夜の始まりに甘いケーキを  














湿地帯に埋葬されたしらばっくれた不浄物霊たち、最期の呼吸をメタンガスのように吐きあげて黄泉へと消えていく―夕暮れ、赤トンボの群れが爆撃機のように中空を彷徨い、俺は眼窩を刳り貫かれた女の幻影を見ていた、古臭い木造の潰れた煙草屋の前で、油絵の具のように引き延ばされた鳩がアスファルトを呪っている、もうすぐ夜が来る、それは運命よりも避けられないことだった、アルコールは忘れるには足りず、覚えておくには心許なかった、ほんの少しの衝撃で膝の関節は外れて、マリオネットのように地面に、土塊のように崩れてしまいそうな感じだった、とはいえそれは、もしかしたらアルコールのせいなんかじゃないのかもしれなかった、いや、アルコールのせいではないのだろう…風は生温い、遠雷が聞こえている、雷を見ると御伽噺を思い出す、ヘソを取られるなんて子供のうちにだって信じたことはなかった、あれはどう見たってあらゆるものを殺すためのシステムじゃないか、確実に―そうさ、そのころから誰かを信じるなんてことはしなかった、情報は選り分けられて初めて意味を持つものだ、路地裏は余計に湿気がまとわりつくけれど、これぐらいなら雨に変わることはない、世界だって憤ることはあるだろう、そしてそれがたとえそれが俺たちのせいであっても、俺たち自身はそれを知ることは決してないだろう、俺にはお前が分からない、お前には俺が分からない、それが当たり前だってことを知らずに無作法な真似をする連中なんかみんな、流行病でくたばってしまえばいいのさ…路地の先がだんだんと色を失っていく、暮方にはいつも路地裏を歩いている気がする、そこに飲み込まれてしまいそうになる感覚がたまらないのだ、手っ取り早く存在をぼやかしてしまえる手段、自分であるために生き続けるには、自分という存在を時々至極曖昧なところへ持っていく必要がある、分かるだろう?確信はどん詰まりだ、そこらの小さな存在に出来ることなどそもそもたかが知れてる、虚勢を張るのは止めな、みっともないだけだぜ…もうすぐ完全な夜が来る、空家だらけの、外灯なんて数えるほどしかないこの一角では、自分の手のひらを見つめることすら困難な瞬間が幾度もある、その中で俺は知るのだ、飲み込まれまいとするとき、初めて目を覚ます自分自身の一角を―奥へ奥へと歩を進めるごとに、家屋は潰れそうになり、灯りは少なくなっていく、忘れられた区画、忘却が約束された区域で、俺は俺であり続けながら歩く、継続するとは、様々な変化の中でその核にあるものを見つけ出そうという行為だ、路地裏は簡略化された血管、血小板は全身を巡ったところで俺の形など知ることはないだろう、本当に知るべきことは全貌を表すことはない、朧げに幾つかのパーツが垣間見えるだけだ、だから変化が必要になる、分かるだろ、同じパーツを何度も見つけたところで理解出来るのは一部分に過ぎない―ふと、先の角を曲がって来た薄汚れた中型犬が俺に気づいて立ち止まる、そいつは冷たい目で俺をじっと見定める、殺せる相手かどうか考えているのか?いや、そいつは威嚇音すら発してはいない、きっと、そういう段階はもう過ぎてしまったのだろう、(どうしてこんなところを歩いているのだろう?)もしも訊けるものならそんなことを訊いてみたいと考えているみたいに見える、ふう、と濡れた鼻から小さな息を抜いて奴は俺の進行方向へと歩みを進めていく、そいつの歩調を乱さないように俺は充分なインターバルを取って歩き出す、あっという間に目視出来る距離ではなくなってしまったけれど、そいつは時々立ち止まってこちらを振り返っている、俺にはそれが分かる、なにか意味があるのだ、でなければ俺の先に立ってずっと歩いたりはしない…道はさらに細くなり、そして上り坂になって行った、この道はそれまで歩いたことはなかった、開けて、小さな街の夜景が見下ろせる開けた場所に立ち止まって犬は俺を待っていた、それからは前後に並んでずっと歩いて行った、数十分はそうして歩いただろうか、場違いに思えるほど綺麗な住宅が一件だけ建っていた、玄関の扉は開かれたままになっていた、犬は、少し歩いては振り向き、少し歩いては振り向いて、こっちだ、という顔をした、俺は犬についてのんびりと歩いた、玄関には腕と、太腿と頬を欠損した若い女の死体が転がっていた、ああ、と俺はため息をついた、「食ったのか」「どうして死んだ」と、俺は犬に二度話しかけた、犬は感情を完全に隠匿した目をして、ただ舌を垂らしてリズミカルに呼吸していた、俺は携帯を取り出して警察に連絡した、面倒臭いなと思いながら…玄関に腰を下ろして、犬の頭を撫でてやった、犬は嬉しそうに目を細めた、玄関の灯りをつけたかったけれど、それに照らされるもののことを考えるとやめておいたほうがよさそうだった、犬は短く、小さな一度声で吠えた、夢でも見てんのかな、そんなふうに考え始めたころ、パトカーのサイレンがどこかから聞こえてきた。










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