夜も10時を過ぎて腹が減ると行くところがない。
行くところはあるのだが、そんな時間に開いているのはラーメン屋を含めた中華料理店がほとんどだ。
だから急にパスタが食べたくなったりすると非常に困ってしまう。
夜遅くに食べるくらいなら帰宅して風呂に入って寝てしまうと言うのが健康的な生活であることは百も承知だが、食べたいとなったら一口でもいいから食べたくなってしまう性分だ。そして一口で納まるはずは、当然のことながら、ない。
適当に酒を楽しんだあと、帰宅しようか何か食べようか迷っていた。
食べるとしたら何がいいか考えてみると、パスタしか思い浮かばない。
とにかくパスタが食べたくてしょうがなくなった。
でも時間は既に10時過ぎ。
こんな時間に開いているまともな店は思いつかない。
ここはおとなしく帰ろうとしたと時にひらめいた。
この際だから葛西へ行こう。
タクシーに乗って葛西の
ビッグウエストビルへ。
このビルは入りにくい。テナントがキャバクラばっかりだもの。

初めて連れてこられた時には、間違いなく失敗したと思った。エレベーターを6階で降りたときにも、店に入ったときにもそう思った。
まるで潰れたスナックを居抜きで借りたような内装。
とにかく狭い。厨房とは思えないほど狭いところにコンロが2口ある。
並んでいる酒は大した物はない。
まぁ、それはいい。別にスピリッツがなくても良いと思って来ている。
だってここはワインバーなのだから。
店の名前はシャトー・レイナ。
日本酒も焼酎もあるが、メインはワイン。
店主は外食産業での経験が長く、主導的な立場で色々な店舗を立ち上げた。ソムリエ資格を持っている。
ワインバーと言うのはなかなか難しい営業形態だ。
一度抜栓してしまうとワインはどんどんと変質する。空気に触れて酸化すると、味も香りも変化していく。その変化を楽しむのがワインの醍醐味なのだが、そんな事を楽しむ人種が集まらないと営業は難しい。
青山や麻布など、ワイン好きが集まるような場所ならではの業態なのではなかろうか。
それを葛西・西葛西地区で開業するだけでも冒険だ。
ワイワイと酒を飲むのは楽しい。そういう時の酒は皆をつなぐ媒体であって、いい酒があればより楽しくなるのは事実だが脇役になるのは否めない。
ワインを脇役にするとどうしても高くなる。ワインの値段自体が日本は高いからだ。そうなると大枚はたいてわざわざワインを脇役にするか、さもなくばワインの質を落として財布に優しくするしかない。
大枚はたく人は多くないし、質を落とすと売り上げは上がりにくい。
いずれにしても店側はジレンマに陥りがちだ。
この店にもグラス売りのワインがある。
しかもなかなか良いワインを出している。
ワインを一本頼む客は多くなく、グラスで楽しみたい客が多いもの。だからハウスワインのほかにもそこそこのものを抜栓してグラスで提供している。
そしていつも同じでは飽きてしまうだろうと、いろんな産地のものを代わる代わる出している。
グラスワインを出すことは簡単だが、地元でそれなりのワインをグラスで売るというのはなかなか出来ることではない。
売れてくれないとワインをダメにしてしまう。ワインバーに来るような客にダメになったワインを出すことは自殺行為だ。それなりに良いワインをグラスで出すと言うのは、諸刃の刃のような営業行為なのだ。
だからワインバーは高くなる。高くなると客が来ない。
客を呼ぶためには値を下げるか、質を落とすしかない。
しかしワインバーにわざわざ来るような人の中には、それなりのワインが飲みたくてやって来る人たちがいる。そういう店のコアになりえる客は安ワインが出るようになると離れていく。
ここにも営業の罠が潜んでいる。
グダグダと何が言いたいのかというと、この店主は頑張っているなと感じるのですよ。
この地区で、あのビルで、あんな広さで、ワインバーを開く。
しかもワインは高くない。
この店に来たらワインの好みを言って店主に選んでもらうのが良い。
手頃な価格で旨いワインを出してくれる。
1本飲み切るのが無理ならば、グラスワインで何を出しているのか聞いてみるといい。
そしてワインに合わせて何か料理を頼んでみることだ。
メニューから選ぶのではなく、(メニューなんかあったかな?)あんなものが食べたい、こんなものあるかと話しているのが楽しい。
刺身なんかを出してくれるときもある。ワインに刺身と思うかもしれないが、それもまた一興。もちろんカルパッチョにもしてくれる。
この日はパスタを食べに来たのだが、腹が減ったと言うとハヤシライスを作ったから食べてみてくれと言う。重いのは嫌だなとも思ったが、頼んでみた。
ひとくち食べてみると、これがまた旨いんだね。
