ピーナッツバタートースト  小説







 ちょっと焦げたピーナッツバターが乗ったトーストとカフェオレの為ならなんだって出来る、とマリはいつもふんぞり返って話してた。「あたしにとって人生で大事なものはそれだけなのよ」って。実際、一日に二回(朝は寝ていたから二回)の食事がそれだけという日も週に何度もあった。どれだけ捻っても雨漏りぐらいのお湯しか出てこないようなシャワーしかついてない、トイレの水は流すたびに便器の根元から水漏れする、キッチンのガスコンロは油断するとすぐ消えている、窓はもともとそういう模様だったのかと思えるくらいにまんべんなくひび割れていて、ソファーは虎が爪とぎに散々使ったあとみたいに破れまくって、元の布地は何色だったのかなんてもう全然わからない。踏みしだかれた埃がフローリングに吹雪の絵みたいに張り付いて穴だらけの床。五階建ての二階だから本当の雨漏りだけは味合わずに済んだ、そんな部屋で暮らしているくせに、パンを焼く機械だけはフランスのものすごくいいやつを食卓にでんと置いていた。おんぼろの部屋でピカピカに輝いているそれは、あたしからすればスラムに降り立ったUFOかタイムマシンみたいに見えた。マリはそれを買い、上等のパンとコーヒーとバターの為に週に三日、手だけで男をイかせる仕事をしていた。まだ十八になったばかりだっていうのに。その仕事に行き着くまでにどれだけの「なんだって」をしてきたのかは謎だった。でも、きっとそんなに偉そうに話せるほどのことはしてきていないに違いなかった。いつか痛い目に遭うわよってあたしは何度も忠告した。
 「ナイフで脅されて、無理やり突っ込まれて、終いには殺されるかもよ。」
 あたしがそういう度にマリはお馬鹿さん、というようなムカつく笑みを浮かべて
 「大丈夫よ、あたしのボスはとても良くしてくれるの。お客はみんな優しい、綺麗な男の子ばかりよ。」
 「綺麗で優しいからってナイフと性欲を持っていないとは限らないわ。」
 ふんだ。
 「あんたなんて二回ぐらいしかセックスしたことないくせに。」
 それがマリの決め台詞だった。相手が誰かってこともマリは知っていた。あたしとマリは高校の時からの付き合いだから、お互いのボーイフレンドのことも、どこまで行ったのかってことも、大体のことは知っていた。本当にあたしをやっつけたいときには、そいつの名前を口にすることもあった。でもそれで何度か絶交したから、最近はあまり言わなくなった。担任のお情けで卒業して、遊べる友達がみんなどこかへ出て行って、この街にはあたしくらいしか残っていなかった。あたしは学生の時からバイトしてたレストランの居心地が好きだったから、ずっとそこに通っていた。いつか出て行きたいと思うこともあるかもしれないけれど、いまはそんな暮らしが気に入っていた。都会に行ってお洒落な仕事に就きたいとか、大富豪と結婚したいとか、アーティストになるとか、クラスメイトが話している夢はどこか馬鹿馬鹿しく思えて、ただなんとなく毎日を生きていけたらいいかななんて考えていた。年寄りみたい、とマリはそんなあたしをよくからかった。あんたは売女みたい、ってそのたびにあたしは返した。あたしたちは特別気が合うということはなかった、むしろ、まるで違っていて、そのことが面白かった。そして、どちらにもそれを取り繕う気がなくて、お互いに遠慮がなかった。普通の仲良しとは違っていたかもしれない。だからあたしもマリもお互いを親友だなんていうふうには言わなかった。「腐れ縁」そんな言葉が凄くしっくり来る関係だった。あたしは卒業と同時に堅物の親の家を出て、自由に暮らし始めた。ささやかなものだったけれどそれは自由に違いなかった。ことわっておくけれど、マリみたいにおんぼろなアパートメントじゃなくて、もう少しちゃんとしたところに住んでいた。もちろん、私の稼ぎで無理のない範囲でということだけど。マリは私に半年ほど遅れて親元を出て、私の住んでる区域の端っこに今の宿を見つけた。勘当されたって噂で聞いたけど本人には聞かなかった。お休みの日がちょっと騒がしくなるかも、そんな風に思ったことを覚えている。なんだかんだで楽しい日々だったと思う。時々は二人でちょっとした旅行をしたりもした。馬鹿みたいに並んで写真をたくさん撮った。どうしてあんなことしたんだろうっていまでも時々思い出す。でもあの時は少しも不思議に思わなかった。

