2017/4/22

公園の壁の煉瓦の端っこにいつの間にか書き殴られていたメモ  

















世界はいつも俺の視界の隅で何ごとかゴチャゴチャと展開している、俺はそれを自分に害が及ばない程度に―流れ弾とか、もらい事故なんかを喰らわない程度には気にかけながら、自分自身の人生を生きている、だけどその大半はそんな―取るに足らないゴチャゴチャをぼんやりと眺めているようなことだ、自分や、世界や、人生なんてものにはそんなに大層な意味はない、そんなことに意味を求めてしまう人間というのは、そこには大したものはないんだということを本当は理解しているのさ…だから俺は、いつからかあれこれと理由を探ることはやめた、必要なものは勝手にどこからかやって来て種を植え付けていく、何もない大地がいつしか森に変わるみたいにね、そんな一角が俺の内奥にも確かに存在している、そんなものの成り立ちは求めなくても自然に感じているものだ―要は、そういったことに無自覚でないのなら、それだけでいい…最も、それ自体本当に必要な条件なのか、実際のところ俺にはよく判らないけれどね…さて今は夜もそこそこ更けたところだが、俺の精神はまだ睡魔を感じていない、毎日、その日のうちにどれかひとつはやるべきだと決めていることがいくつかある、それを片付けないことにはすっきりと眠ることが出来ないのさ―それは、身体を動かすというようなことでもあるし、なにかしら本を開いて、そこに書かれてあることに目を通すというようなことでもあるし、こんなふうな戯言をだらだらと書き殴ってみるということでもあるさ、そう、まさしく俺にとっちゃこれは戯言という類のものなんだ―俺にとっちゃ、文章とはこういう風に書かれるべきものなのさ…よくあるだろ、小理屈をこねるのが好きな連中が口にする、読み手を意識してどうのこうの、正しい文体がどうのこうの…まるで、レクチャーを受ければ書くのが上手くなるみたいに考えてる盆暗連中さ…俺思うんだけどね、こういうのっていくら体裁を取繕ってもそれでどうなるってもんでもないんだよな、歌手で例えるなら、そいつの声がまず好きかどうかって話になるだろ、それと同じことでさ、その在り方が好きか嫌いか、それだけのことでしかないんだよな、だいたい、「第三者を意識して書く」なんてことが本当に真理だったとしたら、そいつらが書いてるものはもう少し多くの人間の心を掴んでるって状況があるべきだろ、でも実際のところ、そいつらは仲間内でごちゃごちゃやってるだけさ、文芸部みたいなもんでさ、口から唾飛ばしてさ、それがどんだけ飛んだかって自慢してるようなところ、あるだろ?俺はべつに、他人にどうのこうの言うのは好きじゃないし、柄じゃないけどさ、たったひとつ言えることがあるとしたら―こういうのって頭で考えるとたいてい小細工になっちまうんだよ、自分が高尚なものを書いてると思ってる連中なんてたいていそうだろ―「音楽は楽譜から始まったわけじゃない」って言葉がある、詩や小説だって同じことさ、「出てきたがってるもの」が自分の中にあるかどうかさ、そして、どんなやり方をすればそいつらが上手くスッキリと送り出してやることが出来るのか、書くことの理由なんてそれだけでいいはずなんだよ、そう思わないか?俺が思うにさ、やつらは、刃物の材質とか、その研ぎ方とか、曲がりの有無とか、形状の話ばっかりしてて、その重量を自分がちゃんと受け止めることが出来るのか、そいつできちんと急所を捕らえることが出来るのか、止めの一押しをすることが出来るのか―そんなことはひとつも考えちゃいないのさ―だから余計なことをベラベラ喋らないと採算が合わなくなるんだよ、覚えておくんだよ―すっきりした、引きやすい線だけが正しい線ってわけじゃないんだってことを。













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