かくして鳩は世界を循環する  











左手首にうっすらと残る執拗なカッターの傷を眺めながら風に流される霧のように私は夢想に落ちていた、その日世界とわたしとの間に見えないけれど確かな境界線を引いたのは一羽の鳩だったが、その羽根はなにか古生代の生物のように長く伸びて、先端は剣のように細く鋭かった―指先で触れると一瞬にしてもぎ取られてしまうような、そんな感じがして―ともかく、その一匹の鳩がその日境界線を引いた、見えないけれども確かにそこにある、世界とわたしとのあいだに存在する確固たる壁…わたしは質感を持たない部屋の中に閉じ込められてぼんやりとする、いつもそこにいるのに、そんな風に観念的に存在されてしまうと、本当にわたしという存在はいつもこの壁の内側で何をするために生きているのだろうという気分になる―別にそんな気分が私だけの専売特許だなんて主張するつもりは毛頭無いけれども…そこは往々にしてわたしの部屋のかたちを取る、何もないわたしの部屋の間取りをそっくりと真似てみせる―本当に何もない、それは、世界の中にかろうじてとどまっているわたしの部屋とて大して変わりはない―読みかけの本とか、書きかけの詩とか、そんなものがこの内側の部屋の中には置いてない…違いといえばそんなことぐらい―もしもわたしがあの部屋の中で突発的に死ねば(あるいは殺されれば)、あの部屋はこの部屋と同じになるだろう―わたしは部屋を見回す、いろいろなことが少しずつ変わっていることがあるからだ―その日は鳩が居た、さっきささやかな仕事を成し遂げた鳩だ、こちらを向いて佇んでいる―鳩と呼ぶには少しサイズに欠陥があるようだ―大型犬くらいある、そのせいなのか、あどけない顔つきのはずなのになぜか途方もない苦しみを背負っているように見える…それは賢者が現世にて背負ってしまうようなたぐいの苦しみ…わたしは鳩の目がこんなに暗い色を秘めているなんて思ったこともなかった、鳩はわたしを見ている、任務に忠実な警察犬のように、起動したばかりのパソコンのハードディスクドライブのように、わたしが何らかのコマンドを実行するのをじっと待っている、みたいに見える―わたしはまずこの鳩に名前をつけることを考えた、それはすぐに浮かんだ、「ライン」―線という名前の鳩…ライン、とわたしは呼んだ、まるで昔からその名前だったとでも言いたそうな顔をして―ラインはピクリと首から上だけを転がすように動かしてからわたしに視線を戻した、それはたぶん受付が完了したということなのだろう―ラインはコマンドを待っていた、「ライン」わたしはもう一度その名を口にした、まるで自分に出来る事の限界をいちいち数えているみたいで暗い気持ちになった―「飛べる?」ラインは頷いた、「じゃあ、飛んで―飛んでどこかわたしに見えないところに隠れていて…わたしは少しこの部屋の中で落ち着きたいの」なんでもないこと、とでも言いたげにラインはまた頷くと、今度は羽ばたきすらせずに浮き上がり天井を突き抜けてどこかに消えた―駄目よ、とわたしは言った、「そんなの駄目だわ、きちんと羽根を羽ばたかせてくれなくちゃ―それじゃあ昔のマジックみたい」ラインは同じ速度で最新式のエレベーターみたいに戻ってきて、そして、やれやれと言うように首を軽く転がすと、鞘から刀を抜くみたいな仕草で翼を広げて飛び立った…ものすごい風圧で私の身体は少し窓の方へ後ずさった、さて…もうほかに変わったところはない…とりあえずベッドに腰を下ろそうとしたが、そのときにさっきまでいたところの窓が気になった―歩み寄って、鍵を開けようとして、愕然とする…その窓は開くようには作られていない、そういえば…そういえばこれまで一度も窓を開けようなんて考えた事はなかった、こちら(・・・)側(・)の部屋の中で、窓を開けようなんて考えたのは今が初めてのことだった―なぜ?どうして?…わたしは軽く混乱した、本当に一度もないのか?考え直すまでもなかった、その窓を開けようと思ったのは今夜が初めてだった―それまでそこに窓があったことを知っていたかどうかすら危ういのだ…わたしは窓を割る事を考えた、が、すぐに考え直した、多分、きっとこの窓は開く事も出来なければ割る事も出来ないに違いない、わたしはそう確信した、それは窓のかたちをしているがきっと窓とは違う何か別のものなのだ…もしかしたら窓とは違う種類の役割を抱えているかもしれない「ライン」ラインはすぐに現れた、わたしは自分のことを乗せて外に出れるかどうか聞いてみた、ラインは例の瞳でわたしをしばらく眺めたあと、乗れよ、という感じで身体を沈めた―わたしはなぜかプリンスを想像した、「パープル・レイン」の中でブロンドの女の子をハーレーに乗せようとして意地悪をするときにプリンス…そんなことはどうでもいいことなのだけれど…「どこでもいいの、この部屋の外に出て、この世界がどういうものなのかをわたしに教えて」ラインの背中に乗りながらわたしはそう頼んだ、酔っ払いがタクシーの運転手を困らせるみたいに聞こえなければいいがと思いながら―僅かな沈黙の後、ラインは飛んだ―飛んで、天井を突き抜けたが、わたしは天井につっかえてベッドの上に派手に落下した―



気づくと、わたしは自分の部屋(ノーマルな世界の方の)に居た―ベッドで眠っていた―そういうことになっているらしかった、ふう、とため息をついてベッドから起き上がる…見覚えのない小さな鳩が、わたしの隣で眠るように死んでいた。










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