 二年くらいそんな日々が続いて、マリは客の一人だった男と付き合い始めた。ある日突然マリの家に呼ばれて出て行ったら、モデルみたいな綺麗な男が居て、よろしくと挨拶した。綺麗なだけでなんの特徴も無い男だった。少なくともあたしにとっては。
 「彼はとても優しいのよ。」
 マリは馬鹿みたいな顔でそんなことを言ってた。

 その年の冬、クリスマスやらニューイヤーやらであたしの勤めてる店は凄く忙しかった。おまけにベテランのウェイトレスが突然病気退職したせいで休みも取れなくなって、毎日十二時間働いては帰ってシャワーを浴びて眠り、起きては出かけてまた十二時間働いた。ケーキもカウントダウンもまったくない、地獄みたいな十二月が駆け抜けたあと、騒ぎ疲れた一月の街をぶらぶらと歩いていると、少し先におかしな歩き方をしている若い女が居るのに気付いた。マリと同じコートを着ていたから余計に目立った。それはマリだった。
 「マリ?」
 あたしは叫んで駆け寄ろうとしたけれど、マリは聞こえなかったのか、聞こえたけど無視したのか、近くの角へ入ってすぐに見えなくなった。追いかけてみようか、それとも家を訪ねてみようかと思ったけれど、約束があったから日を改めようと思って家に帰ったその晩から私は熱を出し、数日寝込む羽目になった。きっと、忙しい時間が終わったことで気が抜けちゃったのね。

 熱は数日で引いたけれど、店長があたしを気遣ってもう数日の休みをくれた。あたしが休んでいる間に新人が入ったって。すごく出来る子だから心配しなくて大丈夫だよって。あたしはお言葉に甘えることにして、マリを訪ねてみることにした。最後に見かけたあの後ろ姿が気になっていた。少し細くなったみたいにも見えたし、なにより、歩き方もそうだけど悪い病気にでもなったみたいにあたしには見えた。あの男かしら、とあたしは考えた。

 マリの部屋の鍵は、かかっていなかった。そんなことは度々あったからそんなに深く考えずに部屋に入った。キッチンでマリがうつ伏せに倒れていた。今まで嗅いだことのない臭いが微かにした。マリの頭はへこんでいて、すぐそばに、マリの人生の象徴だったあのトースターが転がっていた。あたしは腰を抜かして、動けなくなった。這うようにそこを離れて他の部屋のドアを片っ端からノックした。三つ隣のおじさんが出てきてくれた。電話を貸して下さい、と頼むと、すぐに部屋に入れてくれて、コーヒーを出してくれた。きっとあたしは酷い顔をしていたのだろう。なにがあったのか、と聞かれたので、友達が殺された、とあたしは答えた。どの部屋かね、とおじさんが言うので、部屋の番号を教えた。おじさんは部屋を見に行って、帰ってきて、警察に電話をかけた。それからあたしを病院に連れて行ってくれた。

 犯人はやっぱりマリの男で、前科持ちだった。母親を殺しかけたとか。あたしはひと月ぐらい何もする気になれなくて、ずっと勤めていたレストランもやめてしまった。暖かくなったころマリの住んでいた部屋に行ってみた。不思議なことにまだそのままになっていた。マリが生きていた形跡はすっかりなくなってしまっていたけれど、あのトースターはテーブルにきちんと置かれていた。人の頭を砕いたというのに、買ったときのまんまみたいに見えた。ただ、すごく埃が積もっていた。あたしはキッチンの引き出しの中のタオルを出して、トースターを何回も何回も拭いた。あたしが彼女にしてあげられることはそんなことくらいだった。そうしてそれを拭いているととても涙が出た。最後には、あたしはそれを抱きしめて子供みたいに泣いていた。

