思い出の痛みは嘘になる  小説

    


 それはたしかあたしがまだ一五だか六のころで、だけどそれが記憶としてほんとにただしいのかなんてまるで自信なんかないんだけど、とにかくそのころ。街の外れの、ファンタズムっていう名前のバーだったわ。半地下で、空気の流れがなくて、照明が薄暗くて…狭くて、ボックス席が四つと、カウンター席が四つしかないものだから、いつもだれかしらでいっぱいだったんだけど、おかしなことにその店にいる間はだれもがぼそぼそとしか喋らないの。まるで大きな声を出したらおかしなものがやってくるんじゃないかっていうふうに。そんで変な音楽が小さな音で流れてるの。そんな店。みんな袖の短いシャツを着ていたから、夏の終わりか、秋の初めのころだったと思うわ。そんなに汗をかいていた記憶はないから。カウンターの一番奥で、見なれない若い男がひとりで飲んでいたのよ―まあ、あたしより若いのなんてきっとあの店にはいなかっただろうけどね。それであたし、なんだかめずらしいなと思って、そいつに話しかけたのね。あなた見かけない顔ねって。そしたら、なんだかぼんやりと自分の飲物(ジンのロックだった気がする)を見つめながら、最近このあたりに越して来たんだ、って言うのね。それであたし、どこに住んでるのって聞いたら、その店からほど近い安ホテルの名前を言ったの。だからあたし、もしここにしばらく住むつもりならお部屋紹介してあげられるかもって、ちょうどその若い男の隣に座っていた、常連の、不動産屋のヒゲにウィンクして見せたのね。そしたらヒゲが、金を持ってないなら部屋の世話は出来ないぜって言うから、どうなの?ってその若い男に聞いたのね。そしたら持ってるって言うから、ヒゲは、よし、ちょっと二人で話しようぜって言ってかれを連れて店を出たのね。それでしばらくしたら若い男だけ帰って来た。ヒゲは?って聞いたら、もう帰ったって。そうね、だいたいいつも早めに切り上げて帰る男だったからね。で、あたしはヒゲが居た席に座って、バーボンを頼んだ。お礼にごちそうしてくれるって言うからさ。で、かれがあたしの名前を聞くから、エリよって教えてやって。で、あたしはかれの名前を聞いたの。そしたら、ないって言うのよね。
 「ないってどういうこと?」
 ぼくは捨て子なんだって、とかれは言った。あれは、なんていうのかしら…すごく、しんとした変な声だったわ。高くもないし低くもない。人間じゃないものが話してるみたいな声だった。
 「いろんなところでいろんな名前をつけてもらって、その名前で暮らしていた。だから、ここでも誰かに適当な名前をつけてもらわなくちゃいけないんだ。」
 そうなんだ、とあたしは答えた。そんな人に会ったのは初めてだった。少なくともその時は。それはそうと、あたし、じゃああたしがつけてあげるって言ったの、そしたら、かれはにっこり笑ってじゃあお願いするよって言ったの。だからあたし、つけてあげたのよ、ジンって。人を飲んでいたからね。彼は気に入ったみたいだった。
 「ジンか。いいね。この街ではこの名でいくよ。」
 あたしたちは乾杯した。それが、あたしとかれとのみじかい物語の始まりだったのよ。


 それからあたしとジンは、ときどきファンタズムで隣り合わせてお酒を飲みながら(あたしはだれかに奢ってもらいながら)少しずつお互いのことを知っていった。と言っても、ここに来る前はどこにいたとか、どんなことをして暮らしてたとか、そんなことぐらい。だって、あんな若いうちからひとりであちこち転々としてる人生なんて、どう考えたって人に話したいような生い立ちのある人生に思えないものね。だから、あまり込み入ったことは聞かなかった。聞き返されたらあたしだって話さなくちゃいけないし。子供みたいな年で毎晩大人に奢ってもらいながら飲んでるわけなんてね、絶対まともな理由じゃないでしょ?だからジンも聞いてこなかったんだと思う。

