2019/7/19

僕らはいつも自分だけの譜面を探しているように  












僕らの切り損ねた爪は廊下の板の隙間から果てしのない奈落へと落ちて行った、僕たちはなすすべがなく、神経症的な音楽の中野先生のピアノに合わせて「帰れソレントへ」を各々のパートに分かれて歌うのが精一杯だった、先生のピアノの譜面台にある八分音符の尻尾は僕らの喉仏を貫けるほどに研ぎ澄まされていて、おかげで僕たちは音楽の授業があった日の夜はいつも、毒薬を嚥下するような小さな音を立てて先生が踏みつけるダンパーペダルの夢を見た、音楽室だけは常に空調が稼働していて、それはおそらく楽器がたくさんあるからなのだけど、夏の教室に慣れ過ぎた僕たちはたびたびそのせいで鼻の具合を悪くした、先生にはわからないんだ、だって彼はずっとそこにいるんだもの―アキは歌が苦手で、それでも口パクをしていると先生にはすぐに悟られるから(なんでも全員の声を記憶しているという話だった)、すごく小さい声でメロディを追っていた、歌がヘタだからこれで許してください、と暗に懇願しているボリュームだった、音楽の授業はなぜいつも歌わされるばかりなのだろう、とそんな彼女を見るたび僕は思うのだった、歌が苦手な生徒は楽器を覚えるとかにすれば誰も嫌な思いをしないで済むのに―あるいは体育の授業のように見学が許されるとか、とにかく楽しくない音なんてタイトルに反しているといつも考えていた、無数の穴が開いたボードに囲まれた部屋の中で朗々と声を張り上げている人には、アキの気持ちなど決して理解出来ないのだろう…僕は先生の歌い方が嫌いだった、実力だ、集中力と確かな感性だ、先生の歌声からはそんなものしか感じられなかった、それは先生の声でありながら、先生自身を語るものでは決してなかった、他の上手なだけの誰かと取り換えが利くものだった、そんなものが正しい歌であるはずがない、正しい音楽であるはずがない―でも、便宜的な正しさによって統一された小さな社会の中でそんなことを思っても仕方のないことだった、広い校舎の中で、そのイデーに支配されていない場所はトイレぐらいだった、だから僕らは休み時間のたびに無意識にそこに向かって歩いていたのだった―昼休み、僕が校庭のベンチに腰を掛けて食堂の入口で売っている小さなパンを食べていると、三日に一度くらいの割合でアキが通りがかって、ちょっとした話のついでに並んで昼食を食べて行った、特別な話は別になかった、たわいもない共通の話題、小テストや担任のことを話しただけだった、僕らはともにそういう話をするのに最適な相手だった、いまにして思えばなにかしら共通の感覚がそこにはあったのだろう、そしてどうしてかわからないのだけど、僕は彼女と昼休みに話すと、不思議と五時間目をサボタージュしてしまうときがあった、もちろん単位というものがあったから毎度毎度というわけにはいかなかったけれど…それは僕自身とても不思議に感じている現象だった、何ヶ月もそれについて頭を悩ませてみた結果、おそらく僕があまり学校で人と話をしないせいなのだろう、という結論に至った、だから、たまにアキと話をするとなんというか―そこで暮らすために構築したリズムみたいなものが少し乱れてしまうのだろう―そんな考察は当たっている気もしたし、まるで間違っているようにも思えた、でもそれ以上突き詰める材料もなかったし、根気もなかった、だから僕は未確認飛行物体の研究をするみたいに、時々そうやってアキと話をした、放課後は時々所属している映研の部室でゴダールを観た、もちろん、高校生にゴダールなんてちゃんと理解出来るわけはないのだけれど、名作と呼ばれるものをいろいろと観た結果、それがなんだか一番心を惹きつけたのだ、それはきっと内容がどうとかではなくて、台風の後の不思議な色の夕景が忘れられないとか、そんな感覚に近いものがあったのだと思う、他の部員もまめに顔を出すやつは少なくて、僕と同じように時々やって来ては自分の好きな映画を観る、という感じで、部でありながらその活動は非常に個人的な、身勝手で自由なものだった、僕たちが卒業してから映研は廃部になって、部室は物置になったと一度だけ電話をかけてきたアキに聞いた―そんなことを思い出したのは週末の夜遅く潜り込んだバーのテレビで流れていた「気狂いピエロ」のせいだった、いや、もしかしたら、それを観ながら飲んだジン・ロックのせいだったかもしれない、金を払って店を出てから、不意にアキの声が聞きたくなった、電話番号は覚えていなかった、尋ねたことすらなかったような気がする、雨が降っていたけれど傘を買う気にはなれなかった、今夜はもしかしたらダンパーペダルの夢を見るかもしれない。











