戦後前衛短歌の最前線を走ってきた岡井隆は、昭和3年(1928)名古屋市東区に生まれた。少年期を名古屋で過ごし、昭和20年(1945)の名古屋空襲に遭遇する。第八高等学校(現名古屋大学)を経て慶応大学医学部に入学し、内科の医師となり北里研究所付属病院に勤務した。
両親の影響下に昭和21年(1946)短歌結社「アララギ」に入会し、短歌を作り始める。昭和26年(1951)には、近藤芳美らと歌誌「未来」を創刊する。昭和30年(1955)頃からは、塚本邦雄、寺山修司らと前衛短歌運動を起こし、その先端を走り、歌集『斉唱』(1956)、『土地よ痛みを負え』(1961)で注目を浴びる。
昭和45年(1970)から5年ほど歌壇から姿を消し、九州に隠遁するが、その後、国立豊橋病院に医師として勤務する傍ら、NHK文化教室の短歌講座を開くなどの啓発活動も行い、積極的な創作活動を再開した。『禁忌と好色』で迢空賞(1983)。『親和力』で斎藤茂吉短歌文学賞(1990)。『岡井隆コレクション』で現代短歌大賞などを受賞(1995)。現代もなお精力的な活動を続け、短歌界を代表する重鎮である。
岡井隆が少年時代の名古屋を回想した詩を残しているので紹介する。
「序の詩」
ふかい歯でくわえた
街一すじだに残さず噛み切った
やがて廃墟となるために伸びていった街
街街の通りの小路小路の荷馬車の記憶
そこから工博の庭を覗く 狭い屋根のついた土塀
炎のなかで父がとびついて倒そうとした
あわい明るい檜の板塀
柿の実の降る その後ろにはりついてかくれた
アカマンマのしげみの花の上の節穴だらけの
文字印の黒くかすれた板塀
塀はのびくさり やがて空から焼かれた
幾千の人が死に もだえ 逃亡し
それが 名古屋戦争 と呼ばれようと呼ばれまいと
少年の頬に不朽の紋を打ち抜いたのは
そのたたかいのなかの一すじの走り火であった。
主税町 橦木町 白壁町 徳川町 久屋町 赤塚 清水口 東片端 平田町 飯田町
それらははじめ少年の地図に棣棠区(ヤマブキク)として記入されやがて東区となり
名古屋とかわりゆく
名古屋よ 性あらば女とよばれよう
私は愛する もはや地上にはない原名古屋(ウアナゴヤ)を
美しい上級生を組み敷いていた剣道教師の倒錯した愛を こわごわ見守ったみにくいアヒルの仔を、不思議に籠手をとって勝ったはじめての試合の汗の宵闇を
これはわたしの生活記録だといいたい
幻想旅行者をよそおおうとはおもわぬ
名古屋はそびえ わだかまるのだわたしの現在に 無名の非実在の聚落として
城は坦々たる裾野の一点にかたよって立つ低いが鋭い一箇の帽針である それが留めている小さな湖の皺は運河をつたって海へ消えるのだ
一九四四年末から四五年夏にかけて烈しい火の洗礼に立った坂と平野の町 おのずから街でなくなって行った 都市でなくなって行った
やさしげな旧(フル)いウアナゴヤよ
ナゴアブルグ
ナゴアンスタットよ
・・・・・・・・・・・・
(『木曜詩信・・・・・1963年』より)
私が好きな岡井隆の短歌をいくつか挙げておこう。
灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ
(『斉唱』1956)
肺尖にひとつ昼顏の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は
(『朝狩』1964)
ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて
(『我卵亭』1975)
蒼穹(アオゾラ)は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶
(『人生の視える場所』1982)
囁きつこばかりの群るる空なれば暗くしづけく春過ぎむとす
(『五重奏のヴィオラ』1986)
百年の変遷をみる志(ココロザシ)冬木がうつくしいといって夜(ヨ)歩き
(『大洪水の前の晴天』1998)

右は、現在私が読んでいる岡井隆の最新評論

私が若い頃に蒐集した岡井隆の歌集や評論集
*参考資料『愛知の文学』愛知県国語教育研究会高等学校部会1997

1