは怖かっただろうか、それとももう、怖いことなんかなくなっていただろうか、悲しいだけだっただろうか、それともそのすべては、まだ生きていかなくちゃいけないやつらがくっつける戯言だろうか―そういえば、そんな死のことも長いこと思い出さなかった、まるで記憶を波打ち際にさらしているみたいだ、思い出す、忘れる、そんなことに重要かどうかなんてことは関係がない、海の指先が触れたところから遠く深いどこかへと運び去られてゆく、近頃巷じゃ明るく元気にポジティブに、清く正しく美しくなんて生き方がやたらと重宝されている、俺はそれが嫌いだ、それは人生を、人間を馬鹿にしているように思える、すべてを見つめ、受け止めて生きるからこその人間なのだ、なぜ清い心だけが生きる力のような言い方をする?「馬鹿馬鹿しい」思わず口をついて出る、そして初めて夜が訪れていることに気づく、俺は部屋を出る、もう来ることもないだろう、気まぐれはただの気まぐれだった、表通りに出て歩き始めたとき、二階の外廊下がすこし軋んだような音を立てた、それはもしかしたらさよならの挨拶だったかもしれない、でも俺にとってはそれがなんであろうと大した意味はなかった、晩飯はなににしようか、ぼんやりと考えながら、俺はまず眠る場所を探すことに決めた。







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血塗れの船で果てしない海を渡れ  













老いた肉食獣の牙のみで作られた寝台に横たわり、遺伝子に染みついた生温かい血の記憶を弄っていると、脳味噌の隙間に瞬く光がある、針の先のような小さなそれは、けれど深くまで届くような鋭さも感じさせる、俺には理由などない、欲望は全うすることについてだけ、肉体に走る電流をイマジネイションとして捕らえるだけ、そいつを記録して、この世で最高の無用の長物を作り上げるのさ、それは確かに俺の生活を侵食する、ノーマルを犯してキチガイ沙汰を植え付ける、禍々しいグラデーションの中、俺は心を乱すことなく、そいつが教えてくれることをまた書き留めるのさ、昨夜の食事には満足出来たかい?ハイもイイエも要らない、答えなんてあてにならないものさ、俺が考えることはただひとつ、リズムを壊さないなにかを代わりに当てはめるだけ、それでたいていのことは真理のように輝いて見える、意味は考えないところからだけやってくる、無意識の思考の邪魔をするべきじゃないよ、そのことだけは少し声高に言っておきたいんだ、何の為にそれに手を付けたのか?認識出来ない領域の手掛かりを掴むためじゃないか?指先が動くままに任せておくことだ、綴ることを止めるな、意味は理由はあとからついて来るものだ、そうして見る夢はとても鮮やかな色をしているよ、原色の美しさじゃない、すべての色が巧妙に交じり合ったちょっと例えられないコントラストさ、見るものによっては吐気をもよおすような色味かもしれない、だけど俺にはいつだってそれは最高の色合いに見えるぜ、いつだってね…現世は―なんて、いまじゃ真面目に口にするのもこっぱずかしい有名な一節があるじゃないか、だけどあれは確かによく出来た言葉に思えるよ、現実なんてどこにある?お手軽にそこに在るだけのものだけにどうしてそんな仰々しい表現をかぶせなくちゃいけない?おそらくそれは多数決と同じ原理さ、日和るやつらの結論は概ね愚かしいとしたものだ、どんな世界に放り出されようが、そこにどんな社会が機能していようが、感覚が捕らえるものだけが真実だ、その中に隠れているものが真理だ、そう思わないか?いや、そう思えなくたって別に構わないけどね…いや、こう聞いてみようか、そう思っていけない理由について考えてみたことがあるか―?教えてやろうか、不特定多数という曖昧で強固な自意識は他所へ行こうとする誰かの足を引っ張るのが得意なんだ、列を乱すな、きちんと並べ、ってなもんさ、まったくあいつらは、いつになったら卒業出来るんだろうね?首に縄付けて引っ張ってもらわないと朝飯すらひとりで食えやしないんだ、俺はそんなやつらを鼻で笑いながら、自分だけの遊戯にのめり込む、どんな手段を使おうと、そこには俺の名前が書いてある…そいつを受け取りに来る数奇な連中だって、俺の名前を当てにしている、俺はだから、なにか面白いことをしようといつも目論んでいるというわけさ…ところで、面白いことなんてこの世の中にはそうそうありはしない、だから、同じことをずっと続けてしまう前に少し視点を変えてみるんだ、そうするともう一度同じことをしたときにも新しい発見がある、俺はさ、やり続けるってそういうことだと思うんだよな、スタイルっていうのは結局イメージに過ぎないんだよ、スタンスは限定されるべきじゃないんだ、一本の木に一本の枝だけが生えるわけじゃない、そうだろ?様々な方向に、様々な意味を持って伸びる枝がある、そして、それらのすべてで呼吸をしているんだ、そのすべてが現実であり、そのすべてがそいつ自身だ…俺の言ってることわかるか?逸脱を怖がるなよ、軸がブレない限りそれはお前のものだ、意識にはリーチがない、どんな遠くだって届かせることが出来る、それが詩ってもんなんだ、湾曲しても、どこかで裂けても、ひとつだけあらぬ方向へ飛び出したって…お前自身がしっかり立っていればお前というひとりの人間に見えるのさ、どんなに脇道に逸れても、寄道を繰り返しても―歩いたあとで振り返ればたった一本の道ってことだ―肉食獣の牙は突然に記憶を取り戻し、俺のマットレスを滴るほどの血で汚した、俺は血に塗れながら高笑いする、これが詩だ―これが詩なんだ。






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今夜、この砂浜に座って  



















亡骸の幻影を抱いて
流木の間を
記憶を縫い取るように歩く

靴底を受け止める
砂浜の感触は優しく
けれど
優しさというのは
時折
無関心と同じで

巡回機のようなカモメたち
薄曇りの空を

波はアルペジオの静寂
抜き取られた鎮魂歌の小節
棺の中には誰も眠ってはいなかった

もしも世界に
もっとも正しい時の基準というものが在るなら
それは満ち引きに違いないだろう

わたしたちは呼吸をする
だけどそのことを知らない
感覚が衰え
些事に追われることに慣れている

幾人かを見送ったあと
わたしは
胎内に焦がれるようになった
それは逃避や
母への思いとは
また
違うもので

わたしはきっと
わたしを取り戻したい
波のように
適切なリズムで

目覚まし時計をすべて止めたって
同じ時間に目覚めることが出来るだろう
カレンダーの日付に
予定を書き込むこともやめにする
忘れてしまうことなんて
本当はそんなにないのだもの

宛先のない手紙なら
一番素直になれるでしょう
マイクの前に立つことがなければ
本当の声で歌えるはずでしょう

そんなことを忘れて
わたしたちはしょっちゅううそつきになる
虚飾に満ちた文章を書いたり
レベルメーターで得られる迫力をひけらかしてしまう
目を開けて
耳を澄まして
何を話そうとしているのか
もう一度
ゆっくりと考えてみて

わたしはわたしを取り戻したい
いちどもここにいたことがないわたし
けれど確かにわたしが知っているわたし

話すことは上手くない
歌うことも
聞くことも
でも大事なのはそんなことじゃない

いまは薄曇りで
夜には雨になるらしい
でもわたしは月が見たい
今夜、この砂浜に座って

びしょ濡れになってもかまわない
どうかわたしに傘を差し出さないで








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