2018/9/12

絆創膏と紙コップ  小説







 冴えない中年サラリーマンが、仕事帰りの屋台で誰に聞かせるともなく呟いている愚痴みたいな雨が、途切れることなく朝から降り続いた夏の夜だった。じめついた空気に我慢がならなくなって、眠るのを諦めて服を着替え、街に繰り出した。傘が必要なほどの雨ではなかったので、持って出なかった。ひどくなるようならコンビニに飛び込んで買えばいい。酒を飲むことしか楽しみがないこの田舎町の夜では、のんびり腰かけてコーヒーを飲むような店はまず見つけられない。家賃を浮かせるための、カウンターだけの狭い店が並ぶ飲み屋路地を歩いて、何度か飲んだことがあるバーのドアを潜った。まだ早い時間だったので、客は俺だけだった。若いころはこの街にも一軒だけあったディスコの店員だったというバーテンは、和製グラム歌謡が流行っていたころにテレビでよく見かけたバンドのフロントマンによく似ていた。社交辞令的な挨拶を二言三言交わして、小さいが分厚いクッションのついた丸いスツールに腰を掛けた。バーボンに氷を浮かべてもらって、小さく流れているフレンチポップスを聴きながらぼんやりと飲んでいると、半時間ほどして一人の男が店に入って来た。俺より十は上だろうか。地味だが着心地の良さそうなスーツを着た、小柄なわりにがっちりとした体格は、柔道でもやっているのだろうかという印象をこちらに与えた。彼は俺の二つとなりの席に腰を下ろし、同じように紋切り型の会話を少しだけして、水割りを注文した。それを一口飲むと、ビジネスバッグから紙コップを取り出して自分の正面に置いた。紙コップの中には何かが入っていた。薄暗い照明の下でよく判らなかったが、絆創膏のように見えた。男がどうしてそんなものを出したのかよく判らなかった。テーブルマジックでも始めるのかと思ったが、そんな雰囲気でもなかった。俺よりも少し早いペースでグラスを傾けながら、男はそれをずっと眺めていた。時々男の方に目をやっていた俺は、ふいにこちらを見た男と視線を合わせてしまった。男は気を悪くしたふうでもなく、笑顔で会釈をしたので、反射的に返した。
 「娘が成人して、嫁に行くんですよ。」
 これは、幼い娘との思い出の品なんです。紙コップを手に取って男はそう言った。それはおめでとうございます、と俺は返した。ありがとうございます、と男は嬉しそうに笑った。
 「可愛い娘でした。親バカかもしれませんが、目鼻だちのくっきりした、母親似の顔でね。自慢の娘ってやつですよ。二十年間、ずっと可愛い娘のままでした。とうとう、家を出て行くんですよ。」
 男の話し方にはどこか違和感があった。すべてが過去形だったからかもしれない。だけど、そんな話し方の癖は珍しいものでもないし、第一お互いに酒を飲んでいるのだ。気のせいだと言えばそれで済む程度のものだった。ぼくには子供は居ないけれど、と俺は話を続けた。
 「嬉しくも寂しくもあり、というものですかね。」
 男は大きく頷いた。
 「連れはすでにあっちに行ってましてね。ひとりぼっちですよ、この歳で。」
 俺はなんと返せばいいのか判らず、それはそれは…という感じの曖昧な返事をした。ジェーンバーキンとセルジュゲンズブールの悪名高いポップスが流れていた。
 「お仕事は何をされているのですか?」
 暗い会話になってしまったことを気まずく思ったのか、男は突然話題を変えた。小さなレストランのコックです、と俺は答えた。
 「私も昔やってたんですよ。」
 それからしばらくは食いものの話に花が咲いた。水割りを二杯飲んで男は帰って行った。俺も同じものをお代わりして、それをゆっくりと空けてから帰った。


 翌日の午後のことだった。午前中の営業を終えて、急遽必要になった食材の買出しに行った帰り、大通りの交差点で激しいブレーキの音を聞いた。砂袋が投げ落とされたような鈍い音が続いて、遠い横断歩道の端に野次馬が集まった。スマートフォンのカメラのシャッター音がいくつか聞こえた。事故か。そんなものを気にしている暇はなかった。急いで店に帰って、午後から夜までの営業の支度をしなければならなかった。


