愚かさの取り分  


























こと切れそうな灯りが、埃の海に飲み込まれそうな木の床を探している
流れているジャズはスローで、消えないものに心をこだわらせる
まばたきのつもりだったのに眠っていたのか、そんな判断もつかないほど
現在は曖昧で、一枚板の分厚いテーブルの上でグラスの滴りに濡れている
週末の夜に街路を賑わせていたのは雨粒だけだった、俺は傘を探して
最早家に帰るのも面倒なくらいにくたびれ果ててしまった、タクシーは
濡れ鼠など相手にしないで恵んでくれそうななりのやつに媚びるような速度で近付く
酔いは最も針を当てられたダーツの的のように途切れがちで、無意味な痛みとすり替わる
どうせならシャンソンにしてくれればいいのに、こんな夜に流れる音楽は
そうすればすべては舞台の上の出来事みたいに思えるだろう、少なくともいまよりは
ささやかな週末の夜にだって叶わないことのひとつやふたつはあるものさ
問題なのはもうそれにイラつくことすらなくなった自分自身の腹かもしれない
死んだ魚が川を流れるような毎日がいつか幸せにつながるかもしれないと
売り上げの為に慰めてくれる歌たちは言ってるけど、笑わせるんじゃないよ
誰かの戯言を鵜呑みにして生きる理由にするようじゃ始める前から終わってる
気づかぬうちにグラスの底をテーブルでカタカタと鳴らしていた、結構やかましく
隣に座っていた汚い肌の中年の男が俺を見ながら舌打ちをする、お前俺より臭いけれどな
俺が鼻で笑うとそいつは椅子を蹴飛ばしながら立ち上がって向かってこようとする
修行僧のようにグラスを拭き続けていたバーテンが顔を上げてこちらを見る
どちらに原因があるのか出来るだけ早く突き止めようとしているかのような冷たい目で
「よう」男は俺の側で見た目ほどにはでかくない声で凄む「なめてんのかい」
俺は黙って首を横に振る、それからグラスに残った酒を飲みほす、氷が小さな音を立てる
男はそのグラスを手で払い落す、グラスは床で幾つかの欠片に分かれる、俺は立ち上がる
「やんのかよ」と男は年甲斐もない口調で言う、俺は黙って立ったままそいつを見ている
「黙ってないでなんとか言え、ビビってんのか?」とこれまたよくあるやつ
俺は漫画で覚えた中国語を喋る、確か、「この包茎野郎」とかいった意味の
男はポカンとする、一瞬怒りやいらだちが消え失せた顔になる、俺はもう一度繰り返す
「チャイニーズか?」違うよ、と俺は答える、男はまたポカンとしたあと、ブチ切れる
ふざけるな、と大ぶりのパンチ、言葉と動作が連動している、交わすのは簡単
男のパンチが空を切ったタイミングで俺はそいつの膝の下あたりを軽く蹴る
男はバランスを崩してテーブルを巻き込みながら床に倒れる、「おいおい、大丈夫か?」
俺はバーテンの方を見る「だいぶ酔ってるみたいだ」バーテンは困ったように笑う
「散らかしちゃってすまないね」と俺は彼に詫びる、バーテンは黙って首を横に振る
「お代は結構です、その男が目を覚ます前にお帰り願えませんか」わかった、と俺は答える
雨はずいぶんと大人しくなっていた、酔いを醒ますのにちょうどいいくらいの雨だ
店から少し離れたところでドアの開く音が聞こえ、さっきの男が何かを叫んでいる
「待てよ、てめえ」俺はバイバーイと茶目っ気のある仕草をして、一番近い路地へ駆け込む
男が物凄い靴音を立てながらこちらへ向かって走ってくる、殺してやるとか言っている
この路地は入ってすぐに隠れるのに持ってこいの窪みがある、俺はそこへ隠れて
男の影が見えたタイミングで足を差し出す、男はそれに躓いてまた転ぶ
やれやれと俺は窪みから抜け出して男の様子を見る、ぴくりとも動かない…様子が変だ
男の体を裏返してみると、どうやら倒れた先に割れたビール瓶があったらしく
喉の部分にビール瓶の底ががっちりとはまり込んでいた、致命傷なのは明らかだった
俺は表通りには戻らずにそのまま路地を抜けて、人気のない通りを歩いて帰った
住処に戻る頃には午前三時になっていた、すぐにシャワーを浴びて気分を変えた
別に殺したつもりはなかったし、罪悪感というよりは正直爽快感が勝っていた
あの店のマスターは警察に俺の話をするだろうか?あまり心配することじゃない気がした
からまれたのは俺の方だし、警察があの店までたどり着くこともないだろう
俺はすぐにそのことを忘れた、短い眠りが中断されることもまるでなかった
まあ、いろいろと、異論反論はあるだろうけど…愉快な一夜にゃ違いなかったよ
来週の夜まではちょっと楽しい気分で過ごせるかもしれないね、だけど
こんな季節だし傘ぐらいは用意して出歩いたほうがいいみたいだぜ















