2009/9/26

すべては気まぐれみたいに行われるのがイカしてる  散文








ナマの心臓の感触というのはなかなかそうと膝を打てるような言葉にはならないものだ、本来俺たちはそうしたものの動きには無自覚なものだし、そもそも下手に自覚なんかしてしまったら日がな一日胸に手を当てて過ごさなければならなくなる。潔癖症の主婦が薄いゴム手袋と布巾とポリ容器に入った洗剤を終始手にしているみたいに。鼓動というのは多分、無自覚であるようにとあらかじめ設定された事柄のようなものなのだ、何故そんな風に設定されなければいけないのかって?そうだな、それにはいくつかの理由が考えられるよ―例えば世界中のドクターが自分たちの価値を一般市民よりもひとつ上のランクに留めておきたいがため、なんて、これはくだらない冗談だけれどもね。そうだな、とにかくそれは100年は休まず動き続け、鳴り続ける可能性のあるものなのだから、下手に自覚的につきあうとなるとこれはかなり厄介なんじゃないかって…そんな気、しない?無自覚であるというのはすごく大事なことだ、光合成のように凄く大事なことなんだ、光合成というものが自覚的に行われる場面というものを想像して御覧よ、こいつはちょっとぞっとしないぜ…取り込み具合や出来具合なんかにいちいちしつこく頭を悩ませるような光合成を想像してみな?そんなことをしながら育つ植物がいくら全植物の中で最高に合理的でファッショナブルな光合成にたどりつくことが出来たとしても、種族としてそいつらはきっと長続きすることは出来ないだろうさ…行為、行動というものはたびたび人をストレスの塊にする、それは自覚的に過ぎるからだよ、自覚的であることなんて、ほとんど自虐的であるというようなものだ。そこに重要な目的というものが存在しているならなおさらだ、そのことは判るだろう?重要事項について考えるとき、俺たちは自覚的にそれをやろうとし過ぎるんだ、それは必ず達成されなければならないとガチガチになって、まるで隕石を一人で食い止めることになった、なんて宿命を背負ったみたいな顔になっちまう、力み過ぎて、それが原因でやり遂げると決めたことの半分も果たせずに終わってしまうのさ、そして悔いる、やらなければならないという気持ちはとにかく人を悔いさせる、どうしてそれほど打ちひしがれてしまうのだろうというほどに、地べたまでずり落ちてしまう。やり遂げなければならないことほど無自覚的になるべきなんだ、本当は―例えば今、俺が書いているこの文章にどのような意味合いがあるか判るかい?無自覚的にことがなされるべきなんだ、というテーマについて書かれる文章は自覚的に書かれてはいけない。何故かっていうと…もう判るよね?無自覚でいなければ、伝えよう、読ませようという気持ちが先に立ってしまう。気持ちが先に立ってしまうとたいていのことは読みづらくなる、暑苦しくなる、青少年の恋の告白みたいなもんさ。思いが強いほど口が必要以上にぱくぱくとなって、同じ所で何度もつっかえてしまう、あ、あの、その、僕、僕、君の、君のことが…無自覚、といっても誤解して欲しくないのは、出鱈目じゃ駄目だということ。それがどこに行こうとしてるのか、それだけはきちんと把握しておく必要があるということだ。ナビに従って車を走らせるということさ。悩む必要はないが、行先を見過ごしてはならない。行先を見過ごしちゃうと当然たどりつけない。忘れたことに気づいて慌てたりすると事故にあってしまうことなんかもある。下手に事故ったりするとそのままこの世からはおさらばだ。自覚的にやるところを無自覚的にやるというのはなかなか難しいことで、人によってそれについて語ろうとしているこういう文章を目にするだけではなはだ矛盾しているという印象を受けるかもしれない、だけどそれは間違いだ、それは絶対に間違いだよ…無自覚でいるというのはこういうことだ。障害物のない見通しのいい直線の道路を選ぶ。そして、辛くない程度にそこを走る。速さなんて全く気にする必要はない。なにしろそこは見通しのいい直線道路で、しかも君には約束もなく、君よりほかにそこを走っている奴なんて誰も居ない。映画「激突」みたいに君を押しつぶそうとする馬鹿でかい車なんか追っかけてこない―俺がこんな話をするのはとにかく、無自覚であるということの面白さを確かに感じてほしいと考えるからなんだ。多かれ少なかれ、ここにいる誰しもが、いつまでも指先が止まることなく動き続けるのではあるまいかなんてなんていう感覚を感じたことがあるだろう?ああいうのってすごく楽しいと思わないか?つまり、任せちゃうことだよ。動き始めたら変に手を止めて考え込んだりしないで動き始めたものに流れを一任すればいいんだ、列車に乗る、なんて例えでもいいな―列車に乗るってことを考えてみるといい、然るべき切符を手に入れて、そこに書いてある然るべきホームに、然るべき時間に立って、然るべき服装で…まあこれについては人それぞれだろうけどさ、滑り込んできた列車に乗り込めば、あとは寝ようが窓の外を眺めていようが腹が痛くなってトイレにこもっていようが、列車は君を必ず目的地まで連れてゆく。いったん乗り込んだなら君が気にすることはただひとつ、切符に記されてある行先と同じ地名で下車することさ。うっかり乗り過ごしちまうと終点で途方に暮れたり、なんてところに落ち込んじゃうかもしれないぜ。