 いま、そのトースターはあたしの部屋にあって、マリのようにあたしを見つめている。あたしは時々それでピーナッツバターをたっぷりと塗って少し焦がしたトーストを作る。カフェオレは嫌いなのでコーヒーを入れる。トーストもコーヒーも、すべてが温かく、それはマリが生きているとあたしに思わせてくれる。あたしは首を横に振る。親友なんて小奇麗なものじゃなかった。それは確かに腐れ縁という言葉が相応しい関係で、お互い正反対の性格で、そんなお互いがあたしたちは大好きだった。穏やかな朝に涙を拭きながら、あたしは初めてこの街を出て行くことを考え始めていた。

                         




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月の下、ふたつの孤独  小説








 周辺の木々が溶け込んでいるせいで、夜の闇は微かなグラデーションを描いていた。かつては堅牢だっただろう鉄の門は、血を被ったみたいに赤く錆びて、左側は門柱に繋がる可動部分のところから壊れて落ちていた。その奥に続く上り坂は、四方八方に伸びた草が作り出すトンネルに覆われてどこまで続いているのか判らなかった。小さなマグライトで辺りを照らしてみたが、それがどんなものの入口なのか教えてくれるものはなにもなかった。いつもならそこで引き返していただろう。でもその時の俺はなにか、そのまま帰りたくない気分だった。二年前から突然始まった不眠、夜を凌ぐための散策にもそろそろ飽きていた。このあたりで少し、気分を上げてくれるような凄いものを見つけてみたくなっていたのだ。適当な長さの木の枝を拾って、前方を払いながら少しずつ進んだ。主の居なくなった蜘蛛の巣や、折れた枝や落葉が積もりたいだけ積もった路面を、小さなマグライトひとつで歩くのは骨だった。けれど、不思議なほど引き返す気にはならなかった。はっきりとは言えないが、もともとは二車線程度の舗装道らしかった。テーマパークだろうか、と俺は予想した。それにしては山奥過ぎる気もしたけれど―果たしてそれは予想通りで、半時間も歩くとありがちな夢の国へのゲートが見えた。失笑を呼ぶような貧相なキャラクターが巨大な看板に描かれて俺を見降ろしていた。十年近くこの土地に住んでいたけれど、そんなものがあるなんて知らなかった。俺は廃墟好きで、インターネットでもよくそんなものを見るけれど、おそらくそんなサイトにも取り上げられたことはない場所だろう…それに、廃墟サイトも以前ほど盛り上がっていないし。ともあれ、眠れない夜の余興にはもってこいの場所だった。俺は子供のように浮かれた気持ちになりながら入口を潜った。ゲートのところに閉園の挨拶が残されていた。必死で読んでみようとしたが、ほとんどが掠れて読めなかった。「19」という西暦の最初の二文字が読めただけだった。そんなもの、なにも判らないも同然だ。

 様々な有名どころの美味しいところだけを取ろうとして、すべてが中途半端に終わっているようなアトラクションの数々だった。けれど、電気を止められ、二度と動くことなく錆びついていくだけのそれらはたまらなく魅力的だった。無機物の死体は腐ることはない、人間と違って。彼らはおそらく生涯よりも長い死を生きるだろう。楽し気に彩られた動物を模した乗り物の表情は、そんなことを語りたくて笑い泣きをしているみたいに見えた。開けているせいで月の光を遮るものが無く、散策には困らなかつた。土産物屋やレストランに入り込んで、休憩をしながら二時間ほどが過ぎた。

