先週、六本木でひとつのバーが閉店した。
閉店の前日、バーテンダーから携帯の留守電にメッセージがあった。
『お久しぶりでございます。
大変急なのですが、明日で閉店することとなりました。
話すと長くなるので、この電話で理由を申し上げることが出来ません。
たいへんお世話になり、ありがとうございました。
グラスをお預かりしているのですが、いかようにさせて頂ければよろしいでしょうか。
ご指示頂ければその通りに致しますので、よろしくお願い致します。』
バーテンダーから急に電話を貰って驚いた。
しっかりと常連客も付いていたあの店が閉店することに驚いた。
グラスの処置について聞かれたことに驚いた。
まだあのグラスを取って置いてくれたのか。
偶然のことだが、このバーにはオープンした当初に入店した。
そのとき私は既にかなり酔っていた。
初対面のバーテンダーに対して適当に悪態をついた後にマティーニを頼んだ。
出されたマティーニの美味しさにたまげ、さらに杯を重ねた。
そしてデロデロに酔いつぶれた。
翌日、前夜の失態を詫びに行った。
そこでは前日と変わらず、無口だが礼儀正しい若者がグラスを磨いていた。
『いらっしゃいまし。今日は如何致しましょう。』
無表情なのに冷たい感じは受けない。
不思議な若者だ。
マティーニから始まって、再びカクテルを舐めていく。
結局この日も随分と酔った。
このバーの一角の小部屋はヒュミドールとなっていた。
ヒュミドールとはシガーを保存しておく給湿容器や部屋のことだ。
店の壁にはシガーをくわえたチェ・ゲバラの大きな写真。
シガー界の重鎮と言われるような人も出入りしていた。
この店で随分とシガーについて教えられた。
若者はこの店がオープンするまで、某大使館のビルの地下にある、とんでもない金持ちばかりがメンバーの会員制クラブのバーにいた。
クラブには財界の重鎮も顔を見せるが、そこらのIT成金では顔すら出せない。
皇族を神輿に頂くこのクラブには普通の人は出入りできない。
どんな経緯でこの若者がそこで働くことが出来たのかは知らないが、そこでの経験は良い意味でも悪い意味でも彼の肥やしになっていた。

六本木の店に移ってきてからも、彼の接客スタイルが大きく変わることはなかった。
物静かだが自信を持った対応。
モルトやバーボンなどの品揃えを自慢するような店ではなかったが、どこからか珍しい酒を入手していた。
以前、
反則技のマティーニについて書いたことがあるが、それを飲ませてくれたのはこの若者だった。
この店はカクテルとシガーだけではなく、中国茶も楽しめた。
台湾から輸入している凍頂烏龍茶、その中でもかなり特殊で高価なものも揃えていた。
茶器もあり、聞き茶もできた。
六本木で食事をすると、カミさんはこの店で中国茶を飲みたがった。
そんな客のために中国茶の淹れ方もきちんと勉強していた。
カクテルとシガーと中国茶。
そんな取り合わせをそれぞれの客が楽しんでした。
私は店も酒も気に入り、何時しか自分のグラスを持ち込んでいた。
好きな空間で、好きな酒を、好きなグラスで、好きなように飲みたかったからだ。
店にとってグラスを預かるというのは良し悪しだ。
預けた客は頻繁に来店するだろうが、預かり物のグラスには気を使う。
そもそもグラスは消耗品だ。
洗っているうちに割れることは稀ではない。
私は見たことはないが、グラスの中で酒をかき回しているうちに底が抜けることもあると言う。
店は必要以上に気を使うことになる。
それに専用グラスが増えてしまうと置き場所にも困る。
店からすると差し引きはマイナスだろう。
グラスを持ち込むというのは、ただただ私が我儘をいっているだけの事なのだ。
私の働く場所が変わり徐々に六本木に行く回数が減っても、目の前に出されるグラスはいつも磨いてあった。バーマンならば当たり前の仕事なのだが、磨き上げられた自分のグラスを出されるのは嬉しいものだ。
友人や同僚に紹介しているうちにこんなこともあった。
良い店があるからと誘われて六本木に行ったとき、その初めて一緒に飲む人に連れて行かれたのはこの店だった。
聞けば私が紹介した友人が更に同僚に紹介し、同じ業界を巡り巡って紹介の輪が私に戻ってきたのだった。
行き始めたオープン当初には暇そうだった店が、その頃には常連客であふれるようになっていた。

都心に飲みに行くことがほとんどなくなり、この2年ほどはご無沙汰していた。
それでも連絡を受けて店に行ってみると、やはりグラスはピカピカに磨かれて置いてあった。
久しく訪れていなかったことを詫び、閉店の理由は聞かずにただマティーニを頼んだ。
相変わらず切れの良いマティーニが出てきた。
あの頃のように3口で飲み干し、ラフロイグを頼む。
若者はニコリとしながら私のグラスを取り上げる。
あの頃と同じようにラフロイグをロックでつくる。
2年ぶりで自分のグラスにフィンガープリントをつけた。
この日は直ぐに酔いが回ってしまった。
六本木から帰るにはまだ早い時間だったが退散することにした。
いつもと同じようにエレベーターホールまで送りに来た若者は、明るい照明の下で見ると中堅バーテンダーの顔になっていた。
良い顔つきだった。
『このグラスはまた私がお預かりしたいので、ご連絡させてください。』
今までのお礼を言いながら握手をすると、バーテンダーは両手を差し出しながらそう言った。
グラスは私が持って帰るが、もちろん待っている。
このグラスの置き場所が決まったと言う連絡が入るのを。
そしてまた我儘を言わせてもらえる日を。

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