 それからしばらくはどんなことも起こらなかった。俺は毎日店に出かけ、時々何をやっているんだろうと思いながら大量の食材を温めたり切り刻んだり捨てたりした。何をやっているんだろうという思いにとらわれないくらいの経験は積んでいた。人生にはあまり意味を求めるものではない。日常に転がっていることの大半には大した意味はない―まあ、そんなことどうだっていいことだけど。浮かれた夏に人々が疲れを見せ始めて、風が少し涼しくなり始めた秋のはじめ、俺はまた気まぐれにあのバーに顔を出してみた。ああ、とマスターが笑顔で会釈した。スツールに座って、注文をし、ぼんやりと飲んでいると、マスターが話しかけてきた。
 「このまえここでご一緒したお客様のこと、覚えてます?」
 紙コップの?と俺が言うと、マスターは頷いた。
 「あの人がどうしたの?」
 亡くなられました、とマスターは言った。え、と俺は驚いて返した。
 「いつ?」
 「ここであなたと話した次の日ですよ。車に飛び込んでね。自殺です。」
 「すぐそこの交差点?」
 「そうです。私はここで人に会う約束があって、昼から出て来ていたんですよ。たまたま目撃することになってしまって。」
 「そうなんだ…。」
 奇妙な感覚だった。別に知り合いというわけでもない、少しここで話をしただけの、名前も知らない男。けれどあの時は確かに生きていて、俺と言葉を交わしたのだ。少ししょぼくれてはいたけれど、ひとりぼっちになったからって死を選ぶような人間には見えなかった。それは実に奇妙な感覚だった。情報は非常に少ないのに、死という絶対的な事実だけが自慢気に伸し掛かっていた。
 「娘さんも可哀想にね。」
 ん、ん、とマスターが奇妙な相槌を打った。なに?と俺は聞いた。
 「あの人の娘さん、亡くなってるんですよ…五歳の時に。」


 「どういうこと?」
 「彼の車で家族旅行に出かけましてね。母親は仕事の都合で後に合流することになってました。高速道路で、酒気帯びのトラックがおかしなタイミングで車線を変更して…運転席に激突して、彼は大怪我を負いました。娘さんは助手席に居たので、かすり傷で済んだのですが、ドアを開けて外に飛び出して、後続車に撥ねられました。手当をしようとしたのか、意識を失っている彼の横には、水の入った紙コップと、絆創膏が置いてあったそうです。自分の手には負えないと思って、助けを呼びに行こうとしたんでしょうね。」
 俺は飲むのも忘れてマスターの話に聞き入っていた。「娘が成人して嫁に行く」と笑った彼の顔を思い出した。おそらくあの日は、「生きていれば二十歳」の誕生日だったのだろう。
 「ようやく意識が戻って、傷が治ってから彼は娘さんのことを聞かされました。退院してからたまたま、愚痴を言いに来たのがこの店でしてね。そのときにそんな話を、聞きました。」
 俺は黙って頷いた。
 「それから何度か辛くなるとここに来て飲んで行かれたんですよ。何年かして奥さんが病気で亡くなられたときに、『娘が二十歳になるまでは生きる』って言っておられました。」
 マスターはそこまで言うと、ひとつ大きな息を吐いた。
 「その時もだいぶん飲んでおられたし…酔った勢いでのことだと思っていたんですけどね。」
 マスターの気持ちは充分理解出来た。けれど、そんなことがなんになっただろう?仮にあの男が、娘の二十歳の誕生日が終わったら自ら命を絶とうと考えていたところで、マスターや俺に何を言うことが出来ただろう?そんなことどうすることも出来ない。出来ないし、それほどの繋がりもないだろう。こんなことを言うと冷たく聞こえるかもしれないけれど、と俺は前置きして、言った。
 「あんまり気にしないことだよ。彼の気持ちなんて俺たちには到底理解出来ない。」
 マスターは少しだけ首を横に振った。違うんですよ、と、小さな声で言った。
 「なんだって?」
 「彼に、最後まで聞けなかったことがあるんです―その、トラックの運転手っていうのは、私の兄なんですよ。」
 俺は驚いて声も出せなかった。そんなこと本当にあるんだな、そんなふうに考えていた。
 「あの人は知っててここに来たのだろうか、すべて判っていて、私に被害者としてのその後のことを聞かせに来たのだろうか。どうしても聞けなかった。どうしても…。」


 話はそれで終わった。味が薄くなった酒を飲み干して、俺は店を出た。高い空に小さな月が出ていた。星はネオンライトに隠れて、ほんのわずかしか見て取ることが出来なかった。客待ちのタクシーがたくさん並ぶ通りを抜けて、家へと続く小道へと歩いた。たくさんの見知らぬ死が少しの間まとわりついていた。けれどそれも眠ればきっとどこかへ行ってしまうだろう。