 メリーゴーランドのゴンドラに乗り込んで休んでいる時だった。背後のガラスがノックされた気がした。風かなと思って振り返ると、汚れた窓からこちらを覗き込んでいる女が居た。ぎょっとしたが、足音がしたので生きているんだと思った。
 「なにしてるの、こんなとこで。」
  女はそう言いながらゴンドラの中に入って来て、俺の向かいの椅子に腰かけた。顔の輪郭を覆うくらいのボリュームのないショートヘアーで、切れ長の鋭い目をしていた。
「なにって…暇潰しかな。」
 「良い子は寝る時間。」
 「生憎不眠症なんだ。」
 あらら、と女は目を大きく開けた。まだ二十歳にはなっていないだろう。
 「本当に居るんだ、そういうひと。」
 俺は苦笑した。
 「俺もそう思ったよ。医者に言われたとき。」
 ふふふ、と女は楽しげに笑った。
 「おじさん名前は?」
 「湯江。」
 ゆえ?と女は首を傾げた。
 「それ、苗字?」
 俺は頷いた。
 「名前は?」
 「升。」
 「みのる。」
 「変な名前。」
 俺は同意した。
 「役所とかでよく聞かれる―外国のかたですか?って。」
 今度はあはは、と笑う。失礼なもんだが、悪気は感じられなかった。
 「仕方ない。」
 「そうだね。君の名前は?」
 「優衣。」
 「苗字は?」
 「捨てた。」
 「ふうん。」
 いろいろあったんだろうな、と思って俺は何故か聞かなかった。優衣は、それが気に入ったようだった。少し親密な感じになってにんまりと笑った。
 「とっておきの遊びがあるんだけど、やってみる?」
 「それって…」
 「いやらしいおじさんが考えるようなことじゃないよ。」
 俺は苦笑した。
 「それなら、やってみよう。」
 優衣はさらに俺を気に入ったようだった。

 数分後、俺たちはジェットコースターの乗り場に居た。それほど大きくはないコースターが、俺はどうしてまだここに居るんだろうというような顔をしてもう来ない客を待っていた。優衣はその車両の前に降りた。
 「あたしが走って逃げるから、おじさんは捕まえて。鬼ごっこ。」
 「マジかよ。」
 優衣はにやにやした。
 「怖い?」
 「そりゃ、怖いよ。錆びてるぜ、このレール。」
 「それは大丈夫。あたし毎日ここ走ってるけど、どこもおかしくないよ。色が変わってるだけだよ。」
 優衣は挑戦的な笑みを見せた。判ったよ、と俺は言った。
 「お前を信じて、やってやる。」
 そう来なくっちゃ、優衣は叫んで、レールの上を全速力で駆け始めた。

 月明かりに照らされた廃遊園地のジェットコースターのレールを俺たちは躍起になって走った。優衣は時々振り返って、俺がきちんとついて来ていることを確認した。俺は初めこそ恐る恐るだったが、吹っ切った今となっては全速力でも走れるようになった。ただ、日ごろの運動不足は如何ともしがたい。時々立ち止まって呼吸を整えなければならなかった。俺がそうなると優衣は走るのをやめて、窺うような仕草をした。もう追いかけっこじゃないな、と俺はまた苦笑した。というか、優衣のほうも初めからそのつもりではないみたいだった。追いかけっこは、このあとになにかを見せるための口実だろう。俺の目にはさっきからループ・コースが見えていた。あそこで優衣は、なにかを仕掛けるつもりなんだ。俺は立ち上がり、また走り出した。優衣も満足げにまた先を急いだ。毎日走っているというのは本当だろう。体力も、足さばきも見事なものだった。ループまでそんなにはかからなかった。そんなに大きなコースじゃない。普通に乗ればあっという間のものだろう…驚いたことに、優衣はレールに手をかけてそこを上り始めた。嘘だろ、と俺は呟いたが、その確かな動作に考えを改めた。まいったな、本気だよ…付き合うと言った以上、俺がそこで尻込みするわけにはいかなかった。決して上れないほどのものではないだろう。覚悟を決めて、優衣の後を追った。優衣はあっという間に頂上に達した。そして、これまた驚いたことに、そこから地上へとダイブした。
 「おい!」
 俺は恐怖も忘れて出来る限りの速度で頂上へと上った。そこから優衣が飛んだ辺りを見下ろしてみたが、そこはちょっとした林になっていて地面を見ることは出来なかった。さすがに飛び降りる気にはなれなかったが、なにかがおかしかった。優衣は自殺するようなタイプに思えなかった。それとも、俺にそれを見せることが楽しくてはしゃいでいたのだろうか?なにかがおかしい。俺は迷った。なぜか、あまり迷う時間はない気がした。優衣のしたことをそのままなぞってみるしかない。でも本当に―?時間に追われ、考えるのが面倒臭くなった。いま思うと本当に馬鹿げたことだが、俺はイチかバチかでそこからダイブした。

