6月21日に愛知淑徳大学の3年生80名を対象に「名古屋の歴史と文化」と題してお話しをすることになった。垂井洋蔵教授の建築設計の講座で、東新町の飯田街道沿いのスペースを再開発するならどんな設計をするかというテーマの課題を出しているそうだ。設計に際して、この地域の歴史的・文化的背景を学生たちに学ばせておきたいというので、話が私に回ってきた。
最初少人数だと思っていたので気軽に引き受け、「市政資料館」や「二葉館」の会議室ででもと気軽に考えていたが、80名と聞いてびっくり。80名となると「橦木倶楽部」しかない。この際、せっかくの良い機会なので、都会の真ん中に別天地のような場所があることを学生たちに知ってもらおうと「橦木倶楽部」で行うことに決めた。この蒸し暑い時期に80名を和室に押し込めるのは窮屈だが仕方ない。我慢してもらおう。澤田助太郎先生の「花子と貞奴」の講演会の時もそのぐらいの人数を収容しているので何とかなるだろう。
縁側と広い庭のある居心地の良い居住空間を体感してもらい、機能性や便利さに重点が置かれたマンション・ライフと較べてもらうのも一興だろう。都市空間の設計でも機能優先ではなく、縁側や庭・中庭、和館と洋館、茶室と蔵の配置など絶妙のバランスを保っている日本家屋の空間配置に学ぶべきところが多々あるだろう。これからの都市空間の設計では、そこで暮らし働く人たちが、精神的に安らげるような場を組み合わせていくことが求められているような気がする。
何回かに分けて、学生たちに話す内容をまとめてみようと思う。
名古屋の歴史と文化@
1 航空写真でわかる昔の名古屋
A 昭和10年(1933)頃の名古屋 日本陸軍撮影の航空写真
【名古屋市役所庁舎】昭和 8年(1933)竣工
【愛知県庁舎】昭和13年(1938)竣工
【名古屋大空襲】昭和20年(1945)3月
B 昭和22年(1947)の名古屋 アメリカ軍撮影の航空写真
A・Bの写真で確認できること
@ 焼け残った建築物
名古屋市役所、愛知県庁、名古屋控訴院(現名古屋市政資料館)、長久寺、金城学院榮光館、主税町教会、旧豊田佐助邸、旧春田鉄次郎邸、旧井元為三郎邸、旧川上貞奴邸、名古屋陶磁器会館、建中寺、筒井小学校、東海学園講堂、松山神社、貞祖院など
A 戦前の旧街道のルートと戦後の基幹道路
上街道と下街道、飯田街道
41号線(清水口−清水間の開通)と19号線(昭和22年段階では未整備)
B 名古屋城〜清水〜尼ヶ坂〜森下にいたる段差→名古屋台地の北縁
名古屋は、東西5,8km 南北6,1kmの逆三角形の地形
C 碁盤目の計画都市名古屋→清洲越し・駿河越し
【画面をクリックして拡大画面にできます】

1名古屋市役所 2明倫中学校(現在の愛知商業高校の場所)
まだ、愛知県庁は建てられていない。

愛知一中(現在は明和高校)愛知一中は、昭和13年(1938)現在の旭丘高校の地(古出来町)に新校舎を建て移転する。
清水口はT字で北は行き止まり

1川上貞奴邸 2名古屋中学(現在は金城学院中学) 3長久寺 4片山神社 5愛知第一師範学校(現在は市立工芸高校) 6金城学院

1明倫中学 2建中寺 3東海中学

戦後昭和22年の写真 41号線が清水口から北へ抜けている。19号線はまだ赤塚で止まったままである。

1名古屋城 2飯田街道へつながる伝馬町筋 3本町筋 4北へ突き抜けた41号線

1清水口 2赤塚 3建中寺 4東新町

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