この店を書くときに場所表記をどうしようか迷った。
住所は台東区日本堤なのだが、
この店のある場所は山谷のドヤ街に隣接している。泪橋と書いても良かったのだが、反対側にほぼ同じ距離を歩くと東浅草だ。最寄り駅の南千住は少し遠い。
この店の素晴らしさを伝えるにはやはり山谷と表記したほうが分かりやすい。
山谷と書いても若い人は知らないだろうな。
山谷なんていう住所表記はないけれど、『あしたのジョー』で有名になった泪橋から南の一帯をこう呼びます。
日雇い労働者の街。
木賃宿が立ち並ぶ街。
職にあぶれた労働者が昼真から路上で酒盛りしている街。
雨の日には家の軒先に人が寝ている街。
その地区にある中学校が日本一環境の悪い中学校として、かつて朝日新聞に掲載されたなんていう話を聞いたことがあるが、真偽のほどは定かではない。
山谷は世田谷のような品の良い住宅地ではありません。

周りに旨い店はありますが、高級な店はありません。
いかにも下町の心安い近所の世話焼きおばちゃんのような接客をする店は多いですが、芯の通った気持ち良いサービスをする店は皆無です。
そんな所にカフェ・バッハはありますが、入って驚かされるのはキチンとした接客の気持ち良さ。
カウンターに座ると、メニューは右後ろ側から差し出されます。
キビキビと動く若い従業員たち。
清潔な店内。的確な誘導。自然な笑顔。
『○○○へようこそ!』などと不必要に叫ぶことなどない。
過剰なサービスはしないが、必要なことはシッカリとしてくれる。
土地柄、高齢のお客さんが多い。杖で体を支えるお客さんが入り口に立つと、従業員が横にスッとつく。こういう店が山谷にあること自体が驚き。

カウンターの前には浅煎りから深煎りまで、豆によってローストの仕方を変えたコーヒー豆が並びます。街中の珈琲屋でこれだけの種類を揃えている店も珍しい。
それもそのはず。この店は自家焙煎珈琲の草分け的存在。健康食品としての珈琲を標榜し、何杯でも飲める珈琲を追求して自家焙煎を始めた。試行錯誤を繰り返し、今の珈琲が出来上がる。
その過程で珈琲豆の生産国を巡り、生産現場を自分の目で見て歩く。ヨーロッパを中心にコーヒー文化の根付いている国々も訪ね、いろんな形態のカフェを視察している。既に40ヶ国以上を訪ねているそうです。
知らなかったのだが、中国でも珈琲豆は生産されているとのこと。お茶で有名な雲南省が力を入れて栽培しているそうだ。その中国産の珈琲も見に行っていて、去年日本に輸入された分は全てこのバッハに納品された。
店の2階には製パン部門もあり、この店のブレンドコーヒーとケーキは2000年の沖縄サミットで首相晩餐会に出されている。
この店を巣立った弟子たちが全国にいて、バッハグループを作っている。
焙煎を追求し、機械メーカーと協同で焙煎機も開発している。
店主である田口氏を知らない珈琲専門店経営者なぞいるはずがない。
いわば日本を代表する珈琲屋。


左がサミットでも出されたバッハ・ブレンド。
非常に飲みやすいタイプの珈琲で、香りも苦味も酸味も、すべてが控えめに調和している。嗜好品としての珈琲ではなく健康食品としての珈琲を志向しているという、店主の言葉が実感できる。
本当に何杯でも飲める中深煎りの珈琲。
個人的に好きなのは右の珈琲、エチオピア・イルガチェフG1。
こちらは深煎りの珈琲で、独特のコクと苦味が堪能できる。バッハ・ブレンドとの色の違いが分かるでしょう。
G1とはグレード・ワンのことだそうで、エチオピア国内でもなかなか手に入らないグレードの豆だとか。現地でも国賓待遇の人に出されるぐらい貴重なものだと言う。
バッハの珈琲に対する考え方はブレンドの品揃えに現れている。
この店のブレンドはソフト、マイルド、バッハ、イタリアンの4種類がある。浅煎り、中煎り、中深煎り、深煎りの順番となる。
店主の考える『よい珈琲』とは
欠点豆がハンドピックによって取り除かれている
煎りムラや芯残りのない適正な焙煎が施されている
新鮮な焙煎したてのもの
この3つの条件全てを満たすものなのだそうだ。
特殊な器具を使って味を引き出すような珈琲ではない。焙煎の段階でよい珈琲を作りあげてしまう。それは客に飲んでおいしい珈琲を理解してもらい、さらに自分で淹れて楽しんでもらうためには焙煎の段階で完成された味にしなくてはいけないから。
そして好みに合わせられるように焙煎のバリエーションを加えている。
店の味を押し付けたりはしないのだ。
店に行かなくては飲めない珈琲や、家庭では絶対淹れられない珈琲を目指しているのではないのだ。客が豆を買っていって、自宅でおいしい珈琲を飲んでくれれば良い。
だから店では紙フィルターのドリップ方式で珈琲を入れています。
店で味わった珈琲の味を家庭で再現できるようにするためです。
サイフォンでは家庭での扱いが面倒だし、特殊な器具などもってのほか。
そうは言ってもカウンターの中にいる店長の珈琲の入れ方は、見ていて飽きない技がある。
湯温は常に82〜3度。ステインポットから注がれる湯量は出来るだけ少量に。フィルターの中の珈琲の粉が膨らむ程度に湯を注ぐときも、肘の角度を変えないで体全体を回すように注意深く注ぐ。
寡黙に次々と珈琲を淹れているけれど、珈琲について何か聞くと途端に笑顔になって色々と話してくれます。
私が帰る頃、店の前にオープンカーが止まり、背の高い初老の紳士が入店してきた。着ている物からしてお金持ちの紳士だと分かる。そんな人が山谷のドヤ街に、バッハの珈琲を飲むために遠いところからやってくる。
実はこの店は創業当時から知っていた。知ってはいたが、子供だった私は入ることはなかった。
この店がこれほど有名な店だと知ったのはずっと後のこと。
このドヤ街にこれだけの店があると言うこと自体が驚異。
子供のうちから入ってみればよかった。
これだけの珈琲を出す店が近所にある人は幸せだ。

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