 落下のあいだ、いろいろなものが脳裏を通り過ぎた。そこには、不眠症の原因になったのだろういくつかの出来事もあった。そんなことはもう忘れていた。過去は俺から無くなっていた。おそらく、未来もそうに違いない。これが正しい選択なのかもしれない。このまま―そこまで考えたところで、俺は着水した。ゆっくりと川底に着き、反射的に蹴り上げた。ようやく水面に辿り着き、岸を見つけて這い上がった。そこに仰向けになって気持ちを落ち着けていると、優衣がどこかから現れた。当然、俺と同じようにずぶ濡れだった。優衣は年齢の判らない笑みを浮かべて、月の光を遮りながら俺を見降ろしていた。そして、飛んだんだ、と小さな声で言った。俺は誇らしげに頷いて見せた。冗談のつもりだったが、優衣は笑わず、俺に寄り添うように寝転んだ。
 「飛んでくれたんだ。」
 ああ、と俺は言った。
 「絶対、なんかあるんだろうと思ったんだ、なぜか。」
 優衣は少しの間俺の顔を見ていたが、やがて口元を両手で隠しながら笑った。なぜかそれは泣いているみたいに見えた。

 少し休んでから俺たちは歩いて、とある建物へついた。着替えがたくさんある、とのことだった。従業員のための施設らしい。俺たちは一番現実に近いクリーンスタッフのものを着た。もちろん少し離れて。それから優衣に誘われて展望台へ行った。草に塗れながら静かにフェイド・アウトしていく冴えない遊園地の全貌がそこに在った。手すりにもたれて俺はそれに魅入った。死んでいく遊園地。それと意味のない人間。
 「こっち見て。」と、優衣が言った。俺は優衣の方を向いた。
 「あたしと一緒に、ここで生きて。毎日追いかけっこして。誰にも知られずに、二人だけで生きて。」
 俺は黙って優衣の目を見た。それは悪くない選択に思えた。上手くは言えないが、そんな人生があってもいい気がした。世界はキュークツ、そんな歌があったことを思い出した。俺がすぐに答えないので、優衣は不安になったのか、いろいろなことを言った。果樹園もあるから食べ物には困らないとか、お風呂はさっきの川だとか。月はずいぶんと高くなって、色を失くそうとしていた。夜明けまできっと数時間程度だろう。