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ショー・マスト・ゴー・オン(脚本がすでに失われていても)  












アーモンドチョコレートとストレートティ
夜のストレンジャーとカム・ダンス・ウィズミー
バス停でその日最後の長距離便を待っていた僕らは
見すぼらしくも誇らしい二人の子鼠だった

丸一日、あれこれと乗り継いで
腰をおかしくしながら辿り着いた憧れの街は
妙な色のスーツを着たチンピラと
股が痛くなりそうなショートパンツを穿いた売春婦だらけの世界
安アパートに転がり込んで
皿洗いと給仕に精を出しながら
ミュージカルのオーディションをいくつも受けた
ぼくは早々に諦め
アルバイトから店長にまで昇りつめ
きみは幾つかの小さな舞台で
これまた小さな役をもらった
「きみなら大丈夫だ」と
ぼくは家賃や生活費を払いながら
「ぼくの分まで頑張れ」と
無責任な応援を続けた
役をもらえないまま二年がすぎたあと
きみは行方をくらました
書置きも電話もなにもなかった
(生まれた街に帰ったに違いない)と
ぼくは感づいたが
忙しさにかまけて追いかけなかった

やがて不況が来て
店が上手く行かなくなり
たたむことを決意したぼくは
ふいに
そこに帰ってみようと思ったんだ
いや、ずっとじゃない
ちょっと帰ってみようって
久しぶりに訪れた駅は綺麗になっていて
あれほどいろいろなものを乗り継いだ故郷は
一本の線路で繋がれていた
驚きだ
それでもやっぱり丸一日はかかったけれど

そうしてぼくは実家には帰らず駅前にホテルを取り
きみの家を訪ねてみたけど
がらんどうの荒れ果てた空家だった
さてね、と頭を掻いていると
だれかがぼくの名を呼んだ
子供のころ一緒に遊んだ男だった
子供のころとは似ても似つかぬなりをしていたけど
「彼女なら病院に居るよ」
そう言って病室の番号を教えてくれた
ぼくはささやかな花を買い
早速訪れてみると
きみは鼻に管を繋がれ
ぼんやりと天井を見つめていた
華奢だった身体は
目一杯詰め込まれたごみ袋のようだった
久しぶり、とぼくは言ったが
きみはまるで反応しなかった
ぼくはおかまいなしに
椅子に腰をおろしてきみが居なくなってからの話をした
きみに聞こえているのかどうかわからなかったけど
話したかったことはとにかく話した
それは二時間くらいはかかったと思う
それじゃあ、とぼくは立ち上がった
さようなら、と言ったけれど
やっぱりきみはぴくりとも動かなかった
ぼくが出て行くときに大きなおならをしただけだった

ぼくはそのまま駅に行って
いま住んでいる家に帰ることにした
ホテルには電話をして急用で帰ることになった、と説明した
金は払ってあったからそれでよかった
そのときの
妙にけたたましい車輪の音や
車体の軋みや
トンネルの中で感じた怖ろしい闇のことを
ぼくはしばらく忘れることはないだろう
かなしみと呼ぶにはあまりにも馬鹿らしかった
だからそれはコートの中でいつまでもざわついていたのだった

