メディアでよく使われる、『隠れた名店』という言葉がある。
しかし実際は、その道の好き者なら周知の店だったりすることが多い。
旨いのは旨いが、名店と言うほどなんだろうかと疑問に思うこともある。
美味しいと思うかどうかは人の好みもあるから一概には言えないけれど、メディアが単に目新しい素材として地元の繁盛店を採り上げるために、普通の店を『隠れた名店』とするのだと感じる。
だから頭のどこかで、隠れた名店なんてある訳ないと思っていた。
でもね、ありましたよ。
私にとっては腰を抜かすほどの隠れた名店。
もしかしたら、知らなかった私の情報アンテナが低過ぎただけなのか。
兎にも角にも、知ることができて良かった。
いまさら何をとお思いでしょうが、私はカレーが大好き。
好きが嵩じて、いまや3日に空けずとカレーを作っている状態です。そのカレーをいろんな人に食べてもらって感想を聞くのが楽しみ。神保町のカーマのカレーに惚れ込んだのが始まりで、インド風カレーを作り始めた。でも今は日本人としてご飯と一緒に食べて美味しいカレーに傾いている。
インド料理好きではなく、インド風カレー好きと言うわけです。
私のカレーを食べてくれた人が、『この辺じゃ南砂町が美味しいと思っていたが、このカレーの方が旨い』と言ってくれた。大変嬉しかったのだが、南砂町という言葉が気になった。
南砂町に旨いカレー屋があるのかと。

そう言われると行ってみたくなるもの。
大体の場所を聞くと、確かにその辺に何か店があった気はする。あった気はするが、何の店だったか。
インド料理店なんて言うものはなかったような気がするんだけど。
場所は葛西橋通りと丸八通りにあるオートバックスの交差点を駅側に曲がって最初の信号の角。
1階はたこ焼き屋。
この店構えを見て、正直なところ気持ちが萎えた。
こういう店は賭けなんだよな。
旨いか酷いかどちらか。