                                      了


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絆創膏と紙コップ  小説







 冴えない中年サラリーマンが、仕事帰りの屋台で誰に聞かせるともなく呟いている愚痴みたいな雨が、途切れることなく朝から降り続いた夏の夜だった。じめついた空気に我慢がならなくなって、眠るのを諦めて服を着替え、街に繰り出した。傘が必要なほどの雨ではなかったので、持って出なかった。ひどくなるようならコンビニに飛び込んで買えばいい。酒を飲むことしか楽しみがないこの田舎町の夜では、のんびり腰かけてコーヒーを飲むような店はまず見つけられない。家賃を浮かせるための、カウンターだけの狭い店が並ぶ飲み屋路地を歩いて、何度か飲んだことがあるバーのドアを潜った。まだ早い時間だったので、客は俺だけだった。若いころはこの街にも一軒だけあったディスコの店員だったというバーテンは、和製グラム歌謡が流行っていたころにテレビでよく見かけたバンドのフロントマンによく似ていた。社交辞令的な挨拶を二言三言交わして、小さいが分厚いクッションのついた丸いスツールに腰を掛けた。バーボンに氷を浮かべてもらって、小さく流れているフレンチポップスを聴きながらぼんやりと飲んでいると、半時間ほどして一人の男が店に入って来た。俺より十は上だろうか。地味だが着心地の良さそうなスーツを着た、小柄なわりにがっちりとした体格は、柔道でもやっているのだろうかという印象をこちらに与えた。彼は俺の二つとなりの席に腰を下ろし、同じように紋切り型の会話を少しだけして、水割りを注文した。それを一口飲むと、ビジネスバッグから紙コップを取り出して自分の正面に置いた。紙コップの中には何かが入っていた。薄暗い照明の下でよく判らなかったが、絆創膏のように見えた。男がどうしてそんなものを出したのかよく判らなかった。テーブルマジックでも始めるのかと思ったが、そんな雰囲気でもなかった。俺よりも少し早いペースでグラスを傾けながら、男はそれをずっと眺めていた。時々男の方に目をやっていた俺は、ふいにこちらを見た男と視線を合わせてしまった。男は気を悪くしたふうでもなく、笑顔で会釈をしたので、反射的に返した。
 「娘が成人して、嫁に行くんですよ。」
 これは、幼い娘との思い出の品なんです。紙コップを手に取って男はそう言った。それはおめでとうございます、と俺は返した。ありがとうございます、と男は嬉しそうに笑った。
 「可愛い娘でした。親バカかもしれませんが、目鼻だちのくっきりした、母親似の顔でね。自慢の娘ってやつですよ。二十年間、ずっと可愛い娘のままでした。とうとう、家を出て行くんですよ。」
 男の話し方にはどこか違和感があった。すべてが過去形だったからかもしれない。だけど、そんな話し方の癖は珍しいものでもないし、第一お互いに酒を飲んでいるのだ。気のせいだと言えばそれで済む程度のものだった。ぼくには子供は居ないけれど、と俺は話を続けた。
 「嬉しくも寂しくもあり、というものですかね。」
 男は大きく頷いた。
 「連れはすでにあっちに行ってましてね。ひとりぼっちですよ、この歳で。」
 俺はなんと返せばいいのか判らず、それはそれは…という感じの曖昧な返事をした。ジェーンバーキンとセルジュゲンズブールの悪名高いポップスが流れていた。
 「お仕事は何をされているのですか?」
 暗い会話になってしまったことを気まずく思ったのか、男は突然話題を変えた。小さなレストランのコックです、と俺は答えた。
 「私も昔やってたんですよ。」
 それからしばらくは食いものの話に花が咲いた。水割りを二杯飲んで男は帰って行った。俺も同じものをお代わりして、それをゆっくりと空けてから帰った。


 翌日の午後のことだった。午前中の営業を終えて、急遽必要になった食材の買出しに行った帰り、大通りの交差点で激しいブレーキの音を聞いた。砂袋が投げ落とされたような鈍い音が続いて、遠い横断歩道の端に野次馬が集まった。スマートフォンのカメラのシャッター音がいくつか聞こえた。事故か。そんなものを気にしている暇はなかった。急いで店に帰って、午後から夜までの営業の支度をしなければならなかった。


