思い込みとは怖いもので、見えているものも見えなくなる。
美味しいものも、美味しいと感じなくなる。
こう書くと何かしら訳ありのようだが、実は単に酔っていたからかも知れない。
その日はまだ何も食べていなかったので、バーで飲んでいるときに腹が減ってきた。
軽く飲んで家で晩飯を食べるつもりだったのだが、飲みながら話をしているうちにどうにも食べたくなってしまったものがある。
それはビーフシチュー。
昔ながらの洋食を食べたくとも、西葛西には店がないなんて話していた。
この話になるといつも話題に上がるのが、葛西の『シチューの店ながしま』。
開店時間は夜の9時頃から。この開店時間からして謎の店。
店主に『先日、9時に来ても店が開いてなかった』と文句を言うと、だから9時『頃』だと言ったでしょと切り返された客がいたなんて話も聞く。
普通の人が外食する7時頃に店が開いていないのは何故なのだろう。
かなり旨いという話も聞くが、周りで行ったことがある人は誰もいない。
店主が個性的だという話だけが一人歩きしている。
でも葛西で20年以上続いている店なのだから、何かあるに違いない。
隣で飲んでいた人と、ちょうど飯も食ってないし行ってみるかと言う話になった。
9時に行っても開いていないことがあるらしいというので、西葛西からタクシーで店の前に9時半頃着くようにバーを出た。
しかし店内奥に明かりはついているものの、店はまだ開いていない。
明かりが見えるということは開けるつもりだろうからと、近くの飲み屋でまた飲んだ。
その飲み屋でもどんな店なのか聞いてみたが、店は知っているものの実際に食べた人はいなかった。店のお客さんで食べたことがある人は美味しかったと言っていた、なんていう話ばかりだ。
そのうち私語厳禁かもしれないとか、話は変な方向に行ってしまった。
そこそこ飲んだ後そろそろ開店しているだろうと、くだんの店に向かう。
この辺の
場所にはいろいろな店がある。キャトルセゾンはすぐ隣だ。
店の看板が通りに出ていて、明かりがついている。
やっと噂のビーフシチューが食べられる。
店構えは完全に定食屋。
サッシのような引き戸をガラリと開けて入ると、店内も完璧にただの定食屋だ。
小奇麗なレストランとか洋食屋と言う風情ではない。
カウンターと小上がりがあるのだが、カウンターに陣取った。
目の前にはコックコートとコック帽子をつけた店主。
壁にはメニューが張り出されている。
頼んだのはビーフシチューとチキンシチュー、グラスワイン。
また飲んじまった。いい加減に酔っ払ってくる。