                       【了】



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2018/9/9

キリストとフクロウ  小説







コンビニエンスストアの駐車場で鍵つきの車をかっぱらって、曇り空の下、国道を北方向へ二五時間休みなしに走り続けて辿り着いた先は、名もない樹海だった。バックシートを漁ってみると同乗者の荷物のなかに財布があったので、少し戻って営業している廃墟みたいなコンビニでパンとコーヒーを買い、駐車場で食べた。ディズニーの小人みたいなレジの婆さんと俺以外どこにも人間は見当たらなかった。人間よりも野生動物の方が多いに違いないだろう、そんなところだった。こんなところに住んでいる連中はいったいどんなことをして毎日を過ごしているんだろう?農家だろうか。一日中、米や野菜を育てて、それを食って生きているのだろうか。それは至極シンプルな、素晴らしいことのように思えると同時に、非常にハイクオリティな動物の暮らしだという気もした。でも本当はどちらかなんてどうだってよかった。腹が膨れるとすぐに車を走らせた。ゴミは助手席に置き去りにすることにした。樹海の近くには駐車場のようなものはなかったので、少し広くなっているところに適当に止めた。手ぶらで歩み入ると、このところ雨でぬかるんだ土が驚くほどに沈んだ。スニーカーで歩くのは苦労しそうだ。そう思ったが引き返す気にはならなかった。空は今日も曇っていた。いまにも雨になりそうな色だった。けれどこの森の中なら、さほど濡れることもないような気がした。管理されていない森なのだろう、木々のそれぞれが生存を争い、出遅れた木は腐って隙間に折り重なっていた。五分に一度はそいつらを乗り越えて進まなければならなかった。あっという間に身体は土にまみれた。それでも俺は休まずに進んだ。ここに辿り着いたのなら、ここなのだ。樹海の底は戦争の後のような隆起に満ちていた。つまずき、転び、喘ぎながら懸命に歩いた。そんなふうに森の中を歩くのは初めてだった。幼いころに遠足で歩いた遊歩道のことを思い出した。あれは森ではなかったんだな、そう思うと笑えて来た。今頃になって、俺はあれがインチキであることを知ったのだ。それは少なくとも、そのときの俺にとってはとてもよく出来た笑い話だった。一時間ほど歩くと隆起が少なくなった。それはまるできちんと聖地された植林のようだった。平坦な地面の上に、等間隔にすらっとした脚のような真っ直ぐな木々がまるで指示を待つ軍隊のように整列していた。(おそらく俺は来てはならないところへ来てしまったのだ)そんな気がした。誰かの森だとか、土地だとか、そういうことではない。そこは人間が訪れてはならない場所だった、そんな気がした。しばらくの間そこに佇んでいた。それ以上の進行を許されようが許されまいが、先へ進むつもりだった。けれどひとたび油断すると、その場所に飲み込まれてしまいそうな気がして、なかなか踏み出せなかった。雨が降っているようだった。頭上で雨粒が木々の葉を鳴らす音が聞こえていた。地面まで落ちてこないところを見ると、たいした降りではないのだろう。雷が一度鳴った。それが合図だった。俺は聖域に踏み込んで先を急いだ。身体が冷えて寒くなってきたことも理由のひとつだった。聖域を抜けるとそれまでのような荒れ果てた森に戻った。そしていままでよりもきつい傾斜があった。とにかくこの坂を上り切ることだろう、そう思った。不思議と疲れは感じなかった。目的に向かって進んでいるという気持ちが、身体を前へ前へと動かしていた。うっすらと霧がかかっていた。雨はもう止んだのだろうか。俺はここを歩きながら、ここではないどこかにいるような気がしていた。確かに息を切らしながらそこを歩いているのに、本当はもうまるで違うところに居るのではないか、そんな気がしていた。街から、他人から、慣れた場所から離れ過ぎたせいなのだろうと思った。スマートフォンを取り出して時間を確認した。もうすぐ昼になるところだった。そして電波はもう拾えていなかった。プレイヤーを起動して、純粋だったころのU2のアルバムをフルボリュームで流しながら歩いた。聖域を孕んだ得体の知れない樹海で聴くのに適した音楽なんてそれしか思いつかなかった。アルバムが二周したところで、ようやく道の終わりがあった。


そこは開けていて、根っこからすべて刈り取られたみたいにあらゆる草が存在しなかった。下に岩があるのか、土の感触は浅かった。その真ん中に、俺の背丈と同じくらいの木の枝が落ちていた。それは少し身をよじった十字架のような形だった。十字架か、と俺は思った。十字架にはキリストが必要だろう…。俺は森の方に少し戻り、折れた枝をいくつか、それと割れた石を持って広場(そう呼ぶことにした)に戻った。石で拾ってきた枝の先を削り、十字架の脇と背に突き刺して立たせるようにした。それだけで夜になった。俺は眠ることにした。真夏の夜のせいか、あまり寒さは感じなかった。これまでないくらいぐっすりと眠ることが出来た。自分の魂が身体から抜け出して、どこか遠い空を彷徨っているみたいなそんな眠りだった。夜明け前の寒さと、控え目な白さのせいでゆっくりと目が覚めた。習慣的に顔を洗おうと思ったが水溜りすら近くには見当たらなかった。なのですぐに割れた石を手に取り、十字架にかけられたキリストの制作に取り掛かった。いままでに木工彫刻の経験があるのかって?まるでない。小学校の時に彫刻刀で鮫を彫ったことがあるくらいだ。あのころはジョーズが流行っていたからな。「ブルー・サンダー」のロイ・シャイダーが、鮫と戦っていたあの男だって知った時は、結構驚いたな、なんて、集中して何かをやっているとどうでもいいことを思い出す。そんなわけで俺はまともな彫刻なんぞやったことはなかったが、いまは子供じゃない。時間を掛けて、丁寧に進めれば、初めてのことだってそこそこ上手くやることが出来ると知っている。まあ、時間を掛けることを良しとしない連中の方が、世の中には大勢いるわけだが。分刻み、秒刻みに結果を追い求めていると、それだけの成果しか得られないものだ。世界が単細胞で溢れ始めたのは、そうしたタイムテーブルが当たり前になったせいだろう。ところで、キリストを彫ろうと思ったらどこから始める?俺は顔からにした。その方が早めに気持ちが入りそうな気がしたからだ。そういう作業というのは面白いもので、やればやるほど出来てないところが目につく。人間の目を納得がいく形に彫り上げることが、どれだけ困難なことか想像がつくだろうか?キリストの両目を彫り上げるころには夕暮れが近付いていた。疲労を感じたが、作業を続けたかった。夜が来ることがもどかしかった。また枝を集めて焚火でもしようかと思ったが、マッチもライターも持ち合わせてはいなかった。俺は煙草を吸わないのだ。諦めて眠ることにした。慣れれば陽のあるうちに上手く彫り進めることが出来るだろう。