トマトの酸味が適度に活きている。
洋食屋のハヤシライスの中には、デミグラスソースをこれでもかと濃くして旨味を凝縮したものがある。普通の夕食の時間に食べれば、旨味の洪水の中に身を置くのも良い。
でも、もう10時を回っている。こんな時間に食べるのだからやや軽めで、しかもハヤシライスらしい美味しさがあるものが良い。
トマトの酸味が全体を軽くしている。
大きめに切られたタマネギは甘く、食感も良い。
牛肉は柔らかく旨味を含んでいる。
トロミは緩めで胃にもたれない。
デミグラスソースから仕込んだのかどうかは知らないが、夜食として食べるハヤシライスとしては、私にとっては理想的。適度な酸味が軽い印象を与えると同時に全体の味を緩やかに引き締めている。
こりゃワインが欲しくなってしまいます。グラスの赤を追加してしまった。
この店ではいつもお任せのような形で食べるものを出してもらうのだが、重かったりくどかったりした例がない。聞いたことはないが、遅い時間の食事と言うことを意識して作っているのかも知れない。
そうだとしたら嬉しい気遣いだし、そうでなかったとしても店主の好みは客に優しいと言うことだ。
この店にパスタを食べに来ようと思ったのは、依然作ってもらったトマトソースとツナのパスタが美味しかったからだ。特に塩加減が丁度よかった。
酒を飲んでいるときには塩気が欲しくなるものだが、それを意識しつつもやや押さえ気味にしたといった感じ。つまり普段の食事にしてはやや強いが、酒飲みにとっては甘塩程度に抑えてある。
こういう塩加減を決められる人が作るものは、酒に合うに決まっていると言うものだ。
なんと言うことはないのだが、妙に気を惹かれてしまう。
そしてこの日のハヤシライスは私とって丁度よい酸味と塩加減と旨味を感じさせてくれるものだった。
2人で伺ったので、ハヤシライスのほかにもパスタを頼んだ。
お任せで何かパスタをと言うと、カルボナーラが出てきた。
このカルボナーラはかなりの自信があると言う。
見ていると作り方も普通とはやや違う。
かなりクリーミーだが、重くはない。
生クリームを前面に押し出したカルボナーラ。
ブロックベーコンを拍子切りにしてくれているのが嬉しい。
パンチェッタとかグァンチャーレなどと言うイタリアの生ベーコンを使っているわけではない。それを使ってくれればそれに越したことはないが、それにも増してベーコンの切り方が問題なのだ。
ペラペラの薄切りではカルボナーラの良さが出ない。
使うのは普通のベーコンでいいから、拍子切りにして欲しい。そして厚みのあるベーコンを弱火でじっくりと火を通して脂を抜く。その溶け出た脂が旨味となってソースに溶け込むのが良いのだから。
ベーコンを噛んだときにジュワッと出てくる豚の旨味を味わったら、もう薄切りベーコンなんか使えません。
豚の脂と卵黄のコク、チーズの旨味。これが一体となって生クリームに溶け込むと何とも言えない。
そこに荒く挽いた黒胡椒の香り。これで締りが出る。
個人的には生クリームよりも卵黄の風味が中心にあるカルボナーラが好きだが、これは私の好みと言うもの。
自信があるというだけあって、なかなかのものでした。
翌朝5時まで営業しているので、どこかで飲んだ後に軽く何かを食べたい時には重宝する。もちろん最初からこの店で飲んでも良い。
営業時間が営業時間だから安く食事を済まそうとするための店ではないが、手頃で美味しいワインとまともな食事が出来るのが嬉しい店だ。
店主1人で切り盛りしている店だから大した物は出てこないだろうと高を括っていると、うれしい不意打ちを喰らってしまう。不意打ちを喰らうから、実態以上に美味しく感じる部分があるとも思いますけどね。それはそれで良いじゃないですか。
それにしても、店を開く場所はあそこしかなかったのか。
これまでに何度か伺ったが、他のお客さんが複数いたためしがなかった。
ほとんど私たち一組である。
ビルのエレベーターにすら乗りにくい場所で営業しているのだから、ハンデが大きいと思っていた。このまま継続できるのかと心配すらしていた。
ところが、この日は満杯である。危うく入れないところだった。
そんなことは初めてなので非常に驚いた。
しかも女性客が多い。女性同士もいる。
更に、皆さんどうやらかなりの常連であるらしい。
私など、最近出入りし始めたヒヨッコと言う感じだ。
そのヒヨッコに対して、自然に声をかけてくれる。
つまり私が行く早い時間帯は暇そうに見えていたということか。
とにかくこういう店が評価され、お客さんが付いていると言うことは良い事だ。
なんだか安心した次第。

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