待っている間に品書きを見ていたら、『元気の出るサラダ』と言うのがあったので頼んでみた。
出てきたのはやけに明るいピンク色をしたハムの乗っかったサラダ。
店主が皿に卵を割り入れてからこちらに差し出した。何だろうと思ったらドレッシングだった。
皿いっぱいに入ったドレッシングに生卵が入っている。店主はこちらを見てかき回せと言う仕草をしている。
『合わせてくれないの?』と聞くと、こっちでかき混ぜるとこぼれるからと言う。確かに厨房は狭いし、皿いっぱいだからこぼれるかも知れない。だったら器を大きくするか、量を減らせばいいのに。
そんなことを思いながら、この店は食堂なのだなと感じた。
レストランじゃなくて、食堂。
でもいくら食堂でもドレッシングぐらい出来上がったものを出してくるけどな、などと思いながらも不思議と腹は立ってこない。
それは気になることが沢山あるからだ。
この生卵入りのドレッシングは只のフレンチドレッシングではない。
さっぱりと美味しいのだが、ニンニクも効いている。そこに生卵だ。
なるほど元気の出そうなドレッシングだが、ただそれだけが売りなのではなく味が良いのだ。
壁に張ってあるメニューは変わっている。
チキンカレーもあれば、カモステーキなんていうものもある。
そのくせいろんな種類のチューハイの名も貼り出してある。
なんか不思議な感じなのだ。
出てきたビーフシチュー。
赤ワインの酸味が生きていて、褐色ではあるが薄い色合い。
なんだよ、煮込み倒したデミグラスじゃないのか。
そう思った瞬間に、私は思い込みの世界に入り込んでいると気がつくべきだった。
定食屋的店構え。
9時頃開店。
メニューブックはなく壁に紙が張ってある。
ドレッシングは客が混ぜる。
シチューはデミグラスじゃない。
店を出たあと、『多分もう来ることはないかもね』なんて千鳥足になりながら話していた。
翌日、二日酔い気味の頭で『もう来ないかも』と言った店のことばかり思い出していた。
何かが引っかかっている。
何で完食しておいて、あの店にはもう行かないなんて言ってたのだろう。
確かにデミグラスのシチューじゃなかったけど・・・・・
そしてハタと気がついた。
あそこの店主って、洋食屋で修行したんじゃなくてフレンチ出身なんじゃないか?
撮った写真で壁の張り紙を確認する。
チキンカツ キエフ風
ポーク ザンガラ定食
あぁ、やっぱり。 これってビストロメニューだ。
だからビーフシチューもデミグラスじゃないんだ。
キエフ風というのは、ニンニクやハーブとともに固く冷やしたバターを開いた胸肉で包み込んでからカツレツにする料理。ナイフを入れるとカツの中から良い香りのバターが溶け出してくる。そのバターをソースとして食べるもので、脂肪の少ない胸肉にコクを与えて美味しく食べさせる料理。
ザンガラというのはジプシー風。ザンガラソースは流浪の民が考案したソースと言われている。
肉の焼き汁にフォンとトマトを加えて煮崩し、ベーコンやハム、牛タンの燻製などの加工肉も煮込んで旨味と風味を足す。
何の肉にも合う、万能ソースのような存在。
でも日本の洋食屋はわざわざ『ザンガラ』なんてメニューにしない。
典型的な洋食屋のソースはデミグラスが基本。
葛西で夜中にやっているシチューの店なのだから、当然デミグラスだと思い込んでいる。
確かに食べたかったのは洋食屋のデミグラス・シチューだった。
店構えも定食屋だし、どこかの洋食屋出身の店主の店だろうと高を括っている。
頭も舌も胃袋もデミグラスになっているし、加えて良い加減に酔っているから気がつかなかった。
この店のシチューはラグーだったのだ。
ラグー・ド・ブフ。牛肉の煮込み。
煮込み料理はフランス家庭料理の定番。
てっきり日本の洋食屋のシチューがでてくるのだと思い込んでいた。
思い込みが、見ているものも見えなくしていた。
牛のモモ肉の表面を焼き、さらに強力粉を振り入れて香ばしく焼き付ける。トマト、赤ワイン、ローリエ、水を加えて弱火でゆっくり火を通す。別に炒めたタマネギを加えて1〜2時間煮る。
艶やかにバターで炒めたニンジンを加え更に煮る。
別鍋で茹でたジャガイモとブロッコリーを仕上げに加える。
時間と火が素材を美味しく仕上げてくれる。
書くと簡単そうだが、実際に美味しく作るのは難しい。
この基本的な作り方だけでも、火加減の調節と時間のかけ方次第で味が全然変わってくる。
固い肉を煮込んでいくと肉の旨味が煮汁にどんどん溶け出し、いっとき肉はスカスカの状態になる。そこから肉に旨味が戻るように煮込むのか、そうなる前に肉を引き上げるのか、料理人の考え方でも調理が変わる。
水で煮込むのではなくブイヨンを使うこともある。
ラグーだとしたら良く出来た美味しいラグーだったじゃないか。
肉は柔らかく仕上がり、ホロリと崩れる。
それでいて旨味が抜けきっているなんてことはない。
煮汁には牛肉の旨味とともに野菜の優しい旨味が良く出ている。
ワインの酸味がさっぱりとしているので野菜の甘みが嫌らしく感じない。
正に煮汁を楽しむ煮込み料理になっていた。
だからこそ今の時期にもかかわらず、熱々のビーフシチューを一気に完食しているのだ。
日本の洋食だと思い込んでいたがために、私はこの店の料理が何も見えていなかったのではないか。

でも不思議なことはまだある。
チキンシチューは、ビストロ料理のチキン・フリカッセではなかった。カレー味だったのだ。
このシチューはそれほど美味しいとは思わなかった。
鶏肉は非常に柔らかく煮込んでありマッシュルームとのマッチングも良かったのだが、どこか薄いカレーソースを食べていたような記憶しかない。
それに梅味ピラフなんかがあったり、イカの一夜干しなんて言うものもあるところが不思議。
厚揚げ豆腐もあった。
たいへん不可思議な店だ。
しかし何かが引っかかる。
シラフのときにまた行こうと思もわせる何かがある。
今度はシッカリと味わおう。
それに他の料理も食べてみたい。
思い込みで物が分からず、しかも酔っていたこの日の印象と全然違うものになるのではないかと期待している。
でも開いている時間が時間だから、なかなか行けないかも知れない。

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