鼻、口を彫り終わるのは簡単だった。もちろん、目に比べればという程度のことだが。それから髪の毛に取り掛かった。これが一番手間だろうという予想はついていた。ただ、石の扱いに慣れてきたせいか、思ったよりも時間はかからなかった。二日と少しで髪の毛と冠が出来上がった。少し離れてイエスのご尊顔を仰いでみた。悪くない出来だった。初めてにしちゃ上出来だ。神経症的な集中力が、コインゲーム以外で初めて役に立った。一息つくととんでもなく腹が減っていることに気づいた。森に入り、木の実らしきものや草、それから食べられそうな茸を適当に引き抜いて食べた。水はいまのところ、時々降ってくる雨で足りていた。それから一度眠った。それが実質俺の最後の食事であり、眠りだった。夜中にフクロウの声で跳ね起きた。美しい月が出ていた。これまで見たこともないようなでかい月だった。高価な絵本の中でしか見たことがないような月だ。クレーターまではっきりと確認することが出来た。俺は頭がおかしくなっているのだろうか、と思った。もう昼も夜も判らないようになって、幻覚を見ているのだろうかと。でもそんなことはどうでもよかった。目が効くのなら、やることはひとつだけだった。


それからいくつかの朝と夜が入れ替わり、激しい雨が降って強い陽射しが照りつけた。けれど不思議と夜には狂ったように明るい月が出て、おかげで俺は手を止めることなくキリストを彫り続けることが出来た。疲れは感じなかった。とにかくこれを完成させたかった。キリスト教徒でもなんでもなかった。むしろそんなものは馬鹿にしていた。でも、キリストの馬鹿正直さにはどこか憎めないものを持っていた。教会も好きだった。子供のころ、住んでいた家の近くに朽ち果てた教会の廃墟があり、よくそこに忍び込んでは高い天井を眺めていた。神なんてものは正直理解出来なかったけれど、高い、ステンドグラスをはめ込んだ窓から差し込む陽の光や、荘厳とした雰囲気は俺の心を捕らえて離さなかった。その教会は俺が小学校の高学年になる頃に取り壊された。思えばそこから俺はどこにも行けなくなったのだ。ああ、あそこか、と俺は思った。あの教会が俺をここまで連れてきたのだ。あそこに住んでいたなにかが、俺をここで十字架のように倒れた木の枝に引き合わせたのだ。それはもう思い出ではなく示唆に満ちたなにかだった。俺はもう瞬きすらしていなかった。懸命にキリストを彫り続けた。もう自分がなにをしているのかすらよく判らなくなったころ、それは出来上がった。


朝だった。月が出たまま雨が降り続けた、なにもかもが光を弾く早い朝だった。しゃがみこんだ俺の目の前には磔にされ、打ち付けられた手のひらと足の甲と。唇から血を流しながらうっすらと微笑んでいるキリストが立っていた。俺の手によって生まれた神を眺めながら、俺は馬鹿みたいににやにやしていた。「天にまします我らの神よ」俺はそう呟いた。でも続きを知らなかった。どこかで鈍重な羽ばたきの音が聞こえて、一羽のフクロウがやってきた。キリストの顔と同じくらいの大きさだった。そいつはキリストの肩に止まり、まずまずだというように首を左右に回した。「朝だぜ」俺はそいつに話しかけた。「なにやってんだよ」信じてもらえるかどうか判らないが、そいつは嘴を左右に広げてにんまりと笑った。それで俺は話すことを諦めた。


キリストとフクロウがそうして俺を見下ろしていた。俺は自分のしたことに満足していた。もっとなにか、自分に出来ることがあるような気がした。けれどもう指先すら動かすことは出来なかった。





                            【了】







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2017/4/11

どこに居るの、沙織。  小説

      














