大正末期から昭和初期に、まだ黎明期にあった探偵小説(後の推理小説・ミステリー小説)の世界で活躍した作家の一人に小酒井不木(こざかいふぼく)がいる。本名光次(みつじ)。明治23年(1890)愛知県海東郡新蟹江村の地主小酒井半兵衛の長男として生まれた。
愛知一中、旧制3高(いまの京都大学)卒業後、東京帝国大学医学部へ入学。その後大学院に進んで、生理学・血清学を専攻し医学博士となる。大正4年(1915)、東北大学助教授となる(のちに教授となる)。大正6年(1917)にはアメリカ・ヨーロッパへ衛生学研究のため留学。
この時期にアメリカの探偵小説家エドガー・アラン・ポーやイギリスのコナン・ドイルの作品に接して探偵小説の世界へと傾斜していった。留学中に持病の結核の悪化により帰国し、妻の郷里、海部郡神守村(現津島市)で療養しながら「学者気質」という随筆を新聞に連載。
以後鳥井零水の号で推理小説を翻訳し、欧米の合理的な探偵小説を紹介することによって、当時の「新青年」編集長森下雨村と交流が始まり、大正13年(1924)「真夏の惨劇」以降は、小酒井不木というペンネームで執筆活動を開始した。これ以後多くの同じ探偵小説家との交流も活発となる。
その一人、後の大作家江戸川乱歩との出会いは、大正11年(1922)に乱歩が新青年に応募した「二銭銅貨」について、雨村から欧米の翻訳物ではないかとの問い合わせにより、乱歩の作品に接して彼を絶賛し推薦文を書いたことから始まる。
まだまだ本格的な探偵小説家が誕生していない時代であったが、探偵小説の将来に不安のある乱歩に探偵小説で生計を立てることを勧めたのが不木であった。そして、乱歩も医学研究書の執筆や翻訳活動が中心だった不木に熱心に創作を勧めることとなり、二人の交流は日々深まっていくことになった。
名古屋の鶴舞公園の近くに住み、執筆活動に励んだ。日本初の本格的推理小説「疑問の黒枠」を1921年(大正10)に発表した。豊富な医学・科学的な知識と犯罪心理を描写した内容が主で、その実在性から「不健全派」の代表作家として位置付けらた。大正15年(1926)発表の「人工心臓」は、日本における最初の純SF小説として名高い作品でもある。
昭和2年(1927)には「竜門党異聞」が帝国劇場で上演され、11月には不木の提唱により合作組合「耽綺社」(たんきしゃ)を乱歩ら新進作家と結成するなど新たな取り組みも行っている。また、医学者・結核患者としての体験から「闘病術」を出版。患者の立場に立った著作物として当時の大ベストセラーとなった。
しかし、持病の結核が悪化し、志半ばの昭和4年(1929)39歳で逝去。死後、不木と交友関係であった江戸川乱歩・岡戸武平らが不木の遺作を編集した「小酒井不木全集」が発刊された。現在でも名古屋に続く不木が主宰した「ねんげ俳句会」は文化人によって現在も引き継がれている。



左 不木の碑(江戸川乱歩書・名古屋市八事霊園)
右 不木句碑 読みかけし 八犬伝や 水ぬるむ(蟹江町図書館敷地内)
*参考資料 「広報かにえ」2004年2月号

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