丸山薫は、明治32年(1899)大分県生まれの「四季」派の詩人である。近代的感覚の叙情詩人として、また海洋詩人として、清新で絵画的な詩風を示した。12歳のとき父を失い、以後、母の郷里愛知県豊橋市で養育される。海と船へのあこがれが強く、愛知県立第四中学校(現、時習館高校)を卒業後、周囲の反対を押し切って東京高等商船学校(現、東京商船大学)へ進学するが、病気のため退学を余儀なくされた。その後、第三高等学校(現、京都大学)を経て東京帝国大学(現、東京大学)国文科へ入学する。三高時代に桑原武夫、三好達治、梶井基次郎らと知り合い、詩を書き始める。
昭和7年(1932)第一詩集『帆・ランプ・鴎』を出版し、フランス印象派風の心象詩人として詩壇に登場した。昭和9年(1934)には堀辰雄、三好達治と三人の共同編集によって詩誌「四季」を創刊し、伝統的な詩情に、新しく純粋な知的叙情の世界を確立しようとした。昭和20年(1945)の東京大空襲で家を失い、一時、山形県に疎開するが、昭和23年(1947)以後は豊橋市に帰住し、相次いで作品を発表した。また、愛知大学で教鞭をとり、中日詩人会の会長を務めるなど、この地域への貢献も大きい。昭和32年(1957)には、中日新聞社より中日文化賞を受けた。昭和49年(1974)死去。
丸山薫の詩に、昭和34年(1959)9月26日に東海地方を襲った伊勢湾台風で亡くなった人々を思いうたった詩がある。死者・行方不明者5,098人、被害家屋は4万戸以上という大被害であった。当時、小学校3年生の私は、港区の港南住宅に住んでいて被害に遭遇した。押し寄せる海水の中、命からがら高台の中部電力の一州町発電所に避難した。一刻避難が遅れれば死んでいたことと思う。
名古屋市港区南陽町−伊勢湾大風直後に−
台所から浮き上がったサンマたちが
窓から路地に流れ出し
それらは生き返って 電柱をかしぐ往来を
ぴちぴち 河口へ海へ泳いでいった
渦巻く濁水の底で
一瞬 魚たちと魂の入れかわった女が子供が
老人が
あっちにもこっちにも浮かんで出て
たそがれの 声を呑んだ軒下を
今日も筏に曳かれてとおる
明日は太陽の下で焼かれるだろう
丸山薫は、県内の多くの小・中・高校の校歌を作詞している。三河地区が多いが、名古屋地区でも「松蔭高校」や「瑞稜高校」の校歌が丸山の作詞である。
松蔭高校校歌
光満つ濃尾のひろ野 朝雲の希望に映えて 色増すは常緑の園
若どりのつどう窓は ああ松蔭 その名松蔭
吹き来たれ自由の風 はばたかん虹ある羽根を 真理射す久遠の道
ましぐらに巣立つゆくて 見よ理想雄々しきわれら
三歳なる月日の歩み あこがれの夢去りやすし 競えいま自主の精華
実践の力こぞる いざ永久に栄えあり友よ
丸山薫の代表作を掲載しておこう。
「砲塁」
破片は一つに寄り添はうとしてゐた。
亀裂はまた微笑もうとしてゐた。
砲身は起き上がつて、ふたたび砲架に坐らうとしてゐた。
みんな儚い原形を夢みてゐた。
ひと風ごとに、砂に埋れて行つた。
見えない海──候鳥の閃き。
(詩集『「帆・ランプ・鴎』現代詩文庫『丸山薫詩集』(思潮社)所収)
「夜」
酒は悲哀の階段を軋ませて
絶望の屋根裏に明るく洋燈を灯した
歎息が起き上がって 微笑のヴィオラを弾きはじめた
泪が黙つてその音を聴いていた
(詩集『鶴の葬式』現代詩文庫『丸山薫詩集』(思潮社)所収)

右 小学生の頃の丸山薫

商船学校時代。後列右から二人目。

「四季」同人と萩原朔太郎。左から薫、朔太郎、塚山勇三、津村信夫

左 『帆・ランプ・鴎』初版本
右 豊橋の高師緑地にある碑。「夜空に星が煌めくように…(『美しき想念』より)」に始まる詩が刻まれている。
*参考資料
『愛知の文学』愛知県国語教育研究会高等学校部会 1997
『日本詩人全集28 伊東静雄・立原道造・丸山薫』新潮社版 1968

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