その建物について、詳しいことは何も判らなかった、その土地を流れる大きな川の、河原から何も無い野っ原へと続く坂道に沿うように建てられた平屋造りで、右側の端に川を目指しているかのように突き出された正方形の部分があった。要するに、真上から眺めると反転させたLの字だった。突き出された部分は厨房施設で、そこから、角を曲がったところに浴室、それから浴室とは反対の端の玄関に至るまでに、四つの小さな部屋があった。客室というよりは、宿直室が並んでいる、という印象だった。玄関のところは土間になっていて、そこに石造りの洗面台があり、6人ほどがそこで顔を洗ったり歯を磨いたり出来るようになっていた。手洗いは玄関を出たところに、小便器が二つ、個室が二つ、それぞれきちんと仕切られて設けられていた。建物の規模からすれば、きちんとした小奇麗な便所だっただろう。造りが頑丈なのか、建物のいっさいはさほど傷んではいなかった。昔の職人が、時間をかけて丁寧に固めたコンクリートなのだろう。ただ、立地からくる湿気だけはどうしようもなかった―浴室から数えて二つ目の部屋の中に、歳のころは十六、七といったあたりの少女が、浴室側の壁にもたれるように脚を投げ出して座っていた。小柄で、色白で、少し瘦せ過ぎているという印象で、俯いたところに肩までくらいの長さの髪がかかっているせいで、顔はあまりよく見えなかった。だが、おそらく幸せそうに笑ってはいないだろうことは、この状況から考えれば明らかだった。パーカーのついた淡い水色のスウェットの上下を身に着けていて、つま先と踵だけを隠す靴下を履いていた。自分の部屋で寛いでいるみたいな恰好だった。季節は二月で、そんな恰好でこんな場所に居るのは絶対に寒くてたまらないはずだった。でもそれは、生きていればの話で、いまの彼女にはそんなことは関係のないことだった。いまは明け方で、昨夜遅く独り言のように降った雨が残した水滴が屋根の至る所から落ちてくる音だけが静かに響いていた。建物の周りには河原特有の真っ直ぐな背の高い草が生えて、対岸を走るこの辺りの唯一の道路からは決してこの建物を見つけることは出来なかった。


まだ開店したばかりのだだっ広いショッピングモールには、おざなりな挨拶をするために整列している店員以外にはあまり人の姿はなかった。その店員たちは、ひとりの少年の姿にとても興味を示しながら、平静を装って頭を下げていた。下げている者のなかには、微かに笑みを浮かべている者も居た。マニュアルに書いてある接客用の微笑みとは、似ても似つかない笑みということだ。少年の姿はちょっと見普通だったが、ただその表情があまりにもそういう施設には似合わない様子で、それが人の目を引いたのだ。それはしいて言うならば、長い時間をかけてずっと精神を殴られ続けてきたものが浮かべるようなそんな表情だった、年齢は十七というところだろうか、そんな年頃の人間が浮かべるような表情ではなかった。もっとも、そんなものの見方は現在ではもう古いのかもしれない。いまもっとも人々を平等に扱っているのは、絶望や徒労感というようなものに違いないだろう。少年には名前を与える、彼は陽平という名だった。ファンシーショップの店の前に居る、売り物のイラストから抜け出してきたような奇妙なコーディネイトをした若い女の店員には、陽平が激しい痛みを抱えて歩いていることが判った。だがそれを理解したところで、彼女に何が出来るわけでもなかった。彼女自身、その痛みのなかで喘ぎながら、自分を覆い隠すような容貌をこしらえてそこに立っているのだった。笑顔のなかで妙に静かな目をした彼女の前を、陽平は通り過ぎた。その二人の痛みは、それ以上交わることは二度となかった。


再び河原である。少女は死んでいる、というようなことをさっき記したが、それは厳密にいうと真実ではなかった。それは、肉体的に死亡している、身体機能が停止していると言う意味での死でしかなかった。少女の魂―意識というべきだろうか、それはまだ生きていた。そしてどういうわけか、その肉体から出ることが出来ないままで居た。死ぬまでの少女は朦朧としていたが、死んでからのちの彼女の意識はしっかりとしていた。利口な娘らしく、自分の現状を目にしても戸惑うことがなかった。彼女は肉体的に死亡してからずっと、自分がなぜここに居るのかということについて考えていた。死んでから二日ほどが過ぎただろうか?考えてもなにも答えを得ることは出来なかったが、彼女の精神はだいぶん落ち着いて居た。生きている間彼女は迷い続けていた、見知らぬ場所で、死んだのに生きている自分の現状は、それまでの人生から比べれば多分に興味深い状態に違いなかった。だから彼女は自分の死体のなかで、あらゆることを考え続けていた。どうしてここに来たのか、ここは何処なのか、自分で来たのか、連れてこられたのか。どうして覚えていないのか、どうして死んでいるのか、どうして死に切れていないのか。生き返ることは出来るのか、生まれ変わることは出来るのか、誰かが自分の姿があるうちに迎えに来てくれるだろうか、それとも、腐敗して骨になって、崩れ落ちるまでこのままなのだろうか。肉体が滅びたら、自分はここを離れて自由に動けるだろうか。それとも、この身体が尽きる時が、この心も尽きる時なのだろうか、と。少女の魂は例えて言うなら、虫かごのなかの虫のようなもので、肉体という仕切りから外へ出ることは出来ないが、そのなかでなら自由に動くことが出来た。だから考え事に飽きると、窓の外の空を眺めたり、水の流れる音に耳を澄ましたりした。そう、水が絶えず流れているせいで、彼女は自分がどこか川の近くに居るのだということは理解していた。車の音や人の声がまるで聞こえてこないので、余程に辺鄙なところに居るのだろうということも理解していた。これからどうなるのだろう、時々はやはりそんな風に考えた。でも考えたところでそれ以上どうなるものでもないのだった。薄暗かった空はそろそろ明けようとしていた。今日は凄く良い天気になりそうだ、少女は空気のにおいでそれを知ることが出来た。


