最近いじめ問題というのが盛んに叫ばれております。
昔からあったものだし、陰湿さもさして変わらない様に見える。「集団無視」などは、よく聞く話であったしね。
ワタクシの時代では、部活内の「いじめ」は「いじめ」ではなくもはや「虐め」に近いものがあった。
とにかく先輩部員は絶大の存在であって、後輩部員に何をしても「しごき」という言葉で片付けられる、恐ろしい習慣があったのだが、今TVで「昔は今ほど陰湿ないじめは無かった」と語っている連中はご存知なのだろうか?
今の教育部門の状況は、組織運営としての原理原則などは無いように見える。
つまり義務と権利のセットが無く、誰が責任を果たすのか?
どこに権利があるのか?が全く見えない構造となっている様に感じる。
野球界でも同じ様に、権利と義務を果たすのは
オーナー会議か?コミッショナーか?そこら辺りが全く見えずに、権利の曖昧さが責任転換へと波及してしまう、組織とは言えない構造を産んでいるのだが、結局教育部門の問題も同じ様に感じてしまうわけだと。
校長に責任を押し付けるのならば、校長にどれだけの権利を与えているのだろうか?
また家庭が学校に問題を圧しつけるのならば、学校内で家庭内の教育をさせるのにどこら辺りまで許容するのか?
(おしりペンペンなど 苦笑)
そこら辺りの線引きもせずに「学校の問題だ!」という
キャンペーンをマスコミがこぞって行うのは非常に危険だと思うが。
これだけ自殺者が続出しているのだから、これはもはや
「教育の問題」ではなく、刑事事件まで発展しているように見える。
つまり「虐め」として事件と扱うべきだと思うのだが
警察権の導入などして、学校に権利を強化させて
責任を持たせるのか?
今みたいな曖昧な組織で、虐め問題を解決させずに風化させるまで待つのか?
それとも外部(警察)の導入を許すのか?
かなり選択を迫られる時期に来ていると思うのだが
「美しい国」作りもしんどいね〜。
とにかく「虐め問題」を少なくするのならば、今現在「虐めをする立場側」の人間が、誰一人として捕まっていない状況を無くす事が1番だと思う。
「いじめられた側」だけがマスコミによってさらし者にされるから、「自殺」が必要以上にフィクチャーされ、連鎖現象を産み出しているのならば、「いじめる側」にも同様のモノを与えるべきだろうと。「さらし者効果」をいじめる側にも与えれば良いと思うが。
ワタクシは結婚していないので当然子供はいませんが、もし出来たのならば、海外の学校に生かせるつもりです。
「生きる能力」を教育してくれる国の学校に入れますね〜。
日本の受験教育の中に入れて、殺伐とした罪にならない犯罪集団の中に愛する子供を入れるわけにはいかんからね〜。それよりも子供を作らないかも。
最近では原理原則としての権利を組織に与えようとすれば、大抵「そんな権利を与えても、悪い人間が悪い事をするだけ」という言葉によって、決め事を決める前になかなか前に進まない話しをよく聞く。
例えば星野OSDによる「レンタル制度の導入」に関しての発言だが、これが決まらないのは
経営者側が「レンタルされた人間が、スパイ行為を働く危険性がある」という事で、なかなか導入の決定に至らないらしい。
こういう類の話しは人間レベルの問題をコンコンと話しているだけで、組織としての決め事をいかに導入するか?という
レベル問題ではないだろうと。それ以前の話を、時間をさいて行っているのだから、もう話しにならないと思う。
一流企業の人間ともあろう者が、原理原則の区別も付けられないのか?と思うと悲しくなる。責任の無い人間の集まりでは、決め事一つ決めるのもままならないという例に
プロ野球を挙げるのも虚しいが、1番見本として最適なんだな〜。
これからは学校の校長にも、NPBのコミッショナーにも
権限を強く与え責任を大きくさせるか、権限を少なくする代わりに、責任範囲を少なくするか?ぐらいしないと
「目隠しされた中で迷路を歩け」と言われている、今の状況を打破できないと思うわけであります。
訂正:コミッショナーは権限が与えているのに、それを無視して責任逃れしているだけみたいだから
学校の校長とは一緒では無いっすね。

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