ともあれ、無自覚ってとても面白いものさ…じゃ、俺降りるから。











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2009/6/1

Fish  散文















早い朝の淡い光線に君は濡れながらそれでも整然とした様子でそこに生きていた、俺は喉に突っかかるような痛みを覚えながら君の名前を呼ぼうとしたが、記憶に栓をされているみたいにそれはままならなかった。伸びすぎた前髪が警告のように風に揺れて目の前に垂れさがる、それは君の姿をキャベツのように細かく刻んでしまう、初夏の草のにおいがうるさいくらい俺たちの周辺で騒いで、それだけで俺はなにかこの場にそぐわない己の魂のことをこの上なく恥じてしまうのだ。夜っぴて降り続いた雨の後の朝に遠くからやってくる風にはすうすうという音が似合う、悪夢に浸食されない寝息のようなノイズ。もうなにも咲かない枝のそばで君は遊んでいた。俺は傀儡みたいなものなんだ、と呟くと、枝の先を指先で転がしながらふふ、と短く笑った。俺は慰めてもらいたいわけではなかった、ただ、そんな感情がここにあるということを、認めてもらいたいと思っていただけなのだ。だけど、そんなささやかなすれ違いはいまに始まったことではないし、特別苛立たせるような何かがそこにあったわけではなかったから、俺は口をつぐんで笑い返した。それはまるで笑うという行為とはかけ離れたものに思えて、神経が二、三本断線しているのではないのかと勘繰らなければならなかった。低木は嫌いだ、いつでも予期せぬものを下から覗かれているような気がするから。見せるまい、と躍起になって睨みつけてしまう。だけど、どれだけそんなことに心血を注いだところで、結局のところそれは予期せぬものを覆い隠すことにはならないのだ。ああ、と俺は声を吐いた。君は少しだけこちらを振り向こうとしたが、いつものため息だと悟ったのだろう、黙って消えない程度に先に進んでいた。君はそういう歩き方がとても上手だった。もう少し上手に感謝できる人間であればよかったな、と今更ながら俺は考えるのだ。そしてそのせいでため息の理由を足元の草むらに落としてしまう。落とされた理由は妙に腹のでかい蟻にさらわれて運ばれていく。蟻よ、やめておけよ、そんなものを献上したって、女王は喜ぶことなんかないよ。蟻と意思の疎通を図るすべを自分が持っていないことに俺はうんざりする。なにか伝えるべきことを持っているのに、伝達する手段がない。本当に無力と呼ばれるのはそういう類の事柄であるべきだ。俺は止めていた歩みを再び始める。君がそれとなくこちらを気遣いながら歩くにも限界があるのだ。君のさりげなさだけは壊したくないと思う、君が薄い氷の上を歩くみたいにさりげなくこちらを気遣って歩いてくれていることだけは、このまま俺が俺に戻ることが出来なくっても壊したくないと思う。ねえ俺、不安なんだ、すごくすごく。だけど、子供のころから怖いって叫べない子供だったんだよ。いつでも一人になるまで、泣くことも出来ない子供だったんだ。どうしてかなんて説明出来ない、だから今でもそんなままなのさ。平気な顔ばかりしているとどんな心を抱えていても普通に暮らしてるみたいに見せることが出来る。そんな風にして少しずつ狂っていったんだ。普通の顔をしたままなにかが狂い続けているのさ。表向きの平静に感化されちまったのか、音もさせずにパズルのピースを取りかえるように狂っているんだ。そういうのってボーダーラインを越えることが出来ないんだよ、心が狂気に順応していくからさ、ボーダーラインであるべき位置にたどりつくころには、ボーダーラインは数歩先の辺りでにやにやしながらこちらのことを眺めている。ほら、なんでもない。順応してしまった感情はそんな認識を当り前のように受け入れてしまう、そうしてひとつひとつが少しずつずれていく。ゴールテープが移動し続けるマラソンみたいなものさ。ゴールテープが見えていると、ランナーは諦めないだろう。ばたりと倒れるまでは。そんなこと、どうでもいい話かもな。俺だけが理解していれば済む話だ。なにもかも理解してみたところでどうすることも出来はしない、予期せぬものを下から覗かれているみたいにさ。見失わない距離に居てくれる君の背中を俺は眺める。俺は感動して泣いてしまうのだ。母親のような遠慮のない愛とは違う、背中の在り方。君はいつでも俺のことを待ってくれている。ありがとう、ありがとう、君が道標になってくれる間だけは、俺は正気でいることが出来るような気がするよ。鳥たちの声が高くなり、気温が上がり始める。ねえ君、太陽が昇るよ。君、明るくなる。俺は君の背中を追う。君の気遣いを無駄にしてしまうような速度で。君は振り返って涙の乾いた俺の頬を見る。そして笑うのだ。ちゃんと見ていたいのに君の後ろから太陽が昇り始める。