ショッピングモールのスターバックスで適当に注文を済ませて、小さな席に身体を預けた陽平は、この三日ほどのことを幻視のように思い返した。約束をしたガール・フレンドは何時間待っても現れなかった。メールにも、ラインにも、電話にも返事を寄こさなかった。彼女は他所の土地からこちらにやって来ていて、自分の他に定期的に会うような友達も居なかった。心当たりはあっという間に当たり尽くした。あの日近くの駅で待ち合わせて、このモールで一日中遊び尽くそうと約束していたのだ。時間軸が現実に引き戻されると眩暈がした。どうしてなんだ、と陽平は思った。それは本人にしてみればそう思っただけのことだったが、彼の思いは口をついて出ていた。隣に座っていた二十代半ばのカップルが、彼の方を見て怪訝な顔をした。陽平自身はそんなことにまるで気づいていなかった。どこに居るんだろう、そう思いながら彼は飲物に口をつけた。それは確かに彼の体内に運ばれていったが、彼にはそのことすらもよく理解出来てはいなかった。


死んでいるからなのだろうか?何日が経過しても、少女は自分のことを思い出すことが出来なかった。死んでしまうとそうなるのだろうか、と彼女は考えた、肉体のどこかにそういう、現実的なことを記録する箇所があって、肉体が死んでしまったから、精神がアクセスすることが出来なくなったのだろうか?記憶がそんな風にセクション別に記録されるなんて話は聞いたことがなかったが、そう考えるとまるで思い出せないことについて納得出来るような気がした。さて、と彼女は窓の外を見た。また夜になっていた。体感的なものがまるで失われているせいか、それはいつも気がつくとそうなっていた。どうしてなんだろう?と彼女は考えた。彼女はもう眠ることもせずに、一日中そこでいろいろなことに思いを巡らせているというのに、朝や昼や夜というものの変化をほとんど感じることが出来なかった。それは気がつくとすり替わっていた。きっと、やたらと考え事をしてるせいなのだろう、と彼女は思った。現に、幾度かは明るくなる空を、暮れていくときの真っ赤な空を、この目にしたではないか?きっと、考え過ぎるのだ。肉体がないせいで、疲労を感じない。だから、考え込んでいるととことん考え込んでしまう。例えて言うなら、とても面白いゲームに一日入れ込んでいるような状態が毎日続いている、というような感じだ。味気ないな、と少女は思った。自分はどちらかというと感情の起伏が少ない方だと思っていた。でも意外と、気づかないところでいろいろなことを感じて、そのたびに心は動いていたのだな、と、そんなようなことを考えた。ここで、彼女に名前を与えよう。彼女の名は沙織という。


河原の建物の側には二つの轍があった。もちろん、草に覆われていてすぐにそうと目に留めることは不可能だった。それはつまり、誰かが彼女を車でここに連れてきたのだということを意味していた。沙織は車どころか、運転免許すら持っていなかった。第一、彼女が自分でそれに乗って来たというなら、その車はそのままここになければおかしいのだ。それが誰なのか、いまとなってはどれだけ探しても見つけることは出来ないだろう。もちろん、沙織自身がなにかを思い出すとか、そんなことがあればまた、事態は変わってくるかもしれないけれど。


飲み干したのはおそらくアイスコーヒーだったはず。陽平は不意に腹痛を覚えた。店を出て手洗いを探す。店の近くの個室はすべて埋まっていた。彼は開いているところを探してモールの一番端まで歩き、そこでようやく個室を使うことが出来た。個室を出たところはイベントスペースになっていて、名前も知らないアイドルグループがもうすぐそこで歌うことになっていた。観覧は自由となっていた。最前列で群れているのは彼女らのファンなのだろう、若い女も居ることは居たが、ほとんどが中年あたりの独り者の男という印象だった。年甲斐もなくメンバーの名前の入ったバンダナを巻き、サイリウムを手に盛り上がっていた。まだ始まっても居ないのにすでにコールをしている者も居た。陽平は彼らとは出来る限りの距離を取って、最後尾の列に腰を下ろした。別に見たいわけじゃないのだ、これ以上何をすることも思いつかなくて、そこにそうしているだけなのだから。やがて、ショーは始まった。ステージに現れた少女らは宇宙服をワンピースに改造したみたいなおかしなデザインのドレスを着て、あちらこちらに笑顔を振りまきながら跳ね回り、明らかにボリュームを上げ過ぎているマイクに向かって、元気いっぱいの下手糞な歌声を張り上げた。彼女らの歌い回し、ダンス、笑顔、仕草すべてに、マニュアルがあるみたいだった。嘘ばかりだ、と陽平は思いながら、ぼんやりと彼女らを眺めていた。まったく印象に残らない数曲が終わり、客を巻き込んだイベントが始まった。撮影会だのなんだの。陽平はそのイベントにはまるで関わらなかった。痴呆症のように虚ろな目で嘘つきな女たちを眺めていた。イベンターらしきスーツの男が明らかに陽平を警戒していたが、彼自身はそんなことにまるで気づかなかった。ルールの判らないコール&レスポンスが始まったところで、陽平は席を立ってそこを離れた。確かに他になにもすることを思いつかなかったけれど、それでもそこにいる理由なんてなにも思いつかなかった。


