棟方志功の記事を書いていて、「昭和15年(1940)国画会展に<釈迦十大弟子>を出品、翌年「佐分賞」を受賞」という事項があり、「佐分賞」というのがよくわからなかったので、記事に載せなかった。
たまたま『人物で語る 東海の昭和文化史』(樋口敬二監修 1996年風媒社刊)を読んでいたら、名古屋市生まれの夭折した天才画家として佐分眞(さぶりまこと)が取り上げられており、その死の翌年(昭和11年)に「佐分賞」が設けられたことを知った。「佐分賞」の主な受賞者には、棟方志功・香月泰男・杉本健吉がいる。
佐分眞は、明治31年(1898)名古屋市西区園井町(現中区錦2丁目)に生まれた。父の慎一郎は、一宮村の出身で、一宮銀行・一宮紡績株式会社の取締役を歴任し、第6代一宮町長(1898.5〜1900.4)を勤めた財界人であった。
佐分は、明治38年(1905)菅原尋常小学校に入学。小学校6年間は首席を通し、級長を勤めた。明治44年(1911)愛知県立第一中学校(現旭丘高校)へ進学。初めはボート部で活躍し、後に柔道部に移った。大正3年(1914)海に憧れ海員になろうとして家出、三浦三崎で発見される。家庭内の複雑な人間関係が原因のようであった。
その後、画家を志し、大正4年(1915)東京の郁文館中学校に転校。川端画学校に学び、大正5年(1916)東京美術学校西洋画科(現東京芸術大学)に入学した。中学校卒業後ただちに美術学校に入学できたのは当時まれであったと言われる。第3学年以後藤島武二に師事した。大正11年(1922)東京美術学校を卒業した。
大正13年(1924)作品『静物』が第5回帝展に初入選する。翌年、愛知県出身の美術家たちが東京で結成した「愛知社」に加わって活動する。
昭和2年(1927)から昭和7年(1932)まで二度にわたり渡仏、リアリズムに立脚した堅実な画風を築いた。その間、昭和4年(1929)に光風会会員に推挙され、昭和6年(1931)には帝展に出品した『貧しきキャフェーの一隅』が特選となった。
帰国後の昭和8年(1933)『画室』、翌年『室内』が連続して帝展特選を受け、同展の有力新人として注目されたが、昭和10年(1935)の帝国美術院改組の際には第二部会に参加せず、光風会も脱退した。昭和11年(1936)東京の自宅のアトリエで縊死した。享年37歳。没後の9月「佐分賞」が設定され、若手の美術作家の登龍門となった。

左 小学校5年生 明治42年(1909)父慎一郎。母たま、妹保子
右 東京瀧ノ川西ヶ原の新築アトリエの前で 大正10年(1921)

パリ郊外 左佐分 中央荻須高徳 昭和4年頃(1929)

パリ・オルヌ街のアトリエにて 昭和5年(1930)

『自画像』(1927)名古屋市美術館蔵

『貸しキャフェーの一隅』(1930)第12回帝展特選(1931)
ひろしま美術館蔵

『ブルターニュの女たち』(1929)一宮市博物館蔵
http://www.icm-jp.com/colldata/art2.html

『インドの女』(1930)愛知県美術館蔵
http://www.aac.pref.aichi.jp/search/choice/search_choice27.html

左 『ナポリの漁夫』(1931)東京芸術大学蔵
右 『青年』(1932)愛知県立旭丘高校蔵

『画室』(1933)第14回帝展特選 東京国立近代美術館蔵
参考資料 一宮市博物館開館10周年記念特別展「画家佐分眞の軌跡」(1997)

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