2016/12/9

いつか見た映画みたいに  













ここにヨシオという男が居る。三十を少し過ぎたもの静かな男で、生活のためにある巨大な施設の厨房で洗い場を担当している。毎日日が昇る前に仕事場に入り、日が暮れるころに家に帰る。彼には共に暮らしている女が居る。名前をキヨミという。ヨシオと同じく、もの静かな女である。年齢はヨシオのひとつ上である。彼女はずっと家に居て、黙々と家事をこなしている。二人は共に映画が好きで、出会ったのも映画館だ。座れるだろうとタカをくくって出かけた名もなき監督の作品が、思ったよりも注目されていて立ち見になって、角に押し込まれるように映画を観ていたキヨミを可哀想に思って、ヨシオが場所を変わってやったのがキッカケだった。それは二人が二十代の半ばのころのことだった。二人はほどなく一緒に暮らすようになり、ヨシオは二人がなんとか暮らせるようにと今の仕事に変わった。ある日、膨大な残飯を捨て、指がひび割れだらけになるまで洗い物を済ませた帰り、社長室に呼ばれ、来月は休みなしで働いてくれないかと頼み込まれた。ヨシオはそれほど仕事が好きではなかったが、人手が足りず(それはひとえに社長が原因の一端なのだが)、誰かが無理をしなければ仕事が成り立たないことも理解していたのでそれを了承した。社長はすまん、と頭を下げ、来月は特別にボーナスを出すから、と約束してくれた。ヨシオは家に帰ってキヨミにそのことを話した。キヨミはヨシオが普段から無理をしていると感じていたので、大丈夫なのかと気遣った。大丈夫だよ、とヨシオは笑って言ったが、それが嘘であることは二人とも充分過ぎるほど判っていた。そして、ヨシオの辛い日々が始まった。忙し過ぎて昼飯を抜かなければならない日もあった。十日を過ぎてからは家に帰ってもろくに座ることも出来ず、風呂に入って食事をしたらすぐに眠ってしまった。夢すら見ない眠りは一瞬のうちにヨシオを朝に連れて行った。ふらつきながら仕事に出かけるヨシオを見送りながら、キヨミは不安で仕方がなかった。だけど、ヨシオの仕事場の状態は普段から聞いていたので、ヨシオが持ちこたえることを願うばかりだった。何か元気の出るものを、とあれこれ考えて夕食を作ってみても、ヨシオは疲れ果てて帰ってこれない日すらあった。どうして彼がこんな目に合わなければならないのだろう。キヨミは一人食卓で伏せたままのヨシオの茶碗を見ながらそんなことを考えた。十六日目の午後のことだ、その前日もヨシオは事務所の簡易ベッドでギリギリまで眠ってから仕事に入った。疲れはピークに達していた。目は霞み、肩は痛み、膝は力を無くして震えていた。残飯を捨てていたヨシオは、自分の手がケチャップで汚れている瞬間を目に止めた。皿に乗っていたのは、半分だけ齧られたウィンナーだった。まるで俺の指が千切れてしまったみたいだ、ヨシオはついそんなことを考えてしまった。いつもならちょっとした冗談で済んだかもしれない。だがその時のヨシオにはそれはあまりに強烈なビジョンだった。ヨシオはそのイメージを振り払うために懸命に働き、キヨミの顔を一目見るために家に帰った。二日ぶりに見るヨシオのやつれた様子に、一日だけでも休んだ方が良いと忠告したが、ヨシオは黙って首を横に振り、風呂を済ませて食事をするとすぐに眠ってしまい、次の日生身の亡霊のように出かけて行った。キヨミはその背中を家に引っ張り込みたくなるのを懸命に我慢した。その日からずっと、ヨシオは自分の指が噛み千切られるイメージに悩まされるようになった。血のようなケチャップ、指先のようなウィンナー、流しの中で鈍い音を立てる皿やコーヒーカップは、朦朧とした意識の中で聞こえる彼の肉体の悲鳴そのものだった。オオ、オオ、俺の指、俺の指が食い千切られていく、オオ、食い千切られて、ポリバケツの中へ―いくつもの俺の指がそこに捨てられている、血塗れになって―もうどんなに懸命に働いてもそのイメージは消えなかった。ヨシオは事務所にも行かず、仕事場の隅で壁にもたれて眠るようになった。二十一日目の夜に、ヨシオは絶叫と共に自分の指を食い千切った。声を聞きつけた厨房のコックが洗い場に入ってみると、うつろな目をして自分の人差し指を食っているヨシオを見つけた。すぐに救急車が呼ばれ、警察が入り、ヨシオの仕事の状態が明らかになり、施設の食堂は操業を停止され、別会社によって再建されることとなった。ヨシオが薬で眠っている間にすべての決着がついていた。ヨシオには頼りになる親も親戚も居なかったが、国選弁護人が上手くやってくれた―もちろんヨシオのためではなかったが。ヨシオが正気に戻るには半年ほどかかった。ヨシオの右手の人差し指はもとには戻らなかった。ヨシオが自ら嚙み砕いてしまったせいだった。社長はヨシオに特別ボーナスを払い続ける結果となった。ヨシオには自宅で出来る仕事が与えられた。簡単な文章をパソコンで打ち込む仕事だ。「町内会のお知らせ」とかそういうちょっとしたチラシのようなものだ。そんな仕事でもいくらかの金にはなった。時々はなくなった人差し指にイラつきもしたが、数か月もすると慣れた。キヨミは彼の失われた指を見るたび、それが自分のせいのような気がして悲しい思いをした。ヨシオは表向き平静だったが、それは隠居した老人の静けさに似ていた。(俺じゃなくてもいい)時々ヨシオはどうでもいい文章を打ち込みながらそんなことを考えた。(俺じゃなくてもいい、こんな、人差し指のない俺がやらなくてもいい…)ヨシオは寝床につくと、自分の指が降ってくるのを見るようになった。オオ、オオ、俺の指、俺の指が降ってくる、果てしなく降り継ぐのに積もらない、まるで早い春の淡雪のようだ、降り続くのに積もらない、オオ、俺の指、お前はどこに消える、いびつな断面を晒して…ヨシオは目を閉じる、ボトボトという音が、鼓膜の内側にまで響いて来る。










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