2019/5/28

真夜中、旋律のない第一楽章  












メノウ色の小瓶がたったひとつ、初めて立ち上がろうとする動物の子のように、リノリウムの床で転がって、鈍い非常灯の光を微かに反射していた、わたしはなにか他のことをしにその部屋に訪れたのだが、そのせいでなにもかも忘れてしまった、窓の外には嘘のような闇が張り付けたように鎮座していた、あらゆる生きものが自分の知らないあいだに死に絶えてしまったのではないかと、じっと佇んでいるとそんな気分にさえなってくる日付変更線のあたりだった、わたしはなにも急いではいなかったので、しばらくその瓶を見つめていた、長く眺めていると、よくある御伽噺のように自分の身体が小さくなって、その瓶の中に閉じ込められてしまうのではないかという気がした、もちろんそれはわたしが気まぐれに考えたことに過ぎなかったし、それを現実に変えられるほどわたしは子供ではなかった、ただしかし、その光景にはなにか、この世のあらゆる存在のありかたについて、深く考えさせるようななにかが隠れているような気がした、でもそれはもしかしたらそうした光景のせいではなく、そんなことを考えてしまっても致し方ないような時間のせいであったかもしれない、ともかくもわたしはそうしてしばらくの間動かなかった、そうしていると父親が死んだ日のことを思い出した、呆けたように口を縦長に開いたまま呼吸を失った父親の姿を、わたしは彼の最期の呼吸には間に合わなかった、そのことについてはどんな感想も抱いてはいない、間に合おうと間に合うまいと彼はその日くたばるしかなかったのだ、子供のころそんな風によく、些細なことに心を奪われたことを思い出した、それは時には天井の隅の、人の顔のように見える三つの黒い染みであったり、洗面の鏡に映った、どことなく他人のように見える自分の顔だったりした、そうしてわたしはいろいろなことが気になって、時には半時間近くもそれを眺めたまま佇んだものだった、でもどうしてだろう、いまわたしの心をとどめているこれは、そうしたいっさいのものとはまるで性格が違うものだという気がした、あるいは、あの時漠然と感じていたなにかが、漠然としたまま少しだけ具体性を増したのだと、そんな風に感じた、実際、そんなものに関心を寄せることにどんな意味があるのかはわたしにはわからない、それが自分にとってなんらかの解答や悟りを寄こしてきたことなどこれまでに一度もなかったような気がする、おそらくは本当にそんなことに意味などはないのだろう、人生における様々な雑事と同じように、ただそれはそういう風になってしまう、しいていえばどうしても爪を噛んでしまうことをやめられないとか、そんなものに似た習性のようなものなのだろう、また始まったな、と、わたしは無意識の片隅あたりでそんなことを考える、ただただどこかで時計が動いている、そういえばこの部屋にはアナログ時計がかかっていたな、わたしは初めて知ったかのように思い出す、そう、時間というのは繰り返すものではない、わたしたちは時計のせいで時間について間違った認識を得がちだ、同じ時というのは一度としてない、それは一分一秒、必ず、たった一度わたしたちの眼前を通り過ぎていくものに過ぎないのだ、タイムスケジュールは愚行の極致だ、ただそれだけで人は、同じ一日が始まると考えてしまう、それがどんなに無味乾燥なものであろうと、二度と在り得ないものであるということには間違いがないのに、わたしは瞬間を眺めようとし過ぎるのかもしれない、小瓶の、いま底辺となっている側面にはそんな真実が沈殿しているような気がした、そう、気がした、だからなんだ?確信も、朧げな認識も、すべて同じだ、人間は空に浮かぶ雲のようなものだ、ふわふわと心許なく、移動や停滞を繰り返す、風が動く限りそれは変ることがない、時が来れば蒸発して失くなってしまうだけのことだ、前方にも、後方にも、同じような連中が列をなしている、そうして時々そのことにうんざりしたりする、わたしには仲間意識というものがない、それにどんな意味があるだろう?所詮わたしたちは肉体を超えることなど出来ないぎこちない個体なのに、境界線の見えない連中は分不相応な発言を繰り返す、わたしは含み嗤う、いつもそうしているように、人生は喜劇だといまでは化石のようなものになったエンターテイメントはうたう、でもわたしはそれを本当に可笑しいと思っているわけではない、他に表現すべき表情を思いつかないだけなのだ、眠らなければならない、このところ眠ることに不都合など少しもなかったのに、昨日から奇妙なほどに寝つきの悪い夜が続いている、これがどこまで続くのかはわからない、明日からは馬鹿みたいに鼾をかきながら寝ているかもしれないし、相変わらずこんなふうに戯言を書き並べているかもしれない、或いは小瓶を拾い上げて叩き割ったりしているかもしれない、そういえば、カッターでうっかり切り裂いてしまった親指の先からとめどなく流れる血を、ヴァイオリン・ソナタに心を奪われてでもいるかのように見つめ続けていたこともあった。









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