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2019/7/14

知ろうとするそのときにだけ大きく見開けばいい  











過去はまやかしで現在は一瞬、未来は与太話で人生は蝶が見る夢、塵芥掻き回しながら汗みどろの俺はなにもかも知りながら徒労を繰り返す、滑稽だって?では教えろ、懸命さとはどのみち、そうしたことでしか先へ進めないのではないか?「こんなものは無駄だ」とこぼしながら、有り余るときにはなにもせず、結局はほとんどのものが水泡に帰していく、よれたサランラップみたいな水面に、ひとりごとのような弾ける音がする、ひとつ、ふたつ…まるで楽譜を忘れた楽団の早過ぎる終演だ、そのあとのメロディーは辿られることがなかった、では教えろ、懸命さとは所詮、後ろめたさの贖罪に過ぎないのか、なにかを選ばなかった、なにかを選んでしまったそのことで生まれたいくつもの軋轢への…理由など求めることに意味はない、そう、何度も言ってきたことだ、理由には意味はない、行動し続けることだ、けれど―理由をないがしろにしてしまうこともまた愚行だ、あやふや過ぎる動機には腑抜けた意思しか語ることは出来ないだろう、ふたつの極の間を絶え間なく行き来することだ、速度を変え、視点を変え、感情を変えて…あやふやな、曖昧なものでありながら、見失ってはならない線というのは必ずある、ヒトの骨格のように確かなもののことだけはきちんと感知していなければならない、俺たちは生きながら骸骨にはなり得ない、だから内側を剥き出しにしようとする、人生に食い込み過ぎた連中の末期症状だ、俺は震えている、全身を駆け巡る微弱な生体電流に感電している、そういうことは必ずある、探し過ぎた爪は痛みを感じるものだ、そうは思わないか?ある種の確信めいたものに到達するには途方もない時間がいる、おまけにそれは流動的に過ぎる、流れを失うな、けれどある時にはとどめなければならない、そんなものの扱い方など子供の内にわかるようなものじゃない、確信のある連中なんか捨て置いておくことだ、彼らは楽な手すりを掴んでよっと一度這い上がっただけなのだから…進んだのか?どこへ?上に登ったのか、前に進んだのか、後退したのか、地下へ潜ったか―本当にどこかへ行こうとしている連中にはそんなことまるで理解出来ない、なぜなら彼らの動力は懸命さだからだ、強迫観念とも呼べそうな羅列の欲望にさいなまれて、血眼になりながら吐き出している、どうだ、このリズムか、この旋律か、歌おうとしているもののことは、いつだって俺が一番知りたがっている、放電だと例えられたことがあった、それは俺はとても気に入っているよ、放電、まさにそれだ、言ったろ、震えているって―おそらくはそいつらの軌道を俺は書き写そうとしている、言葉による現象の模写だ、その目的により俺の思考は俺の全身をくまなく駆け回る、綴るのに必要なのは決して、頭と指先だけではない、己個人、それすべてが必要になる、そうでなければよく出来た嘘になってしまう、だから俺は、すべての糸が絡まることを悪いことだとは思わない、真理を端的に言い表せるのは、おそらく神と呼ばれる年寄りだけだろうさ、神はひとつの大きな概念に過ぎない、ヒトによって翻訳された神など俺は信じようと思わない、目を閉じてみろ、そのときお前を覗き込んでくるのが本当の神だ…俺は電流を化けさせながら、その神に祈り続けているのだ、お前の真実を晒せ、お前の真実を寄こせと―神は黙っている、どんなアクションも寄こすことはない、そうさ、いつだってそうなんだ、あれは俺たちをただ眺めているだけに過ぎない、ただそれが、俺たちよりもほんの少し長い時間そうしているってだけのことさ、つまりだ、それは思考であって思考ではない、意識的でありながら無意識の領域にあるもの、知覚出来ているのか出来ていないのか―そんなもののために俺は生きているんだ、お題目が必要なものじゃない、生まれたときに始まり死ぬときに終わる、なあ、一生遊ぶことが出来る代物さ、それがわかるから止めることが出来ないんだ、いまは二十二時過ぎで、カーテンで隠された窓の向こうでは静かな雨の音がしている、こんな夜が何度あっただろう、そして、これから何度訪れるのだろう、俺は指を止めてカーテンを眺める、答えは風の中、って、よくいったもんだよな…それは一瞬で通り過ぎてしまうってことさ、初めて聴いたときにはそんなことわからなかった、きっとディランは俺よりもずっと早くそのことに気づいていたんだろうな、なんて考えながら少し前から俺はずっと、このしたたりを終わらせてくれるものを探している、もう少しでそれはやってくるだろう、そうすれば俺はすべてをしまい込んで、なにかを成しとげたような顔をして眠ることが出来るだろう―もしかしたらそれは、俺自身よりもあんたのほうが、強く感じることが出来るかもしれないな。






