「あ〜。オモシロかった・・・」 <(^.^)> ♪〜 ・・・と言いながら、いつか死んでいきたい。
『わが家新聞』の「こだわりの毎日」欄です。
2021/4/8
月曜の事件を
まだ引きずっていて、
フラッシュバックのように
「やっちまった」瞬間の
後味の悪さと
面罵された時の情けなさを
日に何度も自動的に
想い返してしまう。
まさに、
プチASD(急性ストレス障害)
のような状態である。
なんだか、
クライエントの追体験を
実習させてもらってる感じで、
身に沁みて理解できそうだ(笑)。
かつて、
霜山 徳爾先生という
精神分析家の著書で、
「ロハ(タダ)の分析は
痛みを伴う」
というフレーズがあり、
なるほどな…と、
痛い思いをした時ごとに
その言葉を想い返していた。
まさに、
今回もそうである。
今回は、
最近、頓に増えてきた、
ど忘れ、うっかりミス、
のたぐいでもある
「現状認識」の
誤認でもあったので、
老化問題のひとつだなぁ…と、
いささか気が滅入ったのもある。
そしたら、
それに追い打ちをかけるように、
今度は目の調子が
おかしくなってきた。
読書中に焦点がぼやけて
怪訝に思っていたら、
新しい「飛蚊症」が
右眼視野の中央に出来ており、
トイレでうつむいたりすると
ピカリと光を感知するようになった。
4年前には
左眼が眼底出血して、
飛蚊症が悪化し、
その折にも
「光視症」があったので、
いよいよ右眼も
老化してきたんだなぁ…と、
老化と病弱化の現実と
否が応でも
向き合わされている。
なので、
明日は、4年ぶりに
眼科で眼底検査を受けてくる。
また、
あの瞳孔拡張剤を点眼され、
眼底鏡の前で
目を上下左右せねばである。
検査後も
瞳孔が開きっぱなしになり、
超まぶしくなるので
車での通院は禁じられていて、
仕方ないので
歩いて出向かなきゃである。
でも、
【ふたつ悪い事さてないものよ】
で、瞳孔が開いたままだと、
世界が輝くばかりに
マブシイばかりでなく、
隅々までハッキリと
ディテールが見えるのである。
それは、
スキーで時折経験する
快晴の雪山で
樹氷のディテールが
クッキリ見える現象と同じで、
戸外で光量が多いと
こうも世界は美しいんだ…と、
感動させられるひと時でもある。
・・・だからじゃないが、
死んで、瞳孔が開くと、
純粋魂の存在では、世界が
隅々まで輝かしく見えるのかな…と、
考えたこともあった。
それを「天国」とも
いうのかもしれない。
それであれば、
「覚醒剤」も意識が拡張され、
「超ハッピー気分」
「気分はパラダイス」
になるのも理解できる(笑)。
まさに、
超・覚醒状態になれば、
気分も爽快になるから、
やめられなくなるのだろう。
合法的な
瞳孔拡張剤なら、
しばし、眩しさを我慢しながら
世界の美しさを再発見してみよか、
とも思っている(笑)。
信号機の
碧はエメラルド、
黄色はトパーズ、
赤はルビー、
になる(笑)。
冬タイヤを
履き替えるついでに、
エンジンオイル交換をしてきた。
長年、家族ぐるみで
世話になってる
工場長が言うには、
ダイハツの『ムーヴ』は
オイル漏れが欠陥としてあるが
リコールの対象になるほどではない、
とのことで、二か月に一度
補充せばならず
不便と不経済性を感じている。
なので、
今回はじめて、
充填剤なるものを入れてみた。
オイルも
スタンドにはない特注の
いちばん「硬い」タイプだという。
これで、
様子を見て下さい、
とのことだったので、
二ケ月で空になるのが、
半年くらいに伸びてくれれば、
これ幸いなのだが…。
カラダのメンテも、
クルマのメンテも、
ココロのメンテも、
面倒くさがらずに
丁寧に続けていくことが
長持ちさせる秘訣なのだろう。
最近、宗教学の勉強で、
我われが自分の意志でなく
この世に誕生したのは、
神の意思であり、
ゆえに、このカラダも意識も
「所有物」ではなく、
神からの「貸与物」なのである、
というのを読んで
愕然とした。
そうなんだぁ…。
であればこそ、
大事に、大切に、
有り難く
使わせて頂かなければ