扉を開けると『2階へどうぞ』という声がかかり、狭い階段を上る。伺ったのは12時半ぐらいのランチタイム真っ最中。でも上がってみたら客は誰もいませんでした。
大丈夫か?
ランチメニューはカレー1種とライスのAセットが500円、カレー2種とパパド、ライスのBセットが700円。安いです。
Aセットはチキンココナッツ、ビーフ、エッグから選べ、Bセットはさらにマイルドビーフも選べます。
ビーフ?
牛を神聖化するのはヒンズー教徒で、イスラム教徒にとっては食べていけないものとされている訳ではない。インドでもキリスト教徒の多いケララ州ではビーフを使った料理が有名なので一概には言えないが、インドカレーを標榜する店で堂々とビーフがあるのは珍しい。大抵はマトンかラムを使っている。
教えてくれた人には申し訳ないが、この時点で半分諦めた。
腹も減ってるし、まぁどんなカレーでもいいかなという感じになってしまった。
頼んだのはチキンココナッツとエッグの2種のカレーでBランチセット。
チキンココナッツは見るからに南インド風で、エッグカレーは典型的な北インド風。
何で北と南が一つのセットで同居しているんだろう。不思議。
でも店を見つけてから今までの不安や疑問は、一口カレーを食べてすべて吹き飛んでしまった。
このカレーは、そんじょそこらのカレーじゃない。
純インドカレーとでも言うべき料理。
世のインド料理フリークほどインド料理店に通い詰めている訳ではないけれど、そう言い切ってしまいたいと思わせる料理。
カレーは4種類しかないし、他にティッカやサモサ、ドーサなどの料理を出しているわけでもない。店構えはこれ以上ないくらいチープ。値段もこれでいいのかと思うくらい安い。
しかし出てくるカレーは凄いカレーだ。
何が凄いって、スパイス使いがとにかく素晴らしい。
高級レストランの一部の料理や外人向けのレストランは別にして、インドではブイヨンは使いません。基本はスパイスと具材と水だけ。コクや旨味を出すためには、北では乳製品、南ではココナッツミルクを使います。
しかしそれではインド料理フリークと言うほどでもない、普通の人にとっては旨味が足らないと感じる場合が多い。日本人は子供の頃から、昆布、鰹節、味噌、醤油、味醂などの複雑な旨味に慣れている。そして一時期の旨味調味料過多の食品によってその傾向は強まった。
だから日本でインドカレーを出す店ではブイヨンを使うことが多い。
私はそれはそれでいいと思っている。日本人なのだから、日本人好みのインド風カレーで良いと思う。ただ自分で作る時には、旨味が過剰にならないように気を使っている。
スパイスを舐めてみれば、唐辛子以外のほとんどの物は苦いとしか感じられない。それぞれが微妙に違う苦味なのだが、インド料理はその苦味の重層構造で味を作り出す。
むせ返るようなスパイスの香りこそインド料理の真骨頂と思いがちなので、スパイスを多量に使う店は多い。スパイスを多量に使えば苦味が増すので、味をまとめる為に甘味や旨味が必要になる。
これも日本ではブイヨンが多用される原因になるのだと思う。タマネギを真っ黒になるまで炒めて糖度を増し、ブイヨンで旨味を加えて味を作っていくことになる。
ブイヨンを使わずに旨味を出すということは、具材の旨味とスパイスの味だけで美味しい料理を作るということだ。家庭料理レベルではなく、人を唸らせるほど美味しく作るのは非常に難しい。
スパイスの質が高くなくてはいけないことは無論だが、スパイスの調合、投入する順番、タイミング、火加減などが大変重要になる。そしてスパイスは必要最小限しか使わない。最小限の量のスパイスで香りと味を組み立てる。最小限の量のスパイスだからこそ、具材の旨味が活きてくる。
デリー・ダルバールのカレーは、匂立つカレーでもないし旨味が押し寄せてくるカレーでもない。拍子抜けするぐらいアッサリとしていると感じるかも知れない。
だからと言って、あなどらないで欲しい。繊細にして精妙なカレーを作るのは至難の業なのだ。
どのようにスパイスを使えばいいのかを知り尽くしていないと出来る物ではない。
いわゆるカレー専門店のカレーを自宅で作るのは難しい。しかし難しさは味の構成であって、それは隠し味の使い方だったり、材料の分量配分だったりすることがほとんどだ。だから逆説的ではあるが、それなりに真似が出来たりするものだ。
しかしこの店のカレーの秘密はそんなところにはない。スパイスの扱い方自体に秘密の核があって、それはスパイスを熟知し且つ感性が伴わないと真似の出来ないものだと思う。
チキンココナッツカレーはほんのりとしたココナッツの甘味のなかに、程良い辛さと共に鶏肉に調和する味と香りが同居している。ココナッツを使っている為にタマネギを過剰に炒め倒したりしていない。辛口だけれど、サラリとした旨さの中に奥行きを感じるのが不思議。
エッグカレーはトマトをベースとしたカレーだが、嫌味のない何とも言えない甘味がある。具材を卵にすると具材自体から旨味は出てこないので、ベースとなるトマトの美味しさを如何に引き出すかが鍵になる。良くぞここまで美味しくなるように、トマトに火を通して水分を出させるものだと感心する。
これだけ食べても大変美味しいカレーなのだが、他のカレーと混ぜ合わせて食べると自分好みに変化させることが出来て楽しい。
そしてそれぞれのカレーの香りは、何かが突出して香るということがない。それでいて複雑な香り。
正直に白状すると、匂立つような立体的な香りのするカレーが好きなんです。
でもこの店のカレーの控え目ながら魅力的な香りには、何とも抵抗しがたい。
『グラマラスなだけじゃ駄目なんだよ。女の魅力を顔や体で測るようじゃ、まだまだケツが青いね』
社会人になりたての頃に、先輩から言われた言葉を思い出した。
ビーフカレーも驚きだった。
まるで南インドカレーかと思うくらいサラサラのカレーからはクローブやカルダモンなどの香りが仄かに漂ってくる。運んできた店主に南インドのビーフカレーは珍しいと告げると、ローガンジョシュだと言う。
しかし私の知っているローガンジョシュは、どこで食べてもポテッとした感じのものだった。ローガンジョシュはカシミール地方を発祥とする、トマトをベースとした料理。インド各地に広まっているため、日本のレストランでも典型的ラムカレーと言うとこれが出て来る場合が多い。出てくるものはトマトベースで、かなりリッチな感じのグレービーソース。
この店のようにサラサラで、やや黒こしょうの辛味を感じる物にはお目にかかったことがない。
店主に拠れば、オールドデリーの正統派ムガール料理を出す店のローガンジョシュとはこういうものなのだそうだ。そしてガラムマサラと共にローガンジョシュをどのように作れるかで店の格が決まるらしい。
インド料理店と言っても、料理人はバングラディシュやネパールから来ている所が多い。そのためムガール帝国料理を真っ当に作れる店というのは意外なほど少ないと言う。
この店主は大変腰の低い柔和な人柄ながら、自分の料理には絶対の自信を持っている。
タージマハールホテル出身の名料理人と知り合い、かつては4人の料理人を使ってレストランを経営していた。レシピの多くはそのときのシェフのもの。壁に張ってあった案内によるとインド大使館にも出入りしていたらしい。アジャンタ、タージ、アショカのシェフたちとも親交があり、今でも彼らが来店する。
しかしその後の料理人の味の不安定さが我慢できずに2000年に一度閉店している。
他にも紆余曲折があったのかもしれないが、肝心のカレーは特級品だ。
巷に溢れるスパイスをデフォルメしたカレーは、実は虚飾に満ちたカレーなのだと気付かされる。
並だなと感じたのはタンドーリチキンとご飯。
コストの問題があるのだろうが、ご飯については少し聞きたいことがある。それは次回にしよう。
もっと知られていて良い店だ。
そしてもっと混んでいてもおかしくない。
値段だってもっと高く取れる。
そうなればメニューも増えて、どれだけ楽しみが増すことか。
そのためには内装も変えて、人も増やして、レストランらしい接客も考えて・・・・
しかし店主はそうしない。
たこ焼きの他にスパイス販売もしているから、飯はそれで食える。だから日本人のお客さんに媚びたカレーを作るより、本物のインドカレーを出したいのだそうだ。
それを目当てに
カルカッタのオーナーも来ていた。
商売っ気のない店主はスパイスを紡いで精妙な味を作り出す。
インド人が作るから美味しいのではない。料理人が作るから美味しいのだ。
魔法の指を持った店主のカレーを一度ご賞味あれ。
店の見かけだけじゃ分からないものです。
まさに隠れた名店。
素晴らしいインドカレーに出会えます。

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