形見という概念をどのへんに位置づけるか、それはあんたがたの自由だ  









苦し紛れに吐き捨てた言葉の中には見るもおぞましいいびつな感情が梱包されていてそれは解かれる必要すらないほどに歪んでいて情けなくそしてあきらかにそうというほどではないのだけれど決して無視を決め込むことが出来るほど微量ではない
そんな臭いを涌水のようにじりじりと漂わせそれと同じくらいの質量の細分化された不快感を秒刻みでマジシャンが人体切断トリックを行うときに差し込む模造刀のようなリズムでひとつずつ差し込んできてその中のいくつかははじめからそこにあることを心得ていたかのように致命的な欠陥のいくつかの中心を確実に突いてきてあまりのことに声も出ずなすがままになりけれどそれは生まれてこのかたずっと抱えてきた腫瘍のようなものでもはや致命的な欠陥でありながら致命的な欠陥ではなくちょっとした損傷とも言えないのはなぜかというとそれはもはや種類を厭わない慣れのようなもので習慣のように抱えているものだからでつまり本来は重要な機関であったはずのものだがもう何の意味もなすことはなくしたがって死ぬはずのものが死ななかったり生きるはずのものが機能しなかったりするという要するになんの影響もこちらに与えることはない
コンピューターの中でセキュリティソフトによってドライブのデッドゾーンに隔離されたウィルスのようなものになってそしてもちろんそれはなんの影響も及ぼすはずがないというのは前述の通りそれは慣れであり隔離されているので影響それ自体は皆無なのだというそれが本来目に留まるはずもないのに梱包されたなにかの方式によっていまもっともあらわに見て取れてしまうことはある種の法則の落度といえば落度でしかしその認識が身体になんらかの影響を与えたとしてもあくまで心情的な部分でのことに過ぎなくて機能的な部分には何の影響も起こることはないというのは想像に難しくないがもちろん心情的な部分でのダメージが機能的な部分にたいして致命的な影響を及ぼすパターンはいくつもあり俗な言葉で言えばストレスなんて言葉になるのだろうが確かにそういうケースを信じられるには心と身体の間にある溝は深くて広すぎるのだろうと考える理由をひとつあげるとすれば心の影響により治らないはずのものが治るというような実例があまりにも少ないせいなのであって実感としてさほどリアルなものではなく溝という概念にあっさりと従ったほうが「心情的に」はるかに楽だという部分が確かにあるからで要するにそのたまたま表出化した梱包されたものはやはりデッドスペースで隔離されている理由のないものに過ぎないのだそれはまるで、





10年前の葬式の形見のようなものだ。








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