ならないはずである。
もっとも、
我われ自身は
神の分身であり、
この世界も我われが
創り上げたものである、
という解釈もあり、
この世は、宇宙も含め、
すべての事物は
神の「自作自演」なのである、
という考えもある。
我われが夜見る夢には
様々なものが登場する。
知人、ストレンジャー、
バケモノ、動物、神様、
車、石ころ、食べ物…
それらすべては
夢見の最中は
リアルに感じられている。
であればこそ、
覚醒後に言語化もでき、
描画化もできるのである。
しかし、
夢というものは
脳が創り上げた
電気生理的なヴィジョンであり、
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚
という五感だけでなく、
喜怒哀楽の情動も発動する。
"この世は神の見てる夢"
という喩えもある。
ならば、
我われ個人の自意識のようなものは
夢の登場人物にはないではないか、
というツッコミもできそうだが、
いやいや、夢の登場人物は
好き勝手に振る舞っている。
それは、あたかも、
動物と同様に、
自由意志があるが如く
自律性を持っている。
小説家がよく言うには、
書き始めてから
登場人物が勝手に
動き出すと、
その作品は成功する、
という。
それを作者が、
「右向け右!」
のように操り人形にすると
たいていは駄作になって
人の心をうたないのだ、
という。
これは、
自分で短編や長編を
書いてみると実感できる。
ある時点で、
作中人物たちが
勝手にものをいい出し、
背景がそれにあわせて
変化するのである。
書き手は、
そこに起こっている
「今、ここ」の出来事を
忠実に筆記しているにすぎない、
という状態になることがある。
・・・なんで、
こんなハナシに
なったんだっけ?(笑)
あ、タイヤ交換か…(笑)。
なんだか、
アタマがロンバケで
非日常的になってんなぁ…(笑)。
あ、そそ…
私という存在は
「神の貸与物」だった(笑)。
もちっと、
『コーラン』を読み込んで、
アラブ系の宗教観と
仏教・キリスト教・金光教
との比較論をしっかりやらんと、
ちゃんとした事は
言えませんのぉ…。
こういうのは、
ヒマ人で、
尚且つ、病気やら
事件事故に見舞われながらも
挫けずに、周囲に励まされ、
「世と人のお役に立ちたい」
と思えなきゃ
できない仕事でんなぁ…。
(ーωー).oO ウーン
散歩に出たら、
空き地の野ッ原で、
毎年、雑草のあいだに
生えてくるアスパラを
4本も見つけて
収穫してきた(笑)。
近所のアスパラ畑から
種子が運ばれて、
空地いったいに
バラまかれたとみえ、
あちこちにクラスターがある。
それらが、
この時季になると
新鮮な芽を出すのを
毎年、散歩の楽しみとしている(笑)。
雑草の合間に生え出るのは
フレンチでは
『アスペルジュ・ソバージュ』
(天然アスパラガス)
という。
これは、
畑物よりも一段と
生命力があって、
味が濃い。
空き地のものも、
ポキリと心地よい音で
折れてくれて、
その断面からは
ポタポタと水が滴り落ちた。
散歩から戻ると、
すぐさま、採りたてのものを
30秒ほどレンチンして火を通し、
『グリル・ダニョー』
(仔羊のグリル)の
ガルニチュール(添え合わせ)とした。
ソースには
新鮮なイチゴをマッシュして、
ヴイヨンを加え
ブールモンテ(バターつなぎ)した。
メインの仔羊に負けない
力強いアスペルジュで、
むしろ、こちらこそが、
このひと皿のメインであっても
おかしくないようだった。
もうひと皿、
仔羊をメダイヨン(メダル状)に
カットして、
同じ組み合わせで
ドレッセを変えてみた。
火を通さない
フレーズ・フレ
(生イチゴ)の甘酸っぱさが
仔羊のセニャン
(ミディアム・レア)に
よく合っていた。
*
散歩も、
アスパラ採りも、
創作フレンチも、
傷心・病身を
慰めてくれる
レ・クリエーション
(再創造の過程)
なのかもしれない。

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