 それからしばらくはどんなことも起こらなかった。俺は毎日店に出かけ、時々何をやっているんだろうと思いながら大量の食材を温めたり切り刻んだり捨てたりした。何をやっているんだろうという思いにとらわれないくらいの経験は積んでいた。人生にはあまり意味を求めるものではない。日常に転がっていることの大半には大した意味はない―まあ、そんなことどうだっていいことだけど。浮かれた夏に人々が疲れを見せ始めて、風が少し涼しくなり始めた秋のはじめ、俺はまた気まぐれにあのバーに顔を出してみた。ああ、とマスターが笑顔で会釈した。スツールに座って、注文をし、ぼんやりと飲んでいると、マスターが話しかけてきた。
 「このまえここでご一緒したお客様のこと、覚えてます?」
 紙コップの?と俺が言うと、マスターは頷いた。
 「あの人がどうしたの?」
 亡くなられました、とマスターは言った。え、と俺は驚いて返した。
 「いつ?」
 「ここであなたと話した次の日ですよ。車に飛び込んでね。自殺です。」
 「すぐそこの交差点?」
 「そうです。私はここで人に会う約束があって、昼から出て来ていたんですよ。たまたま目撃することになってしまって。」
 「そうなんだ…。」
 奇妙な感覚だった。別に知り合いというわけでもない、少しここで話をしただけの、名前も知らない男。けれどあの時は確かに生きていて、俺と言葉を交わしたのだ。少ししょぼくれてはいたけれど、ひとりぼっちになったからって死を選ぶような人間には見えなかった。それは実に奇妙な感覚だった。情報は非常に少ないのに、死という絶対的な事実だけが自慢気に伸し掛かっていた。
 「娘さんも可哀想にね。」
 ん、ん、とマスターが奇妙な相槌を打った。なに?と俺は聞いた。
 「あの人の娘さん、亡くなってるんですよ…五歳の時に。」


 「どういうこと?」
 「彼の車で家族旅行に出かけましてね。母親は仕事の都合で後に合流することになってました。高速道路で、酒気帯びのトラックがおかしなタイミングで車線を変更して…運転席に激突して、彼は大怪我を負いました。娘さんは助手席に居たので、かすり傷で済んだのですが、ドアを開けて外に飛び出して、後続車に撥ねられました。手当をしようとしたのか、意識を失っている彼の横には、水の入った紙コップと、絆創膏が置いてあったそうです。自分の手には負えないと思って、助けを呼びに行こうとしたんでしょうね。」
 俺は飲むのも忘れてマスターの話に聞き入っていた。「娘が成人して嫁に行く」と笑った彼の顔を思い出した。おそらくあの日は、「生きていれば二十歳」の誕生日だったのだろう。
 「ようやく意識が戻って、傷が治ってから彼は娘さんのことを聞かされました。退院してからたまたま、愚痴を言いに来たのがこの店でしてね。そのときにそんな話を、聞きました。」
 俺は黙って頷いた。
 「それから何度か辛くなるとここに来て飲んで行かれたんですよ。何年かして奥さんが病気で亡くなられたときに、『娘が二十歳になるまでは生きる』って言っておられました。」
 マスターはそこまで言うと、ひとつ大きな息を吐いた。
 「その時もだいぶん飲んでおられたし…酔った勢いでのことだと思っていたんですけどね。」
 マスターの気持ちは充分理解出来た。けれど、そんなことがなんになっただろう?仮にあの男が、娘の二十歳の誕生日が終わったら自ら命を絶とうと考えていたところで、マスターや俺に何を言うことが出来ただろう?そんなことどうすることも出来ない。出来ないし、それほどの繋がりもないだろう。こんなことを言うと冷たく聞こえるかもしれないけれど、と俺は前置きして、言った。
 「あんまり気にしないことだよ。彼の気持ちなんて俺たちには到底理解出来ない。」
 マスターは少しだけ首を横に振った。違うんですよ、と、小さな声で言った。
 「なんだって?」
 「彼に、最後まで聞けなかったことがあるんです―その、トラックの運転手っていうのは、私の兄なんですよ。」
 俺は驚いて声も出せなかった。そんなこと本当にあるんだな、そんなふうに考えていた。
 「あの人は知っててここに来たのだろうか、すべて判っていて、私に被害者としてのその後のことを聞かせに来たのだろうか。どうしても聞けなかった。どうしても…。」


 話はそれで終わった。味が薄くなった酒を飲み干して、俺は店を出た。高い空に小さな月が出ていた。星はネオンライトに隠れて、ほんのわずかしか見て取ることが出来なかった。客待ちのタクシーがたくさん並ぶ通りを抜けて、家へと続く小道へと歩いた。たくさんの見知らぬ死が少しの間まとわりついていた。けれどそれも眠ればきっとどこかへ行ってしまうだろう。





                       【了】



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