一週間と少し経過したころ、沙織に変化が訪れた。不意に彼女は、自分を縛り付けるものがなにもなくなったような気がした。試しにその場で身体を伸ばしてみると、ふっと肉体の外に出ることが出来た。えっ、と驚いて自分を見下ろしてみると、腐敗が進んだらしく、髪の毛が抜け落ちていた。頭頂部から溶けるように、それは始まっているようだった。気温が低いせいでいままでかかったのだ。彼女は自分の死体の前面に回り、顔を覗き込んだ。頬にいくつか痣のようなものが見受けられた。死んでから出たものではないみたいだった。明らかに殴られたものだった。やっぱりなにかが起こったのだな、と沙織は思った。半開きの自分の目を見た。「私は不幸です」と書いてあるような目をしていた。ふう、と彼女は短い息をついた―もちろん、そういう感じ、ということだ。彼女にはつくべき息がないのだから。
 「なにがあったのですか?沙織ちゃん?」
彼女はおどけてそう問いかけた。もうなにが起こっていても構わなかった。それをどうこうしたからといって、腐敗が始まった自分がもうこの世界に留まれるなんて思っていなかった。むしろそれはありがたい出来事だった。この世界は人間が人間として生きるところじゃない、彼女は常にそう感じていた。もちろんそれは若さ故の認識の甘さというところもあったけれど…この歳でそこから脱却出来るのはむしろありがたいことだと思っていた。だから、彼女は霊魂と化した自分を存分に楽しんでいた。少しの間彼女は自分の死体を見下ろしていた。それから窓辺に行って、そこから見える景色がほとんど自分が考えていたとおりのものであることに嬉しくなった。外に出てみようかと思ったが、すでにガラスの失われたその窓から外に出ることは出来ないようだった。彼女はいろいろ試してみた。どうやらいまのところ、自由に動けるのはこの建物の中だけのようだった。さて、と彼女は考えた。なにかをするべきだろうか?例えば、なにが起こったのかを調べたり…?でもどうしてもそんな気分になれなかった。なんたって彼女は、ここに至るまでの現実的なすべてをまるで思い出すことが出来ないのだから。いいや、と彼女は結論して自分の死体の前に胡坐をかいた。自分がやるべきことはなにもないような気がした。もしかしたらそれはどこかで、誰かが勝手に進めてくれることなのかもしれない。だったら自分はそれをのんびり見物していよう。


「つまらないのかい?」
モールの広い休憩スペースに腰を下ろして、彼女と今までに交わしたラインを読み返していると、突然そう声をかけられた。顔を上げると、テーブルを挟んだ前の席に二十代半ばという感じの淡い金髪の男が座っていた。売れないバンドマンみたいな革ずくめの格好をしていた。陽平と目が合うと、へへっ、と小馬鹿にするように男は笑った。陽平はしばらく男を見つめていたが、なんと返すべきか全く思いつかず、首を横に振ってまた俯いた。覗かれそうな気がして、スマートフォンの画面は閉じてポケットにしまった。陽平が素っ気ない態度を取っても男は立ち去らなかった。つらいのかい、と男は続けて話しかけてきた。つらい?陽平はそれについて少し考えてみた。つらいと言えば言えたし、でもどこか違うようなそんな気もした。
 「よく判らない。」
陽平は無意識にそう返事した。男はさっきとはうって変わって人懐っこい笑みを浮かべ、もし良かったら少し付き合わないか、と持ち掛けてきた。
 「そういうときは少し気分を変えた方が良い。あんたいま普通の状態じゃないだろ。そのままじゃどんな問題も解決することは出来ないよ。」
陽平はまたほんの少し考えた。男の言うことはもっともな気がした。この男が自分を苦しめているものを解決出来るとは思えないが、なにかしらヒントをくれるかもしれない、そんな気がした。そうだな、と陽平はもごもごと言った。このままここに居てもしょうがないし。
 「付き合うよ。」
男はようし、と笑って立ち上がった。
 「ついてきなよ。」