 だけどあたしはいつもいつもファンタズムで飲んでるわけじゃなかった。ほかの店にも奢ってくれるひとはたくさんいたし、みんなあたしに会えないと寂しいと言ってくれた、それにね、そもそもファンタズムって、よっぽど奇妙な気分の時か、ほかの店がふさがってるときだけしか行かない店だったのよ。だからジンとは定期的に会ってはいなかった。二日続けて会ったかと思えば、ひと月近く会わない時もあった。ジンは、ファンタズム以外で飲む気は無いらしかった。あんまりあちこち出歩かないんだ、って言ってた。いちどファンタズムでも飲んでるひとに他の店で会ったとき、ジンがウェイターをやってるのを見た、って教えてもらった。あんまり楽しそうじゃなかったけど、女の子には人気あるみたいだったよって―ええと、ジンはね、ハンサムっていう感じでもなかった。背もそんなに高くないし。だけどね、全体の感じも、鼻も、顎も、針みたいに尖ってて、目はギョロっとしていて…ちょっとエキセントリックな顔だったのよね。だから、すごく人目は引いたわよね。あんなひとがウェイターなんかしてたら、そりゃあ気に入っちゃうコだっていただろうと思うわ。それでね、あたし行ってみようと思ったのね、ジンが働いてるお店に。その話を聞いてから二日か三日くらい後だったかな、ちょうど近くに行く用があったから、外から覗いてみたの。あたし、すぐに後悔したわ。だってね、明るいお店の照明の下で働いてるジンの顔は、薄暗いファンタズムでお酒を飲んでのんびりしてるジンとはまるで違ってた。シャキッとしてるけど、その分だけ虚ろで、なんて言うのか…心が完全に死んでしまってるひとっていう感じだった。あたしお店に入るのは止めて、ジンがこっちに気付く前に、店の前を離れた。だけど、ジンは気付いてたのね、次にファンタズムで会ったとき、こないだ来てたでしょどうして入らなかったの?って聞かれてしどろもどろになっちゃったわ。急いでたからとか何とか、いいわけしたと思う。そしてそれがいいわけだって、ジンもきっと気付いてたと思う。でもそれ以上追及しないでいてくれたわ。そういうとこ、なんかすごく察しのいいひとだったのよ。でもそのお店はジンはすぐに辞めちゃった。すぐに辞めちゃって、それからはなにをしていたのかしばらくは判らなかった。だけどある日ひどく酔っていた日があって…その日は珍しいくらい速いペースでお酒を飲んでいて、いつもののんびりした感じとはまるで違っていた。いつもは心の底に隠しているのだろう暗い目をして、誰とも目を合わせようとしなかった。あたしはなんだか心配になって、店が閉まるまで一緒にいたの。なんにも聞かないで、ただ彼の隣に座っていてあげた。少しは違うんじゃないかと思って。マスターが閉店の準備を始めに奥に引っ込んだ時だった。ジンが、いつもこうなるんだ、って、ぼそっと言ったの。いつもこうなるんだって。
 「何回も今度こそって思った。でも同じだ。いつも同じところに引き戻される。ぼくは、どこかおかしいんだ。ちゃんと人生を生きることが出来ない。人間として何かが壊れているんだよ。」
 なにがおかしいの、って、あたしは、お母さんみたいに聞いた。お母さんのことを思うだけで、少し心がざわついたけれど。ジンは答えなかった。泣いてるみたいな笑い方をして、首を何度か横に振っただけだった。
 「言えない…上手く言えない。でも、これだけは言える。ぼくはいつかどこかの街で殺されるんだ。だれにとかじゃない。街っていう大きないきものに、殺されるんだ。完璧に、跡形もなく。」
 ジンの言っていることはあたしにはよく判らなかった。おとこのひとはそういう悩みかたをするのかなって、そんな風に感じただけだった。でもそれはほんとのことだった。そして、あたしはしばらくそのことを知らなかった。

 ウェイターを止めてからジンは、ホモ野郎の薄汚いペニスを舐めて暮らしていたらしかった。ヌキ専門の坊や、ってやつ。それであるとき、ヤバいやつに捕まったのね。どうしてもさせてくれって懇願されて、それでも首を縦に振らなかった。それで絞め殺されて、裸にされて犯されてごみ捨て場に転がされた。よくある話よ。本当にうんざりするくらい、よくある話。ウリなんかしてるコは、どこかでいつもそんな風に死んでいくのよ。

 久しぶりに顔を出したファンタズムで、あたしにそのことを教えてくれたのは、ジンに部屋を世話してあげた不動産屋のヒゲだった。かれは知っていたのよ。若くて不思議な顔をした、ヌキ専門の坊やの噂。仕事で行ったどこかの街で聞いたらしいわ。その時はジンは違う名前だったけどね…あたし知らなかったんだけど、ヒゲはどっちでもイケるらしくて、ジンを見た瞬間にピンと来たんだって。だから部屋を紹介したときも、条件付きでかなり安くしてあげたらしいわ。

 ヒゲの話を聞きながら、あたしはあの夜のジンのことを思い出していた。ジンは、やり直そうとしていたのかしら。挫けるたびに街を離れて、名前を変えて。だけどそんなの逃げだしているだけだわ、やり直せるって幻想を追いかけているだけだわって、そんな気がした。楽しそうに話しているヒゲには少し腹も立ったけれど、だけどジンが死んだことだって、ヒゲのせいじゃないものね。


 ジンのことが好きだったのかって?あたし、そういうのよく判らないのよ。ちいさなころから父親にいたずらされて育ったからね…それであるとき母親がキレちゃって、父親のことを必要以上に殺しちゃって、この街じゃ珍しい大きなニュースになったわ…それがあたしが一〇才のとき。あたしは忌わしい子になって、他に身内はいなかったから一度よその街の施設に入れられたんだけど、そこでいじめられて逃げ出して、この街にひとりで戻って来た。あたし判ってたのよ、この街はあたしを追い出すことはしないって。悪いことさえしなければきっと好きに生きさせてくれるって。ヒゲがあたしに空いてる部屋をあてがってくれた。もちろん無償よ。いつか返してくれればいいからって感じで。あたしは学校にも行かなかった。毎日好きな時間に起きて、好きな時間に寝た。ヒゲが一度あたしをお酒を飲むところに連れて行ってくれて、それからあたしはお酒を飲むところが好きになった。みんな楽しそうにしていて、賑やかで。音楽があって、それからちょっとあたしには判らないような大人の話があったりして。あたしはいろんなお店に入り浸るようになった。あたしにはもう過去も未来も無かった。こうしていろいろなお店でにこにこして暮らすんだって判ってた。みんなもそれを許してくれていた。だれもあたしにひどいことをしようなんて思わなかった。胸が膨らんできたってあたしはこの街の大きな子供だった。だからね、ジンのこと好きだったのかなんて、あたしには判らないの。かれが居なくなって寂しいのは確かだけどね。

 あたしは前よりずっと頻繁にファンタズムで飲むようになった。ジンが座っていた椅子に座って、ジンのお気に入りだったグラスを出してもらって、ジンがしてたみたいにのんびりと飲んだ。だけどね、ジンのロックだけは飲まないの。それをするときっと、彼は落ち着かないだろうなって、なんとなくそう思うから。




                               【了】
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