本物の咆哮には必ず精巧に構築された節度がひそんでいる  散文









深く沈みこむ感触はいつだってそこにあっただろう?俺は名前のない虫になり、沈殿の流動にしたがって思考能力に半分以上蓋をする。人間は脳味噌など持つべきではなかったのだ、時々そう感じることがある―あらゆる芸術は本能を恋慕しながら、大概それを判りにくいものに変えてしまう。なにやら難しい説明がつかなければ誰も理解しようとも思わないようなものに。説明というものはし始めると喉がダメになるまでしなければいけないものだ。どんなに説明しようとそれを語りつくすことは出来ない。そもそもそれは語りつくせないものだからこそ、口語以外の何かの形を取って提出されたものであるからだ。死ぬまで説明するか、どんな誤解がそこにあっても黙って見過ごしてゆくことぐらいしか選択肢はない、たったそのふたつしかない。それ以外にもうひとつ付け加えるとしても、後はひとつだけだ。「すべてやめてしまうこと」それぐらいしかない。人々は芸術を欲しながら、それを読み解くことをしようとはしない。なぜだかそれは直感として理解できるものでなければならないと勘違いしてしまうのだ、往々にして。絵合わせパズルなら片手間に済ませるけれど、ジグゾーパズルになると「マニアックだ」という印象を持つ。無理もない。そもそもが狼であれば遠吠えで済むようなことを、俺たちは到底必要とは思えないほどの言葉や絵具や音符を使って何とか形にしようとしているのだから。が、しかし。直感だけですべてを判断してしまうのなら遠吠えを捨てたことにあまり意味はない。それなら獣のままでよかったはずなのだ。どうして俺たちは言葉を垂れ流してしまうのか?それはそうすることによってのみ得られる本能があるからに違いない。俺はそれを本能と呼ぶ。さまざまなジャンルにおいて、「ハイ」と呼ばれるそれのことだ。ランナーズ・ハイ、クライミング・ハイ、マーダーズ・ハイ…おっと、最後のは余計だったかもな…ある種の高み、もしくは状態にたどりつき、それを維持するといった現象に対する渇望は、俺たちの魂がまだ野性であることを証明している…ロック・ミュージック、なんてジャンルもあったな…デヴィッド・ボウイはそいつのことを「バタフライ・ナイツ」と呼んでいたっけ?ああまったく気取ったイギリス人だよな。獣と言うとき人はそれを暴力でもって理解することが多い。しかしそんな理解には何の意味もないのだ。先にも言ったように、人間である理由すら希薄だ。どうして野性を呼び起こすことに芸術が有効なのか?そこにはまず理性があるからだ…人間が持ちうる最大の牙―それが理性と呼ばれるシステムだ。もちろん、それはクールという感覚と同じではない。理性と言うと、人はエリート的な感覚を想像するかもしれない。でもそれは間違いだ。それすら直感が生み出す産物に過ぎない。では理性とは何かと言うと、それはコントロールシステムのようなものだ。一通りのプログラムがあり、それを効率よく管理することの出来るシステム、それが理性だ。優れた理性というのは車の運転に例えれば、「ひとつ間違えば命取り」の猛スピードの中にありながら、「ひとつも間違わずに」運転を遂行することが出来るシステムだ。理性を用いて本能にたどりつこうとするとき、俺たちは徐々に回転数を上げていきながら、間違わないようにステアリングを操る。ひとつも間違えてはならない、ひとつ間違えるとそれは命取りになる。メイク・ノー・ミステイクス。しっかりと先を見極めろ。構築され続ける世界は正しい方向に進んでいるか?このまま速度を落とさずにどこまで進んでいくことができるか?―そうだ、理性と野性は完全に別物というわけではない。理性の中には多少の野性があるし、野性の中にも多少の理性がある。人間が本能への扉を求めるとき、必ず理性を使用しなければならない理由はそこにある。そのプログラムは必ず関連付けられていなければならない。拳や、牙や、咆哮でもって野性であろうとするなら、そいつは猟銃で撃たれるべきだ。だって、表面的な獣に過ぎないのだから。しかも、どの獣にもおそらく勝つことは出来ない―彼らに命を賭けることなんて到底出来はしないから。本物の獣たちは必ず生命を天秤の上に乗せて牙を向き合う。それに比べたら人間の中に潜む「単純な獣性」などお遊びに過ぎないことは言うまでもないだろう。ここにいま、この文章の中に俺のれっきとした獣性が潜んでいるのが判るだろうか?拙いながらも、理性を用いて、本能の領域にアクセスを試み、どうにかこうにか浮上しようとしている俺の獣性が理解してもらえるだろうか?内なる荒野の中に住む獣。それは数万もの経験や言語や旋律を持ってしてでしか嗅ぎ取ることが出来ないものだ。ワード・プロセッサが唾液を垂らし始めるまで俺はこれを止めることは出来ない。これはどこの誰にとってどんな価値があるだろう?時々そんなことを考えることもある。価値とは重要なものだ。それは真実の意味での名刺のようなものだ。臓腑に例えるなら脈を打つ心臓の振動だ。そもそも俺の心臓は、俺の身体の中でしか意味を持たないものだ、そうだろう(もちろん医学的な手段を用いれば他の誰かにも意味を持つのかもしれないが)?―いま自らが吐いた「移植」というフレーズが妙に気になって、それまでこのあとに書こうと考えていた事柄をすっかり忘れてしまった。しかしなるほど、この言葉を使うほうが俺がいまから言わんとしていることは格段に伝わりやすいだろう―それが理解の領域まで到達するかどうかは別として。つまり、俺は移植先もそんなに決まることのない臓腑を電脳領域の中で何度も何度もばら撒いているのだ、これはある種の移植手術のようなものなのだ―そうだ、そう考えてみると確かに、俺がこうしてばら撒いている臓腑のいくつかの箇所は、過去に誰かのフレーズや旋律によって移植された臓腑なのだ。だから俺はそれをこんなにもばら撒きたがる―沈殿の流動にしたがって思考能力に半分以上蓋をして。吐き出すということは意思だ。俺は意思を周辺へ投げつけている。どんな効果があるのかも判らずに。なぜそんなことをするのかが疑問といえばささやかな疑問だった…俺は過去にそうやって投げ出されたものを受け取ったことがあったのだ、何度も、何度も。どうする、俺の理性、俺の獣性。こうしてあとどれくらい投げ散らかすことが出来るのだろう、俺は受け取ったものほどの価値を投げ出してはいないだろう。もしかしたらそこら辺を汚すだけの結果に終わるかもしれない。が、そんなことは気にするようなことでもないような気がする…だって、吐き出してしまえばあとはそれは俺のものではないから。街頭で配布されるさまざまな宣伝行為、その中で受け取る告知にしたって受け取るやつらにとって価値は代わるだろう。価値を限定しようとするなんてもっとも愚かなことだ。そして、限定された価値を鵜呑みにしてしまうことも。俺はゆっくりと沈殿する。この世のものではない場所は、地球を突き抜けるほどに沈み込んだ場所にあるらしい。それは地の果てであると同時に天の果てでもあるという―理解できるか?理解なんてたいして重要な事柄ではない。それをどういう風に受け止めるのか、それこそが最も重要なことなのだ…ひとつの言葉がひとつの事柄についてだけ語っていると思ってはいけない。理解する・しないなどといったところで、まじないが利いたか利かなかったかと感じることと大して違いはないのだから。










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