春山行夫らと詩誌「青騎士」を出し、大正期の名古屋の詩・文芸界をリードした井口蕉花は、大正13年(1924)わずか29歳の若さで此の世を去った。
蕉花は、明治29年(1896)11月10日名古屋市中区七曲町に生れ、本名は井口三郎という。明治35年(1902)東区芳野町の県立第一師範学校付属小学校に入学した。学年末には成績優秀により賞を受けている。翌36年(1903)、長久寺町より善光寺筋(主税町か?)に移転したため、橦木町の棣棠小学校に転校・卒業している。在学中に次第に視力が弱くなり、向学の精神に燃えながらも、志を得なかつた。
小学校卒業後は、奉公に出ることを決め、衛生夫から陶器画工の見習いとなり、のちに転写製造の技術を身につけるにいたる。同時に、短歌・詩作・評論の筆をとり、独学により英・仏・露語の原書を読み漁った。“本間五丈原”の筆名で「文章世界」に投稿し、“十二秀才”に入選している。
大正8年(1919)高野千代子と結婚。大正10年(1921)詩誌「赤い花」を春山行夫と編集し発行した(通巻7冊)。長男三樹衞が生まれる。
大正11年(1922)9月、詩誌「青騎士」を高木斐瑳雄、春山行夫、斎藤光次郎、岡山東、三浦富次等とともに発行し、専らその編集に携わった。名古屋詩話会を発足させ、佐藤一英、野々部逸二、安井龍らを加えた。「青騎士」は通巻15号を刊行し、2〜14号は蕉花(井口三郎)が編集している。
大正13年(1924)4月18日、主税町四丁目の自宅にて逝去する。享年29歳。墓所は、高岳院墓地。謚号、覚誉蕉花好道居士。この年6月「青騎士」は井口蕉花追悼号を餞とし、廃刊となった。
昭和4年(1929)遺稿詩集である『井口蕉花詩集』が、春山行夫・川合高照・金子光晴・高木斐瑳雄・佐藤一英の編集により、東文堂書店(名古屋)から刊行された。
『井口蕉花詩集』より、いくつか作品を載せることにする。全編は、中嶋康博氏の「四季・コギト・詩集ホームぺージ」の「名古屋の詩人達」に復刻されている。
http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/library/0i/iguchishouka.html
「花のごとき孤獨」
美しき眉を白日にぬらし
虚空(そら)に指を瞶(みつ)むる
心霊(こゝろ)はあざやかに孤獨は花の如く純心は溜息す
匂ひは翔けり現身は慄(ふる)ひ
爛れを窺ふ香気に包まれてりら噴水の夢など追へり
かゝるとき水鳥の生殖おびたゞしくなりて
淑(し)めやかな我が掌に戰ききたる祈りこそ
青春華やかなその異端なるを。
「渇仰散歩」
小鳥のやうな奇麗な風が
微塵の中空に舞つてゐる。
そのはるかな響の不思議さを
仰いで聞いてゐる。
それは 瞬間に響く美妙な竪琴
美しいしきりに爆發してゐる春の物音である。
野の小徑の鋭い春の光に
私は重たい足取で歩いてゐる。
彼方の青黛(クロサン)の山脈(やま) 淡紅色(マロン)の林
圓い海の水銀に十字架の帆は走りぬける。
私は渇仰散歩する
過ぎゆく風の中空を幻にしながら。
私は重たく歩いてゐる録金の鷄である。

井口蕉花詩集 井口蕉花 遺稿詩集
昭和4年6月5日 東文堂書店(名古屋)刊
114p 18.5×13.3cm 上製函 \1.20
春山行夫・川合高照・金子光晴・高木斐瑳雄・佐藤一英編集
装釘 松下春雄 100部限定


左 扉
右 奧付

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