沙織は自分の死体と向き合いながら、友達と居るみたいだと思った。たぶん、一番そりが合わない友達と。時々ぶっきらぼうに話しかけたりした。頬をはたく真似をしてみたりした。馬鹿馬鹿しいことだけどそれは彼女の気持ちを楽しくさせた。もしかしたら自分が一番やりたかったのはこういうことかもしれない、などと、彼女は考えた。そうした遊びが一段落して、ぼんやりと窓の外を眺めていると、遠くから車の音が聞こえてきたような気がした。おや、と沙織はそちらの方に目を向けた。それは確かにこの建物に近づいてきていた。誰か来たみたい、と沙織は沙織に話しかけた。ここに誰かがやって来るなんてこれまで一度もなかった。きっと自分に関係があることなのだ。沙織は半ばワクワクしながら車が到着するのを待った。オバケみたいに玄関口に立ってたら驚くだろうか?彼らには私のことが見えるだろうか?そう思いながら彼らを迎えるように玄関口に立ってみた。車から降りて入って来た二人の若い男は、やはり沙織の姿を見ることはなかった。ここは何処?俺もよく知らない、そんな話をしながら二人は、沙織が居る部屋の右隣の部屋へと入って行った。見えないのなら気を使うことはないわね、と沙織は彼らのあとをついて部屋に入って行った。そこが自分の部屋と同じ味気ないところであることはもう知っていた。二人の男は適当に荒れた畳に腰を下ろして、少しだけ年上らしい金髪の男が若い方の男に煙草のようなものを手渡した。これ、アレかい、と若い男が聞いて、アレだよ、と金髪が笑いながら言った。今流行ってるやつだよ、すごくよく効くよ、と言って、火をつけてやるから準備しろ、と促した。若い男は少し迷っていたが、まあいいかという風に突然力を抜いて、それを口にくわえ、年上の方に火をつけてもらった。一度に吸うなよ、と金髪がレクチャーを施した。十分もすると二人は凄くだらしなくなって、特に金髪の方は涎さえ垂らしてだらりと横になった。若い男の方も少しの間とろんとしていたが、やがて目が泳ぎはじめた。具合が悪くなったのかよろよろと部屋を出て、浴室の方へ歩いた。そして、そこで激しく嘔吐した。沙織は横でほとんど胃液しか出てこない男の吐瀉物を見ていた。この人、ろくに食べていないのね、なんて考えながら。喉を絞めつけるような音を立てながら若い男はしばらくそこで吐いていた。一番つらい吐き方だ、と沙織は思った。しばらく痙攣するみたいに震えたあと、ようやく男は立ち上がった。もしかしたそのまま死ぬかもしれない、と思っていた沙織はほっと胸を撫で下ろした。
 (この人、あんまり悪い人に見えないのだけど、どうしてあんなもの吸ってるのかしら?)
そう思いながら部屋に戻ろうとする男のあとへまたついて行った。男は、戻る部屋を間違えて沙織の居る部屋に入った。そして、雷に打たれたように動かなくなった。どうしたんだろう、と沙織は思ったが、男は青ざめながらすぐにその部屋を離れたので、沙織は慌ててついて行った。
 (考えてみれば、死体見て平気なわけがないわよね。)
男は一度玄関を出て、手洗いの方に向かい、用具入れを引っ掻き回して、小さなハンマーを手にして最初の部屋へ戻った。どうしたの、と少しまともになったらしい金髪が、それでもまだトロンとした目つきで男に微笑んだ。悪酔いしたね、初めはしょうがないよ。そう言いながら金髪は二本目に火をつけようとしていた。男はそれをさっと奪って、それやる前に少し教えてよ、と金髪に言った。金髪は腹を立てる様子もなく、ヘラヘラ笑いながら、なに?と聞き返した。
 「あんた以外に、ここのことを知ってる人は居る?」
どうかなぁ、と金髪はのんびりした調子で答えた。
 「こんなところだからね。かなり古い建物みたいだし。俺はコレのためによく来るけどね…誰にも会ったことないからな。ご覧の通り辺鄙なところだしね。知ってる人なんかほとんど居ないんじゃないかなぁ?」
のろのろとそんなことを話して、金髪はそれがどうした?というように男を見た。
 「まだなにかある?」
 うん、と男は隠し持っているハンマーの柄を強く握りしめた。
 「となりの女の子についてなにか知ってる?」
 女の子…?と金髪は少し目を細めて考え込んだ。死んでる、と男は付け加えた。長い沈黙の後で金髪はようやく思い当たったようだった。あぁー!
 「あの子、先週だったかな、ここで一緒するお友達探してた時に知り合ってさ、好みだったからダメもとで誘ってみたんだよな。そしたらまさかのOKでさ、俺嬉しくなってサービスしたんだけどそれが良くなかったみたい。痙攣し始めてさ。なんとか目を覚まさせようと叩いたりとかしてみたんだけど、ダメでさ。で、病院行くわけにも行かないからしょうがねえべって俺そのまま帰ったんだよ。」
 陽平は自分の意識が遠くなるのを感じた。もしかしたら死ぬかなぁ〜って思っていたんだけど、と、金髪が続けて話すのが聞こえた。
 「本当に死んじゃったか。可愛い子だったのになぁ…。」
 その瞬間陽平は渾身の力でハンマーを振り下ろした。金髪の側頭部は陥没して、一言も発さずに横倒しになった。陽平はまた気分が悪くなった。でももう吐くものなんてなかった。フラフラと建物を出て行くと、金髪の男の車に乗り込んで猛スピードで飛び出して行った。ほどなく激しいクラッシュの音がして、鳥たちが大騒ぎした。


 沙織は金髪の死体をしばらく見下ろしていた。どうやらこの男に殺されたらしい。でも話の内容から察するに、それは自分のせいでもあった。それについては特別何の感情も湧かなかった。ただ一つだけ気になるのは、去って行った若い男のことだった。あの人は私となんらかの関係があったのかしら。いくら考えても思い出すことは出来なかった。沙織は自分の部屋に戻り、さっきよりいくらかうなだれたみたいに見える自分の死体にまた話しかけた。


 「ね、あんたさ…馬鹿だよね。」


 せめて覚えておいてあげればいいのにね、とぽんぽんと頭を叩く真似をした。そうしてまた死体の前に胡坐をかき、ぼんやりと窓の外を見た。そこには虚ろな夕暮れが広がって行こうとしている。すべては終わった。私はいつまでここにこうしているのだろう―。









                              【了】
 
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