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2006/10/27

本物の咆哮には必ず精巧に構築された節度がひそんでいる  散文









深く沈みこむ感触はいつだってそこにあっただろう?俺は名前のない虫になり、沈殿の流動にしたがって思考能力に半分以上蓋をする。人間は脳味噌など持つべきではなかったのだ、時々そう感じることがある―あらゆる芸術は本能を恋慕しながら、大概それを判りにくいものに変えてしまう。なにやら難しい説明がつかなければ誰も理解しようとも思わないようなものに。説明というものはし始めると喉がダメになるまでしなければいけないものだ。どんなに説明しようとそれを語りつくすことは出来ない。そもそもそれは語りつくせないものだからこそ、口語以外の何かの形を取って提出されたものであるからだ。死ぬまで説明するか、どんな誤解がそこにあっても黙って見過ごしてゆくことぐらいしか選択肢はない、たったそのふたつしかない。それ以外にもうひとつ付け加えるとしても、後はひとつだけだ。「すべてやめてしまうこと」それぐらいしかない。人々は芸術を欲しながら、それを読み解くことをしようとはしない。なぜだかそれは直感として理解できるものでなければならないと勘違いしてしまうのだ、往々にして。絵合わせパズルなら片手間に済ませるけれど、ジグゾーパズルになると「マニアックだ」という印象を持つ。無理もない。そもそもが狼であれば遠吠えで済むようなことを、俺たちは到底必要とは思えないほどの言葉や絵具や音符を使って何とか形にしようとしているのだから。が、しかし。直感だけですべてを判断してしまうのなら遠吠えを捨てたことにあまり意味はない。それなら獣のままでよかったはずなのだ。どうして俺たちは言葉を垂れ流してしまうのか?それはそうすることによってのみ得られる本能があるからに違いない。俺はそれを本能と呼ぶ。さまざまなジャンルにおいて、「ハイ」と呼ばれるそれのことだ。ランナーズ・ハイ、クライミング・ハイ、マーダーズ・ハイ…おっと、最後のは余計だったかもな…ある種の高み、もしくは状態にたどりつき、それを維持するといった現象に対する渇望は、俺たちの魂がまだ野性であることを証明している…ロック・ミュージック、なんてジャンルもあったな…デヴィッド・ボウイはそいつのことを「バタフライ・ナイツ」と呼んでいたっけ?ああまったく気取ったイギリス人だよな。獣と言うとき人はそれを暴力でもって理解することが多い。しかしそんな理解には何の意味もないのだ。先にも言ったように、人間である理由すら希薄だ。どうして野性を呼び起こすことに芸術が有効なのか?そこにはまず理性があるからだ…人間が持ちうる最大の牙―それが理性と呼ばれるシステムだ。もちろん、それはクールという感覚と同じではない。理性と言うと、人はエリート的な感覚を想像するかもしれない。でもそれは間違いだ。それすら直感が生み出す産物に過ぎない。では理性とは何かと言うと、それはコントロールシステムのようなものだ。一通りのプログラムがあり、それを効率よく管理することの出来るシステム、それが理性だ。優れた理性というのは車の運転に例えれば、「ひとつ間違えば命取り」の猛スピードの中にありながら、「ひとつも間違わずに」運転を遂行することが出来るシステムだ。理性を用いて本能にたどりつこうとするとき、俺たちは徐々に回転数を上げていきながら、間違わないようにステアリングを操る。ひとつも間違えてはならない、ひとつ間違えるとそれは命取りになる。メイク・ノー・ミステイクス。しっかりと先を見極めろ。構築され続ける世界は正しい方向に進んでいるか?このまま速度を落とさずにどこまで進んでいくことができるか?―そうだ、理性と野性は完全に別物というわけではない。