ぼくはもう生まれた街に帰ることはないだろう







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Stay Free  


















昆虫の呼吸器官は腹の横に空いた幾つかの穴、ラジオでそれだけを繰り返すキャスターの声は重く沈んでいて、何のための放送なのかはまったく理解出来なかった、そんな夢を見たんだ、寝床が焼け付くような朝に
朝食はいつも珈琲とトーストだけどいつものジャムを切らしてしまっていてグラニュー糖をばら撒いて食べた、飛びぬけて美味いというようなものではなかったけどそんなに悪くもなかったよ、少なくとも朝食としてなら申し分ないさ
痴呆症の母親と電話で少し話した、相変わらず電話じゃずいぶんしっかりしてるみたいに思える、離れて暮らしているとおいそれとは分からないことばっかりさ、だけど、だからってどうしろっていうんだ?こっちとしてもそれはどうしようもないことなんだ
洗い物は午後にでもやることにして、街へ買物に出かけた、なにかと進路を塞ぐような連中ばかりでイライラしたよ、銃でも持っていたら一度くらい引鉄を引いてしまったかもしれないな、もちろんバレないように気をつけはするけれど、ああいう時ってどんなに気をつけてもどこかから誰かに観られているとしたもんだよね
ちょっと思ったんだけど、通り魔が殺したがっているのは本当のところ自分自身なんじゃなないのかね、いや、別に弁護をしたいってわけじゃないんだけど、彼らが自分を殺せないのはきっと、語り部としての役割を捨てられないからさ
もちろん殺された連中をないがしろにする意図なんかないよ、彼らは生きている以上にその尊厳を守られなければならない、あまりある未来を奪われた場合なんかには余計さ
いったい死ぬまでに何本の缶コーヒーを飲むのだろうと思いながらマスクをずらして飲み干した、別になくて困るものじゃない、けれどそんなもののほうがもしかしたら、習慣としては定着しやすいのかもしれないな、些細なことにはリズムが生まれやすいからね、考えないという理由のみで
見慣れた街を歩いていても、ふとした拍子にそれが、まるで知らない街のように思えるときがある、それはずっと錯覚だと考えていた、でももしかしたらそこには明確な原因があって、こちらがそれを理解出来ていないのではないかと考えるようになってきた、たとえばそこを歩いている人間の質がまるで変ってしまったりしたせいなんじゃないかって
昔はこうだった、なんて話をするつもりはないよ、だけど、明らかに人間は少し駄目になってしまったように思える、何かを食べながら歩いているやつを見かけるようになったのは確かここ十年くらいのことだ
自分が思考するレンズのように思えるときがある、それは別に特性じゃない、居つくべき場所が対象の中にないだけのことさ、自己を失っていないものたちは、多かれ少なかれそんなふうにスライムみたいな社会を見つめているんじゃないのかな
好きだった喫茶店の空家が取り壊されて更地になっていた、なんて味気ないんだろうか、最後に残るものは雑草にまみれた砂地ばかりなんだ、いつだってどこだってそうだ、ずっと、ときの流れなどなかったみたいにその場所でいつもイライラしてしまう、使われていないからといって無意味なものでは決してないのに
質はどうあれ、主張さえすればなんとかなると考える連中がずいぶん増えた気がする、一四〇文字のマジックがそこいらで蔓延してるのかね、小さな枠でしか吠えられないような惨めな連中たちの文化
暑いからって窓を開けっぱなしにしておくのはやめた方がいい、覗き趣味の年寄なんて最近じゃ珍しくない、あいつら、暇さえあれば覗こうと鼻息を荒くしているんだぜ
ミノムシのように薄汚れた布を見に纏った老婆が駅前広場で訳の分からないことを叫んでいる、それはいつかには予言だったかもしれない、警告だったかもしれない、そうさ、神の言葉を伝える係はいつの時代にだって居たんだ、だけど、近頃じゃそういうのはみんな、鍵の掛かる病棟に連れて行かれてしまうのかもしれないな、ねえ、俺の弟に会ったらよろしく言っといてくれよ
夕方、湿気をたっぷりと含んだ熱が住処を床下からなぶって来る、イライラしながらエアコンの温度を一度下げる、やけに縦に長いこの家じゃ俺の部屋まではエアコンの風は満足に届かない
俺は懐かしい歌を口ずさむ、音楽はいつだって流れているじゃないか、人間はどんどん記号になろうとしている、そこにどんなものが隠れていても気にすることもない、街は清潔に薄汚れている、自我のないやつらが世論に操られてゾンビのようにフラフラしている
DVDを垂れ流しながらまるで違うことを考えていた、この世はまるでパニック映画さ―そんな映画の主役と、脇役と、モンスターの差ってどういうものか分かるかい?


それは、いつだって理性的に生きられるかどうかってことなんだ










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