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2019/7/11

その時刻のことはどうしても思い出せない  



















オーヴァードーズで死んだ海外の俳優のニュースでワイドショーはもちきりだった、俺は適当に皮を剥いた林檎を丸一個たいらげて顔を洗った、そいつの映画は一本も観たことはないが名前くらいは知っていた、世界的にヒットし続けているシリーズものの主演だったはずだ…間違いない、と言えるほどの関心は持ち合わせていなかったけれど―梅雨の晴間、になりそうな日だった、仕事は休みで、予定はなにもなかった、休みの日に予定を入れておくのは好きじゃない、それだけで半日は損したみたいな気分になる、朝起きたときの気分でその日なにをするのか決める、そんな休日が好みだった、心臓の手術で休んでいたミック・ジャガーは無事復活し、ローリング・ストーンズはツアーを再開した、彼らのニュー・アルバムなんてものを未だに臨んでいる俺は間抜けだろうか?もうあいつらトシだから、とファンの連中でさえ白けたことを言っている、だけどストーンズだぜ、と俺は常に言い返していたが、近頃は曖昧な返事をするようになった、ビガー・バンは良いアルバムだった、連中があれで最後にするつもりでいても不思議はないだろう…いまではロック・バンドも石を投げれば当たるほどいるし、コンピューターの進化により楽曲の幅も広がっている、インターネットを駆使した宣伝活動も山ほどある、どんなジャンルが聴きたくとも、即座に検索することが出来る、それどころか、スマートフォンに頼めば勝手にセレクションして流してくれさえする、ロックン・ロールはもうスタイルの一環に過ぎない、魂は時代遅れらしい、けれど、生き永らえることのカッコよさを教えてくれるのはいまでもローリング・ストーンズだけだ…ミック・ジャガーはきっと、マディ・ウォーターズみたいにキャリアを終えたいと考えているはずだ―デニムとシャツに着替えて外に出た、鬱陶しいほどの雨が数日振り続いた後は、鬱陶しいほどの太陽に照らされる一日だ、近くのでかいドラッグストアでいくつか買物をするだけの予定だった、きっとそれ以上は歩く気にならないだろうことは目に見えていたし…まだ昼前なのに自転車に乗った学生を時々見かける、テスト期間中だろうか?中間テストは今頃だったっけ?もう学生自分のことなど思い出せなかった、というより、自分が果たして学生だったことがあったのかどうかさえ疑問だった、あの、同じ年ごろの連中と馬鹿でかい建物に半日押し込まれるシステムはいったいなんなのだろう?それが果たして自分になにかをもたらしたのか―?邪魔になっただけだった気がする、ひとつの大きな流れに乗っかることが昔から嫌いだった、俺はそのころからひとりで生きる事ばかり考えていた、用意された程よいハードルを飛んで得意になっている連中を見ると虫唾が走った、たくさんの人間たちが集まる建物の中で、ひとりで過ごせる場所ばかりを探していた、そしてそれはいまでも変わらない―別に、システムに関しての不満だの怒りだのがあるわけじゃない、ただそれが自分に関係のあることだとは思えない、それだけのことなのだ…散歩をしているといろいろとくだらないことを考える…けれど、演劇部があったのはよかった、部活はそこそこ熱心にやっていた、舞台は見られたもんじゃなかったけれど、役を演じるのは楽しかった、そういや、まとまった文章を初めて書いたのは自分でやり始めた芝居の脚本だったか、そんなこと滅多に思い出さなくなったな―アニメのキャラクターを豪快にパクった立看板のある散髪屋の前を通り過ぎて、市営の広いグラウンドに出た、長雨のせいで下はぬかるんでいる、俺は雪に足跡をつけて遊ぶ子供のように、そこに靴をめり込ませて遊びながら歩いた、腕時計を見るとまだ目覚めて一時間も経っていなかった、しまったな、と思った、まだ開いている店さえほとんどない時間だった、そうして太陽はすでに俺のシャツに汗を滲ませていた、大人しくドラッグストアに入り買物をすませた、駐車場で軽い接触事故があったらしい、若い女と年老いた建築作業員が揉めていた、少しの間遠巻きに眺めたがどちらが悪いのかまるで判らなかった、そもそも接触事故が起きるような狭い駐車場ではなかった、こんなところで接触事故を起こすなんて特殊能力の持主でもない限り無理だと思っていた、でも現実にそれは起こっていて、当事者の二人の頭の程度は論争を聴く限り同じようなものだった、車の安全性がいろいろと問題になっているが、結局ハンドルを握るやつが駄目なら車自体に何の対策を施しても無駄というものだ、そこからさらに少し歩くと、昔友だちが住んでいたアパートの廃墟があった、そのアパートのことはありありと思い出せる、まともな人間が少なかった、夜中に叫び声をあげたり、窓から家具を捨てたりするやつらばかりだった、友達はそんななかで平然と酒を飲んでいた、一度住人の一人と夜中にばったり出会ったことがあったが、大きく開いているのになにも見ていない、そんな目をしていた…いまでも時々あんな目に出会うことがある、日常の、何気ない世界の中で、ほんの一瞬。










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