理性の中には多少の野性があるし、野性の中にも多少の理性がある。人間が本能への扉を求めるとき、必ず理性を使用しなければならない理由はそこにある。そのプログラムは必ず関連付けられていなければならない。拳や、牙や、咆哮でもって野性であろうとするなら、そいつは猟銃で撃たれるべきだ。だって、表面的な獣に過ぎないのだから。しかも、どの獣にもおそらく勝つことは出来ない―彼らに命を賭けることなんて到底出来はしないから。本物の獣たちは必ず生命を天秤の上に乗せて牙を向き合う。それに比べたら人間の中に潜む「単純な獣性」などお遊びに過ぎないことは言うまでもないだろう。ここにいま、この文章の中に俺のれっきとした獣性が潜んでいるのが判るだろうか?拙いながらも、理性を用いて、本能の領域にアクセスを試み、どうにかこうにか浮上しようとしている俺の獣性が理解してもらえるだろうか?内なる荒野の中に住む獣。それは数万もの経験や言語や旋律を持ってしてでしか嗅ぎ取ることが出来ないものだ。ワード・プロセッサが唾液を垂らし始めるまで俺はこれを止めることは出来ない。これはどこの誰にとってどんな価値があるだろう?時々そんなことを考えることもある。価値とは重要なものだ。それは真実の意味での名刺のようなものだ。臓腑に例えるなら脈を打つ心臓の振動だ。そもそも俺の心臓は、俺の身体の中でしか意味を持たないものだ、そうだろう(もちろん医学的な手段を用いれば他の誰かにも意味を持つのかもしれないが)?―いま自らが吐いた「移植」というフレーズが妙に気になって、それまでこのあとに書こうと考えていた事柄をすっかり忘れてしまった。しかしなるほど、この言葉を使うほうが俺がいまから言わんとしていることは格段に伝わりやすいだろう―それが理解の領域まで到達するかどうかは別として。つまり、俺は移植先もそんなに決まることのない臓腑を電脳領域の中で何度も何度もばら撒いているのだ、これはある種の移植手術のようなものなのだ―そうだ、そう考えてみると確かに、俺がこうしてばら撒いている臓腑のいくつかの箇所は、過去に誰かのフレーズや旋律によって移植された臓腑なのだ。だから俺はそれをこんなにもばら撒きたがる―沈殿の流動にしたがって思考能力に半分以上蓋をして。吐き出すということは意思だ。俺は意思を周辺へ投げつけている。どんな効果があるのかも判らずに。なぜそんなことをするのかが疑問といえばささやかな疑問だった…俺は過去にそうやって投げ出されたものを受け取ったことがあったのだ、何度も、何度も。どうする、俺の理性、俺の獣性。こうしてあとどれくらい投げ散らかすことが出来るのだろう、俺は受け取ったものほどの価値を投げ出してはいないだろう。もしかしたらそこら辺を汚すだけの結果に終わるかもしれない。が、そんなことは気にするようなことでもないような気がする…だって、吐き出してしまえばあとはそれは俺のものではないから。街頭で配布されるさまざまな宣伝行為、その中で受け取る告知にしたって受け取るやつらにとって価値は代わるだろう。価値を限定しようとするなんてもっとも愚かなことだ。そして、限定された価値を鵜呑みにしてしまうことも。俺はゆっくりと沈殿する。この世のものではない場所は、地球を突き抜けるほどに沈み込んだ場所にあるらしい。それは地の果てであると同時に天の果てでもあるという―理解できるか?理解なんてたいして重要な事柄ではない。それをどういう風に受け止めるのか、それこそが最も重要なことなのだ…ひとつの言葉がひとつの事柄についてだけ語っていると思ってはいけない。理解する・しないなどといったところで、まじないが利いたか利かなかったかと感じることと大して違いはないのだから。










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